第63話「咲良の沈黙」
「咲良」と私は、もう一度、名前を呼んだ。
咲良は、窓の外を見たまま、しばらく答えなかった。
「言いたくないなら、いい」と私は言った。「無理に聞かない」
咲良は、小さく首を振った。
「言うべきだと思う」咲良は、静かに言った。「もう、隠しておくべきことじゃない」
咲良は、深く息を吸った。
「二か月前」咲良は、話し始めた。「蒼くんに、呼び出された」
「呼び出された」
「新聞部の調査のことで、話がある、って」
咲良は、ノートを、強く握っていた。
「行ったら、蒼くんは、一枚の書類を見せてきた」
「書類」
「私の父の」咲良は、言葉を選びながら言った。「昔の、事故の記録」
「事故」
咲良は、しばらく、黙っていた。
「五年前」咲良は、ようやく言った。「父が、飲酒運転で、事故を起こしたことがある」
その言葉に、私は息を止めた。
「幸い、怪我人は出なかった」咲良は、続けた。「でも、父は、その事実を、隠蔽した。会社の力を使って、記録を消した」
咲良の声は、平坦だった。感情を、抑えようとしているのが分かった。
「それを、蒼くんが、知っていた」
「どうやって」
「分からない」咲良は言った。「でも、証拠を持っていた。当時の警察の記録。関係者の証言。全部、揃っていた」
咲良は、一度、目を閉じた。
「蒼くんは、こう言った」咲良は、静かに続けた。「『咲良の正義を貫けば、咲良の父親が、法に裁かれることになる』」
その言葉が、部室の中に、静かに落ちた。
「私は」咲良は、声を震わせた。「正義を信じてる。ずっと、信じてきた。でも、その正義を貫いたら、父が、社会的に終わる」
咲良の目に、涙が浮かんでいた。
「父を、守りたかった」咲良は言った。「正義よりも、家族の方が、大事だった」
その言葉を聞きながら、私は、何も言えなかった。
「だから」咲良は続けた。「調査を、続けられなくなった。倉橋さんとの連絡も、控えるようになった」
「私に、何も言わなかったのは」
「言えなかった」咲良は言った。「言えば、リアさんが、私を助けようとするかもしれない。でも、そうしたら、蒼くんが、何をするか分からなかった」
咲良は、ノートを、テーブルの上に置いた。
「私は」咲良は言った。「正義を、貫けなかった。自分の正義よりも、家族を選んだ」
その告白が、咲良にとって、どれほど重いものか、伝わってきた。
「咲良」と私は、ようやく言った。「それは、咲良のせいじゃない」
「でも」咲良は言った。「私は、リアさんに、何も言わずに、黙ってた。それは、私の選択だった」
咲良の声が、震えていた。
「私も、共犯だったのかもしれない」咲良は言った。「知っていることを、隠し続けたから」
「咲良」
「ごめん」咲良は言った。「もっと早く、話すべきだった」
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
窓の外の風が、また木の枝を揺らしていた。
「咲良」と私は、静かに言った。「謝らなくていい」
咲良は、顔を上げた。
「咲良も、同じように、脅されてた」私は言った。「同じように、追い詰められてた。私と、同じように」
咲良は、少しの間、私を見ていた。
「私たち」と私は言った。「二人とも、蒼くんに、大切なものを握られてた」
咲良の目から、涙が、一筋、こぼれた。
「これから、どうしたらいい」咲良は言った。「私、正直、怖い」
「怖いのは、私も同じ」
「でも」咲良は言った。「リアさんは、動こうとしてる。私は、動けなかった」
「動けなかったんじゃない」私は言った。「動けない理由が、あっただけ」
咲良は、しばらく、黙っていた。
「倉橋さんに、連絡する」と私は言った。「一人で、行く」
「一人で」咲良は、驚いた顔をした。「危なくない?」
「危ないと思う」私は言った。「でも、これ以上、誰かを、巻き込みたくない」
「私は」咲良は言った。「もう、巻き込まれてる」
「これ以上、咲良に、負担をかけたくない」
咲良は、しばらく、私を見ていた。
「リアさんが、一人で行くなら」咲良は言った。「私も、何かできることがあれば、言って」
「ありがとう」
「本当に、大丈夫?」咲良は聞いた。「蒼くんに、気づかれたら」
その問いに、明確な答えは、なかった。
「分からない」私は正直に言った。「でも、これ以上、黙っていることは、できない」
咲良は、深く頷いた。
「連絡先、渡した通りに」咲良は言った。「倉橋さんは、信頼できる人だと思う」
「うん」
「気をつけて」
「咲良も」
部室を出た。夕方の廊下を、一人で歩いた。
さっき聞いた咲良の話が、頭の中で、繰り返されていた。
咲良の父の、隠蔽された事故。それを、蒼が握っていたこと。
咲良も、私と同じように、蒼の手の中にあった。
蒼が、どれほど多くの人間を、こうして掌握しているのか。想像すると、恐ろしくなった。
でも、その恐怖の中で、一つだけ、はっきりしていることがあった。
これ以上、黙っていることは、できない。
その決意だけを、抱えて、私は、駅への道を歩き続けた。
ポケットの中に、倉橋の連絡先が書かれたメモが、入っていた。
明日、連絡する。
その決意を、もう一度、確かめながら、夕暮れの道を歩いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




