第59話「夕食」
キッチンに立った。
冷蔵庫を開けた。中に何が入っているか、確認するはずだったが、目に映るものが、頭の中でうまく繋がらなかった。
白菜、豚肉、豆腐。今日は鍋にしよう、と決めたのは、頭で考えたからではなく、手が勝手に、鍋の材料を選んでいたからだった。
まな板を出した。包丁を手に取った。
白菜を切ろうとして、手が止まった。
刃先が、まな板に触れたまま、動かなかった。
さっき見たものが、まだ頭の中にあった。千景の記録。ストーカーの男性の記録。父の記録。そして、自分の名前が書かれた、あのファイル。
守護対象。最優先。永続。
その言葉が、白菜の上に、重なって見える気がした。
包丁を、もう一度動かした。切る、という単純な動作に、意識を集中させようとした。
白菜が、規則的な音を立てて、切られていった。その音だけに、意識を向けようとした。
でも、意識は、すぐに引き戻された。
蒼が帰ってくるまでに、あの部屋を、元通りにしなければならなかった。
包丁を置いた。手を洗った。寝室に戻った。
散らばった紙を、もう一度確認した。順番が正しいか、自信がなかった。でも、これ以上、時間をかけている余裕もなかった。
引き出しを、閉めた。
鍵は、かかっていなかった。かける方法も、知らなかった。かけるべきかどうかも、分からなかった。
寝室のドアを、そっと閉めた。
キッチンに戻った。まな板の上で、切りかけの白菜が、待っていた。
もう一度、包丁を持った。手が、まだ震えていた。
震える手で、白菜を切り続けた。切り終えた白菜は、大きさが不揃いだった。いつもなら、もう少し丁寧に切るはずだった。でも今日は、それどころではなかった。
豆腐を切った。豚肉を、パックから出した。
土鍋を、棚から取り出した。水を張った。出汁の素を、量りもせずに、目分量で入れた。
いつもと違う手つきに、自分でも気づいていた。でも、直そうとする余裕はなかった。
土鍋を、コンロにかけた。火をつけた。
その間、時計を、何度も確認した。蒼が帰ってくるまでの時間を、頭の中で計算し続けた。あと二十分。あと十五分。あと十分。
時間が経つごとに、緊張が高まっていった。
鍋の中身が、少しずつ煮え始めた。具材を、順番に入れていった。白菜、豆腐、豚肉。順番も、いつもと違っていたかもしれない。でも、今日は、正しい順番を思い出すことすら、難しかった。
火を弱めた。蓋をした。
リビングに戻った。ソファに座った。
膝の上に、両手を置いた。手が、まだ震えていた。
深呼吸をした。何度も、繰り返した。
呼吸を整えながら、自分に言い聞かせた。今夜だけは、いつも通りでいなければならない。
いつも通り、というのが、どういう状態なのか、今の私には、もう分からなくなっていた。それでも、演じるしかなかった。
洗面所に、もう一度行った。鏡を見た。
顔は、疲れて見えた。目の下に、うっすらとした影があった。頬に、少し赤みが差していた。緊張のせいかもしれなかった。
冷たい水で、顔を洗った。何度も、繰り返した。
タオルで拭きながら、鏡の中の自分に、目を合わせた。
大丈夫、と自分に言い聞かせようとした。でも、大丈夫だとは、思えなかった。
リビングに戻った。文庫本を手に取った。開いた。
文字を、目で追った。内容は、まったく入ってこなかった。同じ行を、何度も読み返していた。
玄関の方向で、物音がした。
心臓が、大きく跳ねた。
でも、それは、隣の部屋のドアが閉まる音だった。蒼ではなかった。
安堵と、次に来る不安が、同時にあった。蒼が帰ってくるまでの、この待ち時間そのものが、耐えがたいものになっていた。
キッチンから、鍋の煮える音がした。
立ち上がって、様子を見に行った。蓋を開けた。湯気が、顔にかかった。
具材が、ちょうどいい具合に煮えていた。火を止めた。
リビングに戻る途中、寝室のドアの前を、また通った。
ドアは、閉まっていた。中に、何があるか、もう知っていた。知ってしまったことを、二度と知らなかったことにはできなかった。
ドアの前を、通り過ぎた。振り返らなかった。
ソファに座り直した。文庫本を、また開いた。
スマートフォンが、テーブルの上に置いてあった。手を伸ばした。
画面を、つけた。
何をするつもりだったのか、自分でもはっきりしなかった。ただ、何かに触れていたかった。何か、いつも通りの動作を、していたかった。
写真フォルダを、開いた。
蒼と撮った写真が、何枚か並んでいた。射場での写真、クリスマスの夜の写真、この部屋で撮った写真。
その一枚を、見つめた。
蒼が、笑っている写真だった。この部屋のソファで、少し前に撮った写真だった。今、自分が座っている、まさにこのソファで。
その笑顔と、あのファイルの中身が、頭の中で、うまく重ならなかった。
同じ人間の、二つの側面が、あまりにも違いすぎた。
写真フォルダを、閉じた。
カメラアプリを、開いた。
今この部屋を、写真に撮ろうとしたのか。それとも、寝室の、あの引き出しを、証拠として残そうとしたのか。
自分でも、目的がはっきりしなかった。
指が、画面の上で止まった。
シャッターボタンを、押せなかった。
押すべきか、押さないべきか。証拠を残すことが、正しいのか。それとも、まだそんな段階ではないのか。
答えが、出なかった。
アプリを、閉じた。
玄関の方向から、鍵の音が、聞こえた。
今度は、本物だった。
心臓が、また大きく跳ねた。
スマートフォンを、テーブルに戻そうとした。手が、少し震えていた。
「ただいま」という声が、玄関から聞こえた。
その声を聞いた瞬間、指がもう一度、カメラアプリのアイコンに、触れていた。
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