第69話「卒業式前夜」
卒業式の前日だった。
翌日、私たちは、この学院を卒業する。
その日を選んだのは、偶然ではなかった。
倉橋から、正式な連絡が来たのは、三日前だった。
「明日、逮捕状が執行されます」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で、様々なことが、一気に整理された。
逮捕は、明日の朝、行われる予定だった。
その前に、私は、蒼と、話さなければならないと思った。
何も知らないまま、逮捕される蒼を、見たくなかった。それが、正しい選択かどうか、分からなかった。でも、そうしなければならないという気持ちが、自分の中で、揺るがなかった。
放課後、蒼にメッセージを送った。
「今日、講堂に来てくれる?」
いつもと違う場所だった。図書室でも、射場でも、彼の部屋でもない。
すぐに、返信が来た。
「うん。何かあるの」
「話したいことがある」
それだけ、送った。
講堂は、卒業式の準備で、既に会場が整えられていた。椅子が、規則正しく並んでいた。舞台には、垂れ幕がかかっていた。
誰もいない講堂に、一人で立った。
夕方の光が、窓から差し込んでいた。オレンジ色の光が、椅子の列を、静かに照らしていた。
この場所を選んだ理由を、自分でも、完全には説明できなかった。ただ、教室でも、二人の日常があった場所でもない、中立の空間が、必要な気がした。
足音が、講堂の外から聞こえた。
扉が開いた。
蒼が、入ってきた。
「呼び出すなんて、珍しいね」蒼は言った。「何かあった?」
その声は、いつも通り、穏やかだった。
私は、すぐには、答えなかった。
蒼が、少しずつ、近づいてきた。
「リア」蒼が言った。「顔色、悪いよ」
「大丈夫」私は言った。
蒼が、立ち止まった。私との距離が、数メートルのところで。
その距離が、今日は、いつもより、遠く感じられた。
「何を話したいの」蒼が聞いた。
夕方の光が、蒼の顔を、半分だけ照らしていた。
その顔を、じっと見た。
図書室で本を読んでいた顔。射場で私を待っていた顔。彼の部屋で、料理を作っていた顔。
その全部が、今、目の前にあった。
同時に、あのファイルの中身も、頭の中に、鮮明に浮かんでいた。
千景の記録。ストーカーの男性の記録。父の記録。
守護対象。最優先。永続。
「明日」私は、ようやく口を開いた。「卒業式だね」
「うん」蒼は、少し不思議そうな顔をした。「そのことを話すために、呼んだの」
「違う」私は言った。
講堂の中に、静けさが、満ちていた。
外から、微かに、部活動の声が聞こえてきた。それ以外は、何も聞こえなかった。
「じゃあ、何」蒼は聞いた。
その声に、まだ、いつもの穏やかさがあった。
これから話すことで、その穏やかさが、どう変わるのか。
想像すると、体が、少し震えた。
でも、ここまで来て、引き返すことは、できなかった。
「蒼くん」私は言った。「今日、全部、話す」
蒼の表情が、わずかに、変わった。
「全部、って」
「聞いて」私は言った。「最後まで」
蒼は、しばらく、私を見ていた。
その目に、何かが、動いていた。何かを、察しているような、そんな目だった。
夕方の光が、少しずつ、弱くなっていった。講堂の中の影が、長く伸びていった。
蒼は、何も言わなかった。
ただ、静かに、私の言葉を、待っていた。
その沈黙が、これから始まる対話の、重さを、物語っているようだった。
私は、深く息を吸った。
これから話すことが、今日という日を、そして、明日という日を、決定的に変えることになる。
それでも、話さなければならなかった。
蒼が、少しずつ、私の方へ、歩み寄ってきた。
「リア」蒼は、静かに言った。「怖い顔してる」
その言葉に、私は、何も答えなかった。
蒼が、私の目の前で、立ち止まった。
二人の距離が、今、最も近くなっていた。
夕方の光が、完全に、講堂の中から消えようとしていた。
窓の外の空が、深い橙色から、紫がかった色へと、変わり始めていた。
その光の中で、私たちは、向かい合っていた。
言葉にならない緊張が、二人の間に、満ちていた。
私は、左手を、そっと持ち上げた。
指輪が、薄暗い光の中で、静かに光っていた。
「蒼くん」私は言った。
その声が、自分でも驚くほど、静かだった。
蒼は、その手を、じっと見ていた。
何かを、既に、察しているようだった。
私は、指輪を、そっと、外し始めた。
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