第61話「決意」
夜が、深くなっていた。
スマートフォンを、握ったまま、私は、ベッドの上に座り続けていた。
何度も、同じ問いを、自分に投げかけていた。
このまま、何もしないのか。
何もしない、というのが、どういうことか、少しずつ、はっきりしてきていた。
何もしない、というのは、これまでと同じことだった。見て見ぬふりをする。聞かないことを選ぶ。知らないままでいることを、選び続ける。
その選択を、私はずっと続けてきた。千景の炎上のとき。ストーカー事件のとき。そして、あの夜、蒼を抱きしめて、警察には言わないと決めたとき。
その全部の先に、今があった。
千景。ストーカーの男性。私の父。そして、四十七件の些細な言葉、六件の要注意、三件の排除検討中。
その一つ一つに、私が知らないふりを続けたことが、繋がっていた。
知らないふりを続けることが、優しさだと思っていた時期があった。蒼を信じることだと、思っていた。
でも、今は違った。
知らないふりを続けることは、優しさではなかった。それは、蒼が誰かを傷つけ続けることを、黙って見過ごすことだった。
千景は、心理的に解体された。私が、それを知らないふりをしたから。
ストーカーの男性は、精神的に破壊された。私が、それを見て見ぬふりをしたから。
父は、社会的に追い詰められた。私が、そこに蒼の影を感じても、深く考えないことを選んだから。
その全部に、私は、間接的に加担していた。
黙っていることは、優しさではない。
その言葉が、頭の中で、はっきりとした形を持ち始めた。
蒼を、守りたいという気持ちが、まだ自分の中にあることは、否定できなかった。蒼への愛情が、消えたわけではなかった。
でも、その愛情のために、これから先も、蒼が誰かを傷つけ続けることを、黙って見過ごすことは、できなかった。
黙っていることは、私にもできない。
その言葉が、口から出ないまま、頭の中で、確かな形になった。
窓の外を見た。夜の街の明かりが、遠くに見えた。
これから、何をすべきか。
一人で、この問題を、抱え続けることは、もう限界だった。誰かに、話さなければならない。
でも、誰に話せばいいのか。
咲良のことを、思い出した。
咲良は、ずっと調査を続けていた。あの夏から、ずっと。咲良が、何かを掴んでいることは、以前から気づいていた。
咲良になら、話せるかもしれない。
でも、話すということは、咲良を、この問題の中に、さらに深く引きずり込むことでもあった。
咲良の身に、何かが起きる可能性を、考えなかったわけではなかった。
蒼のファイルの中に、咲良の名前があった。要注意。継続的な調査活動を確認。情報統制、必要に応じて牽制。
その言葉を、思い出した。
咲良は、既に、蒼から警戒される対象になっていた。もし、私が咲良に話せば、その状況が、さらに悪化するかもしれない。
それでも。
咲良は、既に、一人で危険な場所に、足を踏み入れていた。私が話さなくても、咲良は、既にその中にいた。
だとしたら、私が知っていることを、隠しておく理由はなかった。
むしろ、私が知っていることを話すことで、咲良を、少しでも守れるかもしれない。
その考えに、たどり着いた瞬間、スマートフォンを持つ手に、力が入った。
咲良に連絡しよう。
そう決めた。
でも、何を話せばいいのか。どこから話せばいいのか。
蒼の部屋で見たもの全部を、一度に話すことは、できない気がした。話す順番を、考える必要があった。
まず、咲良が、どこまで知っているのかを、確認する必要があった。
咲良の調査が、どこまで進んでいるのか。倉橋という刑事のことを、咲良自身は、まだ私に話していなかった。でも、咲良が何かを掴んでいることは、感じていた。
咲良も、私に、全部を話していない部分があるのかもしれない。
お互いに、隠していることがある。それを、今夜、明らかにする必要があった。
時計を見た。深夜近かった。今夜、連絡するのは、遅すぎるかもしれなかった。
でも、明日まで待つことが、正しいとも思えなかった。
一晩、この決意を、抱えたまま眠ることが、できる気がしなかった。
スマートフォンを、握り直した。
咲良のトーク画面を、開いた。
何と打てばいいのか、少し考えた。
すぐに全部を話すことは、難しい。でも、何かを、始めなければならなかった。
指を、画面に置いた。
『咲良、まだ起きてる?』
送信した。
既読が、すぐについた。
『起きてるよ。どうしたの』
咲良からの返信が、すぐに来た。
咲良も、今夜、何かを抱えて、起きていたのかもしれない。そう思った。
『明日、少し時間ある?』と私は打った。
『あるよ』とすぐに返ってきた。『何かあった?』
何かあった、という一言に、今夜の全部が、詰まっている気がした。
『話したいことがある』とだけ、打った。
送信ボタンを、押した。
指が、少しだけ震えていた。でも、押せた。それだけで、今夜は、十分だった。
既読が、すぐについた。
しばらく、返信が来なかった。
咲良が、何かを考えているのかもしれなかった。
数分後、返信が来た。
『分かった』
その一言だけだった。
いつもの咲良なら、もっと、色々と聞いてくるはずだった。でも今夜は、それだけだった。
咲良も、何かを感じ取っているのかもしれなかった。
『明日、放課後、新聞部の部室に来て』と、続けて来た。
『分かった』と私は返した。
画面を閉じた。
スマートフォンを、テーブルに置いた。
窓の外を見た。夜が、まだ深く続いていた。
黙っていることは、私にもできない。
その言葉を、もう一度、頭の中で確かめた。
確かめても、恐怖は消えなかった。これから話すことで、何が起きるのか、想像もつかなかった。
蒼との関係が、どうなるのか。咲良を、どこまで巻き込むことになるのか。
それでも、今夜、決めたことを、変えるつもりはなかった。
ベッドに、横になった。
眠れる気がしなかった。それでも、目を閉じた。
明日、咲良に、何を話すか。
その順番を、頭の中で、何度も、組み立て直していた。
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