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【9/17完結!】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第6章「開かずの記録庫」

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第58話「本当に信じている」

食卓に、料理が並んでいた。今日は鍋だった。湯気が、部屋の中に広がっていた。


蒼が、取り皿を渡してくれた。


「今日、少し疲れてる?」と蒼が聞いた。


「そう見える?」


「うん、少し」


心臓が、また跳ねた。気づかれているのか、それとも、本当にただの疲労として見えているだけなのか、判断できなかった。


「弓道の練習が長引いて」と答えた。


嘘だった。今日は、部活には行っていなかった。でも、それ以外の理由を、言えるはずがなかった。


蒼は、それ以上、深く聞いてこなかった。鍋の具材を、取り皿に取り分けてくれた。


「ありがとう」


いつも通りの言葉を、いつも通りに言った。


食べながら、いつも通りの会話をしようとした。学校の話、大会の話、颯太の話。頭では、話題を選んでいるつもりだった。でも、口から出る言葉は、どこか上滑りしていた。


蒼は、それに気づいている様子はなかった。あるいは、気づいていても、何も言わないだけなのかもしれなかった。


「リア」と蒼が言った。


「うん」


「最近、いい顔で弓を引いてるって、三上先生に言われたって、前に話してたよね」


「言われた」


「それ、嬉しかった」


蒼が、そう言った。静かな声だった。


「なんで蒼くんが嬉しいの」


「リアが良くなってると、僕も嬉しい」蒼は箸を置いた。「リアが安定してるのを見ると、安心する」


安定、という言葉が、頭の中で、あのファイルの文字と重なった。


対象、弓道部にて安定した精神状態を確認。良好。


同じ言葉が、蒼の口から出て、そして、あのファイルの中にも書かれていた。


「安定してるって」と私は聞いた。「どうやって分かるの」


「見てれば分かる」


「見てる、って」


蒼は、少し不思議そうな顔をした。


「リアの表情とか、姿勢とか。そういうところ」


見ている、という言葉が、これほど広い意味を持っているとは、今日知るまで、思っていなかった。


「蒼くんは」と私は言った。「私のこと、いつも見てるの」


「見てるよ」蒼は、当たり前のことのように言った。「大事だから」


大事、という言葉が、あのファイルの、守護対象、という文字と重なった。


大事にする、ということが、これほどまでの監視を意味するとは、思っていなかった。


「大事にしてくれてるのは、分かってる」と私は言った。声が、少し掠れた。


「でも」と蒼が言った。「何か引っかかってる?」


蒼が、私の変化に、気づき始めている気がした。心臓が、また速くなった。


「大丈夫」と私は言った。「ちょっと考え事してただけ」


蒼は、しばらく私を見ていた。


その視線を、今日は、いつもより重く感じた。見られている、ということが、これほど怖いと思ったのは、初めてだった。


「リアのことは」と蒼が、静かに言った。「これからも、大事にする」


その言葉を、今までの私なら、素直に受け取れていた。


今は、違った。


大事にする、という言葉の裏に、何があるのか。何十件もの記録、何人もの排除、そして、永続、という文字。


その全部が、蒼にとっての「大事にする」の内容だった。


蒼は、悪いことをしている、という自覚を持っていないのかもしれない。


その考えが、頭の中で、はっきりと形を持った。


蒼は、これが正しいと思っている。


千景を排除したことも、ストーカーの男性を精神的に壊したことも、父を閑職に追いやったことも、私に関する何十件もの些細な言葉を記録し続けたことも。


蒼にとって、それは全部、愛の一部だった。


守るための行動。大事にするための行動。愛するための行動。


その全部が、蒼の中では、矛盾なく繋がっていた。


罪悪感のようなものを、蒼が抱いているようには、見えなかった。


少なくとも、今、目の前で鍋を食べている蒼の顔には、何の影もなかった。穏やかで、静かで、いつも通りの蒼だった。


これが、蒼にとっての、当たり前の愛の形だった。


私が今まで知っていた愛の形とは、まるで違う何かだった。でも、蒼にとっては、それこそが、愛そのものだった。


歪んでいる、という言葉を、頭の中で使おうとした。でも、その言葉は、少し違う気がした。


歪んでいる、というのは、本来の形があって、それが変形した、という意味だ。


でも、蒼にとっては、これが最初から、本来の形なのかもしれなかった。


七年前、家族を失って、法が機能しないことを知って。その経験が、蒼の中で、愛というものの意味そのものを、作り変えてしまったのかもしれない。


作り変えられた愛が、蒼にとっての、唯一の愛の形になっていた。


その理解が、私の中に、静かに落ちてきた。


落ちてきた瞬間、体の奥が、また冷たくなった。


蒼を、悪人として断罪することは、簡単だったかもしれない。悪意を持って、私を利用している、という理解なら、まだ分かりやすかった。


でも、目の前にいる蒼は、本気で、私を愛していた。


その愛の形が、これほどまでに歪んでいて、でも本人にとっては、まったく歪んでいない。


その事実の方が、単純な悪意よりも、はるかに恐ろしかった。


「リア」と蒼が言った。「箸、止まってるよ」


「あ、ごめん」


慌てて、箸を動かした。鍋の具材を、口に運んだ。味が、あまりしなかった。


蒼は、また何か話し始めていた。明日の予定について、何か言っていた気がする。


でも、私の頭の中には、さっきの理解だけが、繰り返し響いていた。


蒼は、本当に信じている。


これが愛だと、本当に、信じている。


その言葉を、心の中で、もう一度、確かめた。


確かめても、答えは変わらなかった。


蒼は、私を愛している。心の底から。


その愛の中身が、私を守るための破壊と、監視と、支配で、埋め尽くされていることに、蒼自身は、気づいていない。


気づかないまま、蒼は、これからも、私を愛し続けるのだろう。


その未来を想像したとき、私は、初めて、本当の意味で、怖いと思った。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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