第67話「逮捕状」
『今日、少し遅くなる?』
蒼からのメッセージを、しばらく見つめていた。
いつもと変わらない、何気ない一文だった。でも今夜は、その言葉が、いつもより重く感じられた。
『少し』とだけ、返した。
嘘ではなかった。少し、というのが、どれくらいの意味を持つのか、今の自分には、分からなかった。
既読がついた。
『分かった。気をつけて』
その返信を見て、胸の奥が、また痛んだ。
いつも通りの、優しい言葉だった。その優しさの裏に、今日、私が何をしていたか、蒼は知らない。
スマートフォンを、鞄にしまった。
夜の道を、駅に向かって歩いた。
翌日から、事態が、少しずつ動き始めた。
放課後、咲良から連絡が来た。「倉橋さんから、何か聞いてる?」という短いメッセージだった。
『まだ』と返した。
その日の夜、倉橋から電話があった。
「瀬戸川さん」倉橋の声は、いつもより、少し緊張しているように聞こえた。「先日の証言を、正式な調書として、まとめました」
「はい」
「橘さんからも、脅迫についての証言を、いただきました」倉橋は続けた。「二つの証言と、これまで蓄積してきた情報を、合わせて、上に提出します」
「提出、というのは」
「逮捕状の請求です」倉橋は、はっきりと言った。
その言葉を聞いた瞬間、心臓が、大きく鳴った。
「進むんですね」私は言った。
「進みます」倉橋は言った。「ただ、時間がかかります。証拠の精査、書類の準備。全て、慎重に進める必要があります」
「どれくらい、かかりますか」
「早くて、一週間」倉橋は言った。「それ以上、かかる可能性もあります」
一週間。その数字が、頭の中で、重く響いた。
「その間」私は聞いた。「私は、何をすればいいですか」
倉橋は、少しの間、答えなかった。
「今まで通り、過ごしてください」倉橋は、慎重に言った。「不自然な行動は、避けてください」
「今まで通り」
「蒼くんに、何か、気づかせるようなことは、しないでください」倉橋は続けた。「彼が、逃走を図る可能性があります」
その言葉に、背筋が冷たくなった。
蒼と、今まで通り、会い続けなければならない。図書室で、射場で、彼の部屋で。何も知らないふりを、続けなければならない。
「できますか」倉橋は聞いた。
「やります」私は言った。声が、少し震えていた。
電話を切った後、しばらく、部屋の中で、動けずにいた。
翌日、学校で、蒼と会った。
図書室で、いつも通り、蒼が待っていた。
「おはよう」と蒼が言った。
「おはよう」
自分の声が、いつも通りに出ているか、確かめる余裕はなかった。ただ、口から、出てしまった。
蒼は、本を開いていた。いつもの、静かな朝だった。
「昨日、遅かったね」蒼が言った。「何してたの」
その質問に、答える準備は、していたつもりだった。それでも、心臓が、大きく跳ねた。
「咲良と、話してた」私は言った。
嘘ではなかった。全部を、言わなかっただけだった。
「何を話してたの」
「進路のこと」
嘘だった。今まで、こんなに簡単に、蒼に嘘をついたことはなかった。
蒼は、それ以上、深く聞いてこなかった。本のページを、めくっていた。
その横顔を、見た。
穏やかな顔だった。何も知らない顔だった。
この人が、これから、逮捕されるかもしれない。
その事実が、頭の中で、まだうまく実感できなかった。
放課後、射場に行った。
弓を引いた。今日は、なかなか整わなかった。十本のうち、六本しか入らなかった。
蒼が、いつものように、入り口で見ていた。
「今日は、少し乱れてるね」蒼が言った。
「うん」
「何かあった?」
「疲れてるだけ」
また、嘘をついた。
蒼は、それ以上、追及しなかった。ただ、静かに、見ていた。
片付けをしながら、蒼が言った。
「最近、少し、様子が違う気がする」
その言葉に、指先が、一瞬、止まった。
「そう?」私は、なんとか、いつも通りの声で言った。
「気のせいかもしれないけど」蒼は言った。「なんとなく」
「気のせいだよ」
蒼は、しばらく、私を見ていた。
その視線を、今日は、いつもより、耐えがたく感じた。
「帰ろうか」蒼が言った。
「うん」
射場を出た。夕方の廊下を、並んで歩いた。
いつもと同じ道。いつもと同じ距離。
でも、今日は、その全部が、違って見えた。
改札の前で、別れた。
「また明日」蒼が言った。
「また明日」
蒼が、改札を抜けていった。
その背中を、いつもより、長く見ていた。
ホームに降りた。電車を待ちながら、スマートフォンを見た。
咲良からのメッセージが来ていた。
『倉橋さんから、連絡あった?』
『あった』と返した。『進んでるって』
『そう』とだけ、返ってきた。
その短い返信の中に、咲良の緊張が、滲んでいる気がした。
電車が来た。乗り込んだ。窓の外の景色が、流れ始めた。
一週間。あるいは、それ以上。
その間、蒼と、今まで通り、過ごさなければならなかった。
彼の隣で、笑って、話して、何も知らないふりをして。
その全部が、今の自分にできるのか、分からなかった。
でも、やるしかなかった。
窓に映る自分の顔を、見た。
疲れているように見えた。でも、その奥に、これまでとは違う、何かが、宿っている気がした。
家に帰った。颯太が、リビングにいた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日、疲れてる?」
「少し」
「弓道、うまくいかなかった?」
「うん」
颯太は、それ以上、聞いてこなかった。
自室に戻った。ベッドに座った。
スマートフォンを、見た。
蒼からのメッセージは、来ていなかった。
その静けさが、今夜は、少し、怖かった。
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