第58話「本当に信じている」
食卓に、料理が並んでいた。今日は鍋だった。湯気が、部屋の中に広がっていた。
蒼が、取り皿を渡してくれた。
「今日、少し疲れてる?」と蒼が聞いた。
「そう見える?」
「うん、少し」
心臓が、また跳ねた。気づかれているのか、それとも、本当にただの疲労として見えているだけなのか、判断できなかった。
「弓道の練習が長引いて」と答えた。
嘘だった。今日は、部活には行っていなかった。でも、それ以外の理由を、言えるはずがなかった。
蒼は、それ以上、深く聞いてこなかった。鍋の具材を、取り皿に取り分けてくれた。
「ありがとう」
いつも通りの言葉を、いつも通りに言った。
食べながら、いつも通りの会話をしようとした。学校の話、大会の話、颯太の話。頭では、話題を選んでいるつもりだった。でも、口から出る言葉は、どこか上滑りしていた。
蒼は、それに気づいている様子はなかった。あるいは、気づいていても、何も言わないだけなのかもしれなかった。
「リア」と蒼が言った。
「うん」
「最近、いい顔で弓を引いてるって、三上先生に言われたって、前に話してたよね」
「言われた」
「それ、嬉しかった」
蒼が、そう言った。静かな声だった。
「なんで蒼くんが嬉しいの」
「リアが良くなってると、僕も嬉しい」蒼は箸を置いた。「リアが安定してるのを見ると、安心する」
安定、という言葉が、頭の中で、あのファイルの文字と重なった。
対象、弓道部にて安定した精神状態を確認。良好。
同じ言葉が、蒼の口から出て、そして、あのファイルの中にも書かれていた。
「安定してるって」と私は聞いた。「どうやって分かるの」
「見てれば分かる」
「見てる、って」
蒼は、少し不思議そうな顔をした。
「リアの表情とか、姿勢とか。そういうところ」
見ている、という言葉が、これほど広い意味を持っているとは、今日知るまで、思っていなかった。
「蒼くんは」と私は言った。「私のこと、いつも見てるの」
「見てるよ」蒼は、当たり前のことのように言った。「大事だから」
大事、という言葉が、あのファイルの、守護対象、という文字と重なった。
大事にする、ということが、これほどまでの監視を意味するとは、思っていなかった。
「大事にしてくれてるのは、分かってる」と私は言った。声が、少し掠れた。
「でも」と蒼が言った。「何か引っかかってる?」
蒼が、私の変化に、気づき始めている気がした。心臓が、また速くなった。
「大丈夫」と私は言った。「ちょっと考え事してただけ」
蒼は、しばらく私を見ていた。
その視線を、今日は、いつもより重く感じた。見られている、ということが、これほど怖いと思ったのは、初めてだった。
「リアのことは」と蒼が、静かに言った。「これからも、大事にする」
その言葉を、今までの私なら、素直に受け取れていた。
今は、違った。
大事にする、という言葉の裏に、何があるのか。何十件もの記録、何人もの排除、そして、永続、という文字。
その全部が、蒼にとっての「大事にする」の内容だった。
蒼は、悪いことをしている、という自覚を持っていないのかもしれない。
その考えが、頭の中で、はっきりと形を持った。
蒼は、これが正しいと思っている。
千景を排除したことも、ストーカーの男性を精神的に壊したことも、父を閑職に追いやったことも、私に関する何十件もの些細な言葉を記録し続けたことも。
蒼にとって、それは全部、愛の一部だった。
守るための行動。大事にするための行動。愛するための行動。
その全部が、蒼の中では、矛盾なく繋がっていた。
罪悪感のようなものを、蒼が抱いているようには、見えなかった。
少なくとも、今、目の前で鍋を食べている蒼の顔には、何の影もなかった。穏やかで、静かで、いつも通りの蒼だった。
これが、蒼にとっての、当たり前の愛の形だった。
私が今まで知っていた愛の形とは、まるで違う何かだった。でも、蒼にとっては、それこそが、愛そのものだった。
歪んでいる、という言葉を、頭の中で使おうとした。でも、その言葉は、少し違う気がした。
歪んでいる、というのは、本来の形があって、それが変形した、という意味だ。
でも、蒼にとっては、これが最初から、本来の形なのかもしれなかった。
七年前、家族を失って、法が機能しないことを知って。その経験が、蒼の中で、愛というものの意味そのものを、作り変えてしまったのかもしれない。
作り変えられた愛が、蒼にとっての、唯一の愛の形になっていた。
その理解が、私の中に、静かに落ちてきた。
落ちてきた瞬間、体の奥が、また冷たくなった。
蒼を、悪人として断罪することは、簡単だったかもしれない。悪意を持って、私を利用している、という理解なら、まだ分かりやすかった。
でも、目の前にいる蒼は、本気で、私を愛していた。
その愛の形が、これほどまでに歪んでいて、でも本人にとっては、まったく歪んでいない。
その事実の方が、単純な悪意よりも、はるかに恐ろしかった。
「リア」と蒼が言った。「箸、止まってるよ」
「あ、ごめん」
慌てて、箸を動かした。鍋の具材を、口に運んだ。味が、あまりしなかった。
蒼は、また何か話し始めていた。明日の予定について、何か言っていた気がする。
でも、私の頭の中には、さっきの理解だけが、繰り返し響いていた。
蒼は、本当に信じている。
これが愛だと、本当に、信じている。
その言葉を、心の中で、もう一度、確かめた。
確かめても、答えは変わらなかった。
蒼は、私を愛している。心の底から。
その愛の中身が、私を守るための破壊と、監視と、支配で、埋め尽くされていることに、蒼自身は、気づいていない。
気づかないまま、蒼は、これからも、私を愛し続けるのだろう。
その未来を想像したとき、私は、初めて、本当の意味で、怖いと思った。
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