第66話「あの人たちへの責任」
「蒼くんを、守りたいからじゃありません」
その言葉を、一度、口に出した。
倉橋が、少しだけ、身を乗り出した。続きを、待っていた。
「あの人たちに対して」私は続けた。「私も、黙っていました」
その言葉を、はっきりと、言葉にした。
「千景さん」私は言った。「あの夜のストーカーだった男性。二人とも、蒼くんに、傷つけられました」
倉橋は、静かに、聞いていた。
「私は、その事実を、知っていました」私は続けた。「知っていて、何もしませんでした」
自分の言葉が、初めて、はっきりとした輪郭を持ち始めている気がした。
「蒼くんへの気持ちが、なかったわけじゃありません」私は言った。「今も、ないとは言えません」
その正直さを、認めることも、必要だった。
「でも」私は続けた。「今、ここに来た理由は、蒼くんを守るためじゃありません」
倉橋は、じっと、私を見ていた。
「傷つけられた人たちに対して」私は言った。「私は、ずっと、責任を感じてきました」
その言葉を口にしながら、頭の中で、これまでの記憶が、次々と蘇ってきた。
「千景さんは、廊下で、私に、話しかけてくれたことがありました」私は言った。「屋上で、話したこともありました」
千景の言葉が、蘇ってきた。存在を認められないことより、最初から見えていないことの方が、きつかった。
「千景さんが、あんな目に遭ったのは、私が、彼女を見ていなかったことも、原因の一つでした」私は言った。「そして、蒼くんが、彼女を心理的に解体したことを、私は、知りながら、見過ごしました」
倉橋は、何も言わなかった。ただ、静かに、聞き続けていた。
「ストーカーだった男性のことも」私は続けた。「私は、直接、何をされたかは知りません。でも、精神的に破壊された、という結果は、知っています」
その言葉を、口にするのは、辛かった。
「私が、あの夜、警察に、本当のことを話していたら」私は言った。「彼が、あんな状態にならずに済んだかもしれません」
「それは」倉橋が、静かに口を挟んだ。「あなた一人の責任では」
「分かっています」私は、倉橋の言葉を遮った。「でも、責任の一部は、確かに、私にもあります」
倉橋は、それ以上、何も言わなかった。
「私は」私は続けた。「傷つけられた人たちに、何もしてあげられませんでした。せめて今、私にできることは、これ以上、蒼くんが誰かを傷つけるのを、止めることです」
自分の言葉が、これまでの自分とは、少し違う場所から来ている気がした。
「蒼くんのためじゃありません」私は、もう一度、言った。「千景さんのため。あの男性のため。そして、これから先、蒼くんが傷つけるかもしれない、誰かのためです」
倉橋は、しばらく、無言だった。
「あなたは」倉橋は、ようやく口を開いた。「その言葉を、自分の中で、どれくらい考えてきましたか」
「ずっと」私は言った。「あの部屋で、ファイルを見た日から、ずっと考えていました」
「答えは、すぐに出ましたか」
「いいえ」私は正直に言った。「何日も、迷いました。蒼くんへの気持ちと、傷つけられた人たちへの責任と。その二つの間で」
倉橋は、深く頷いた。
「その迷いの末に」倉橋は言った。「今、この結論に、辿り着いたんですね」
「はい」
「あなたは」倉橋は、静かに言った。「強い人ですね」
その言葉に、少し戸惑った。
「強いとは、思いません」私は言った。「今も、怖いです。これから、何が起きるのか」
「怖くても」倉橋は言った。「動くことを、選んだ」
「はい」
倉橋は、テーブルの上の手帳を、閉じた。
「瀬戸川さん」倉橋は、改まった口調で言った。「あなたの証言は、これまで、僕らが掴めなかった、重要な部分を、埋めるものです」
「それは」
「今回のあなたの証言と」倉橋は続けた。「橘さんから聞いた、脅迫の事実。それから、これまで五年間、蓄積してきた情報を、合わせれば」
倉橋は、一度、言葉を切った。
「動ける可能性があります」
その言葉に、心臓が、大きく鳴った。
「動ける、というのは」私は聞いた。
「逮捕状の請求です」倉橋は、はっきりと言った。
その言葉を、頭の中で、何度も、繰り返した。
「本当に、できるんですか」私は聞いた。
「これまで、証拠が不十分でした」倉橋は言った。「でも、あなたの証言があれば、状況が変わります」
倉橋の目に、これまで見たことのない、強い光があった。
「私は」私は言った。「これから、何をすればいいですか」
「証言を、正式な形で、記録させてください」倉橋は言った。「そして、可能であれば、他にも、確認できることがあれば」
「協力します」
倉橋は、深く頷いた。
「瀬戸川さん」倉橋は言った。「もう一度、確認させてください」
「はい」
「これから、あなたの証言によって、蒼くんは、逮捕される可能性があります」倉橋は言った。「その覚悟は、できていますか」
その質問に、答える前に、一度、目を閉じた。
蒼の顔が、頭の中に浮かんだ。図書室で本を読んでいる顔。射場で私を待っている顔。あの夜、震えていた手。
その全部を、思い浮かべた上で、目を開けた。
「できています」私は言った。
倉橋は、静かに頷いた。
「分かりました」倉橋は言った。「動きます」
窓の外は、もう、すっかり暗くなっていた。
倉橋が、手帳を、鞄にしまった。
「明日から」倉橋は言った。「手続きを進めます。あなたには、また連絡します」
「はい」
カフェを出た。
夜の街を、一人で歩いた。
これから、何が起きるのか、まだ分からなかった。でも、後戻りはできない場所に、足を踏み入れたことだけは、確かだった。
ポケットの中で、スマートフォンが、震えた。
蒼からの、メッセージだった。
『今日、少し遅くなる?』
その一文を、しばらく見つめていた。
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