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【9/17完結!】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第6章「開かずの記録庫」

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第60話「カメラアプリ」

蒼が、リビングに入ってきた。


「待たせてごめん」


顔を上げた。スマートフォンを、手の中に持ったままだった。


「おかえり」


自分の声が、いつも通りに出せたかどうか、分からなかった。でも、蒼は、いつもと同じ表情をしていた。


「今日、何してた?」と蒼が聞いた。鞄を、椅子の背にかけながら。


「本、読んでた」


嘘だった。文庫本は、開いていた。でも、読んではいなかった。


「鍋、いい匂いする」


「もう出来てる」


蒼が、キッチンに向かった。土鍋の蓋を開ける音がした。


「美味しそう」


その声を、背中越しに聞きながら、私は、まだスマートフォンを、手の中に握っていた。


画面は、暗くなっていた。カメラアプリは、閉じてしまっていた。


いつ閉じたのか、覚えていなかった。蒼が入ってきた瞬間、指が勝手に、画面のどこかに触れて、アプリを閉じたのかもしれなかった。


テーブルの上に、スマートフォンを置いた。


夕食が、始まった。


鍋を、二人で食べた。蒼が、具材を取り分けてくれた。


「今日、何食べたい気分?」


その質問に、もう答えていた気がした。記憶が、少し曖昧になっていた。同じ会話を、二度しているのかもしれなかった。


食事が終わった。皿を、二人で洗った。


いつもの、いつも通りの動作だった。皿を洗いながら、蒼が、何か話していた。明日の予定について、話していたと思う。


でも、私の頭の中には、別のことがあった。


寝室の、あの引き出し。


証拠として、写真を撮るべきだったのではないか。


その考えが、皿を洗う間も、消えなかった。


食器を、片付け終えた。ソファに、二人で座った。


蒼が、テレビをつけた。何かの番組が流れていた。内容は、まったく頭に入ってこなかった。


蒼の肩が、隣にあった。いつもなら、その距離を、心地よく感じていた。


今日は、その距離が、ただ重かった。


「疲れてる?」と蒼が、また聞いた。


「少し」


「早く休んだ方がいい」


「うん」


会話が、続かなかった。続けようとする気力が、残っていなかった。


しばらく、テレビの音だけが、部屋に流れていた。


「送っていくね」と蒼が言った。


「うん」


いつもと同じ言葉だった。いつもと同じ流れだった。


荷物をまとめて、玄関に向かった。靴を履いた。


蒼が、ドアを開けた。夜の空気が、入ってきた。


二人で、駅まで歩いた。会話は、いつもより少なかった。


「今日、あまり喋らなかったね」と蒼が言った。


「そう?」


「うん。何かあった?」


心臓が、大きく跳ねた。


「弓道で、疲れただけ」


嘘を、また重ねた。


蒼は、それ以上、深く聞いてこなかった。


駅に着いた。改札の前で、立ち止まった。


「また明日」と蒼が言った。


「また明日」


蒼が、改札を抜けていった。


私は、その背中を、いつもより長く見ていた。


見えなくなってから、ホームに降りた。


電車を、待った。


スマートフォンを、また手に取った。


写真フォルダを、開いた。


蒼と撮った写真が、並んでいた。何気ない日常の記録。今日、その記録を、書き加えることはなかった。


寝室の、あの引き出しの写真は、撮っていなかった。


証拠がない。


そのことに、少しの安堵と、大きな不安が、同時にあった。


安堵は、蒼を、まだ裏切っていない、という感覚だった。


不安は、証拠がなければ、誰にも、何も証明できない、という感覚だった。


電車が来た。乗り込んだ。窓の外の景色が、流れ始めた。


膝の上で、スマートフォンを、握りしめた。


写真を撮らなかったことは、正しい判断だったのか。それとも、後悔するべき選択だったのか。


答えは、まだ出なかった。


家に帰った。颯太が、リビングにいた。


「おかえり」


「ただいま」


「今日、遅かったね」


「蒼くんの部屋にいた」


「そっか」颯太は、それ以上聞かなかった。


自室に戻った。ベッドに座った。


スマートフォンを、また開いた。カメラアプリを、また開いた。


レンズが、部屋の様子を映していた。自分のベッド、机、窓。


シャッターボタンに、指を近づけた。


何を撮ろうとしているのか、自分でも分からなかった。今この瞬間の、何かを、残しておきたいという気持ちだけがあった。


指が、触れなかった。


アプリを、閉じた。


もう一度、開いた。


同じ画面が、そこにあった。


閉じた。


もう一度、開いた。


その繰り返しを、何度したか、覚えていない。


窓の外は、暗くなっていた。夜が、深くなっていった。


スマートフォンを、握ったまま、私は、まだ決められずにいた。


このまま、何もしないのか。それとも、今夜、何かを、始めるのか。


始めるとしたら、何から始めればいいのか。


その答えを探しながら、私は、画面を見つめ続けていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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