第60話「カメラアプリ」
蒼が、リビングに入ってきた。
「待たせてごめん」
顔を上げた。スマートフォンを、手の中に持ったままだった。
「おかえり」
自分の声が、いつも通りに出せたかどうか、分からなかった。でも、蒼は、いつもと同じ表情をしていた。
「今日、何してた?」と蒼が聞いた。鞄を、椅子の背にかけながら。
「本、読んでた」
嘘だった。文庫本は、開いていた。でも、読んではいなかった。
「鍋、いい匂いする」
「もう出来てる」
蒼が、キッチンに向かった。土鍋の蓋を開ける音がした。
「美味しそう」
その声を、背中越しに聞きながら、私は、まだスマートフォンを、手の中に握っていた。
画面は、暗くなっていた。カメラアプリは、閉じてしまっていた。
いつ閉じたのか、覚えていなかった。蒼が入ってきた瞬間、指が勝手に、画面のどこかに触れて、アプリを閉じたのかもしれなかった。
テーブルの上に、スマートフォンを置いた。
夕食が、始まった。
鍋を、二人で食べた。蒼が、具材を取り分けてくれた。
「今日、何食べたい気分?」
その質問に、もう答えていた気がした。記憶が、少し曖昧になっていた。同じ会話を、二度しているのかもしれなかった。
食事が終わった。皿を、二人で洗った。
いつもの、いつも通りの動作だった。皿を洗いながら、蒼が、何か話していた。明日の予定について、話していたと思う。
でも、私の頭の中には、別のことがあった。
寝室の、あの引き出し。
証拠として、写真を撮るべきだったのではないか。
その考えが、皿を洗う間も、消えなかった。
食器を、片付け終えた。ソファに、二人で座った。
蒼が、テレビをつけた。何かの番組が流れていた。内容は、まったく頭に入ってこなかった。
蒼の肩が、隣にあった。いつもなら、その距離を、心地よく感じていた。
今日は、その距離が、ただ重かった。
「疲れてる?」と蒼が、また聞いた。
「少し」
「早く休んだ方がいい」
「うん」
会話が、続かなかった。続けようとする気力が、残っていなかった。
しばらく、テレビの音だけが、部屋に流れていた。
「送っていくね」と蒼が言った。
「うん」
いつもと同じ言葉だった。いつもと同じ流れだった。
荷物をまとめて、玄関に向かった。靴を履いた。
蒼が、ドアを開けた。夜の空気が、入ってきた。
二人で、駅まで歩いた。会話は、いつもより少なかった。
「今日、あまり喋らなかったね」と蒼が言った。
「そう?」
「うん。何かあった?」
心臓が、大きく跳ねた。
「弓道で、疲れただけ」
嘘を、また重ねた。
蒼は、それ以上、深く聞いてこなかった。
駅に着いた。改札の前で、立ち止まった。
「また明日」と蒼が言った。
「また明日」
蒼が、改札を抜けていった。
私は、その背中を、いつもより長く見ていた。
見えなくなってから、ホームに降りた。
電車を、待った。
スマートフォンを、また手に取った。
写真フォルダを、開いた。
蒼と撮った写真が、並んでいた。何気ない日常の記録。今日、その記録を、書き加えることはなかった。
寝室の、あの引き出しの写真は、撮っていなかった。
証拠がない。
そのことに、少しの安堵と、大きな不安が、同時にあった。
安堵は、蒼を、まだ裏切っていない、という感覚だった。
不安は、証拠がなければ、誰にも、何も証明できない、という感覚だった。
電車が来た。乗り込んだ。窓の外の景色が、流れ始めた。
膝の上で、スマートフォンを、握りしめた。
写真を撮らなかったことは、正しい判断だったのか。それとも、後悔するべき選択だったのか。
答えは、まだ出なかった。
家に帰った。颯太が、リビングにいた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日、遅かったね」
「蒼くんの部屋にいた」
「そっか」颯太は、それ以上聞かなかった。
自室に戻った。ベッドに座った。
スマートフォンを、また開いた。カメラアプリを、また開いた。
レンズが、部屋の様子を映していた。自分のベッド、机、窓。
シャッターボタンに、指を近づけた。
何を撮ろうとしているのか、自分でも分からなかった。今この瞬間の、何かを、残しておきたいという気持ちだけがあった。
指が、触れなかった。
アプリを、閉じた。
もう一度、開いた。
同じ画面が、そこにあった。
閉じた。
もう一度、開いた。
その繰り返しを、何度したか、覚えていない。
窓の外は、暗くなっていた。夜が、深くなっていった。
スマートフォンを、握ったまま、私は、まだ決められずにいた。
このまま、何もしないのか。それとも、今夜、何かを、始めるのか。
始めるとしたら、何から始めればいいのか。
その答えを探しながら、私は、画面を見つめ続けていた。
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