第68話「少し遅くなる」
一週間が経とうとしていた。
その間、蒼とは、いつも通り会っていた。図書室で、射場で、時には彼の部屋で。
いつも通り、というのが、日に日に、難しくなっていた。
咲良からの連絡は、少しずつ、頻度が増えていた。「何か進展あった?」というメッセージが、毎日のように届いた。
倉橋からの連絡は、思ったより少なかった。「慎重に進めています」という短い言葉だけが、時折届いた。
その待ち時間の中で、蒼との日常が、続いていた。
その日の放課後、蒼の部屋に行った。
いつも通り、蒼が料理を作ってくれた。今日はカレーだった。
「最近、何かあった?」と食事の途中で、蒼が聞いた。
その質問が、今週、何度目かになっていた。
「特に」私は答えた。
「そう」蒼は、それ以上、深く聞いてこなかった。
食事が終わって、二人でソファに座った。
蒼が、テレビをつけた。何かの番組が流れていたが、内容は、頭に入ってこなかった。
「大学のこと、考えてる」蒼が、ふと言った。
「大学」
「進路のこと。もう三年生だから」
その話題を、これまで蒼と、あまりしたことがなかった。
「蒼くんは、どこか考えてるの」
「まだ、決めてない」蒼は言った。「リアと、同じ大学がいいと思ってる」
その言葉に、胸の奥が、締め付けられた。
蒼は、この先の未来を、私と一緒に想像していた。
でも、その未来が、実際には、もう存在しないかもしれない。
「そうだね」私は、なんとか、いつも通りの声で言った。「一緒だったら、いいね」
蒼は、少し笑った。
その笑顔を、しばらく、見ていた。
今、目の前にいるこの人が、あと何日、こうして笑っていられるのか。
その考えが、頭から、離れなかった。
「リア」蒼が、ふと言った。
「うん」
「最近、俺のこと、あまり見てくれない気がする」
その言葉に、心臓が、大きく跳ねた。
「そう?」私は言った。「気のせいだと思う」
「気のせいかな」蒼は、少し、寂しそうな顔をした。
その表情を見て、胸が痛んだ。
蒼は、何も知らない。彼の日常が、少しずつ崩れ始めていることを、彼自身は、まだ気づいていない。
夜になって、帰る時間になった。
蒼が、駅まで送ってくれた。
「また明日」蒼が言った。
「また明日」
改札を抜けて、蒼の姿が、見えなくなるまで、見送った。
ホームに降りた。電車を待った。
スマートフォンを、取り出した。
倉橋から、メッセージが来ていた。
「明日、逮捕状の請求が完了します」
その文字を、何度も、読み返した。
明日。
その言葉が、頭の中で、重く響いた。
明日、この日常が、終わる可能性があった。
電車に乗った。窓の外の景色が、流れ始めた。
家に帰った。颯太が、リビングにいた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日も、蒼くんの部屋?」
「うん」
颯太は、少しの間、私を見ていた。
「姉ちゃん、最近、疲れてる感じする」颯太は言った。
「そう?」
「うん。何か、あった?」
その質問に、答える言葉が、見つからなかった。
「ちょっと、色々」私は言った。
颯太は、それ以上、深く聞いてこなかった。
自室に戻った。ベッドに座った。
明日、逮捕状の請求が、完了する。
その事実を、頭の中で、繰り返し、確かめた。
明日から、事態が、どう動くのか、まだ分からなかった。
でも、蒼との、この穏やかな日々が、確実に、終わりに近づいていることだけは、分かった。
窓の外を、見た。夜の街の明かりが、遠くに見えた。
スマートフォンを、また手に取った。
蒼のトーク画面を、開いた。
何も、打たなかった。
ただ、画面を、見つめていた。
電話をかけようと思った。
明日、何が起きるか分からない。今夜、蒼の声を、もう一度、聞きたかった。
発信ボタンを、押した。
コール音が、鳴った。
三回目のコール音の途中で、蒼が出た。
「リア」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が、締め付けられた。
「今日、少し遅くなる」
自分の口から出た言葉が、今日という意味ではなく、これから先の何かを、暗示しているように、自分でも感じた。
蒼が、少しの間、黙っていた。
「何かあった?」蒼は聞いた。
「ううん」私は言った。「ただ、声が聞きたかっただけ」
その言葉に、嘘はなかった。
電話の向こうで、蒼が、少し笑った気配がした。
「そっか」蒼は言った。「おやすみ、リア」
「おやすみ」
電話を切った。
スマートフォンを、握りしめたまま、しばらく、動けずにいた。
窓の外の夜が、静かに、深くなっていった。
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