第57話「何の上に」
どれくらいの時間、床に座っていたか、分からなかった。
気づいたら、部屋の中の光が、少し変わっていた。西日が、カーテンの隙間から、赤みを帯びて差し込んでいた。
散らばった紙を、見た。
拾わなければならない。
頭では、それだけを考えていた。他のことは、何も考えられなかった。
手を伸ばした。指先が、まだ震えていた。震えたまま、紙を一枚、拾い上げた。
「対象、弓道部にて安定した精神状態を確認。良好」
自分についての記述だった。もう一度、読んでしまった。読みたくなかったのに、目が勝手に文字を追った。
紙を、ファイルの中に戻した。順番が正しいかどうか、確認する余裕はなかった。ただ、元の位置に近い場所に、押し込んだ。
もう一枚、拾った。
「対象、大会にて優勝の可能性、高。応援準備を検討」
これも、戻した。
一枚ずつ、拾いながら、内容が目に入るたびに、体のどこかが冷えていく気がした。慣れることはなかった。何度読んでも、慣れなかった。
床の紙を、全部拾い終えるまで、どれくらいかかったか、覚えていない。
ファイルを閉じた。表紙の、瀬戸川リア、という文字を、もう一度見た。
見ないようにした。目を逸らした。逸らしても、その五文字は、まぶたの裏に残っていた。
立ち上がろうとした。膝に、力が入らなかった。
壁に手をついた。少しずつ、体を起こした。
寝室の引き出しの前に、ファイルを持って戻った。
千景のファイル。ストーカーの男性のファイル。父のファイル。関係者リスト。そして、自分のファイル。
一冊ずつ、元の位置に戻した。並びが、正確に元通りかどうか、確信は持てなかった。でも、できる限り、記憶を頼りに並べた。
引き出しを、静かに閉めた。
鍵は、かかっていない。かけようとも思わなかった。かけられる立場でもなかった。
寝室のドアを、そっと閉めた。閉まる音が、いつもより大きく響いた気がした。
リビングに戻った。ソファに座った。
自分の呼吸の音を、また聞いていた。
蒼が帰ってくる時間を、確認した。時計を見て、あと三十分もないことに気づいた。
三十分で、何ができるだろう。
何もできない、と思った。何かをする気力が、もう残っていなかった。
でも、いつも通りでいなければならない、という思考だけが、頭のどこかに残っていた。
いつも通り、というのが、どういう状態なのか、今の私には分からなくなっていた。
数時間前まで、いつも通りだった。蒼の部屋に来て、ソファに座って、蒼を待つ。それが、いつも通りだった。
今も、同じ場所に、同じように座っている。でも、もう、いつも通りではなかった。
洗面所に行った。鏡を見た。
自分の顔が、疲れて見えた。目の下に、うっすらと影があった。今日、何時間、この部屋にいたのか、覚えていなかった。
水で顔を洗った。冷たい水が、頬を伝った。
タオルで拭きながら、鏡の中の自分に、問いかけた。
これから、どうするのか。
蒼に、今日見たことを話すのか。話さないのか。
答えは、まだ出なかった。出す時間も、残っていなかった。
リビングに戻って、文庫本を手に取った。開いた。文字は、まったく頭に入ってこなかった。それでも、開いていることに意味があった。
蒼が帰ってきたとき、いつも通りの姿でいる必要があった。本を読んでいる自分。それが、今、演じられる唯一の姿だった。
演じる、という言葉が、頭に浮かんだ瞬間、少し可笑しくなった。
蒼が、いつも整えている、と言っていた。私の前でだけ、整えたいと思う、と言っていた。
今、私も、同じことをしようとしていた。蒼の前で、整えようとしていた。
何も知らない顔を、作ろうとしていた。
その努力が、うまくいくかどうか、自信はなかった。
時計を見た。あと十五分。
深呼吸をした。何度も、繰り返した。
自分の中にある感情を、一つ一つ、名前をつけようとした。
怖い。それは、確かにあった。
悲しい。それも、あった。でも、単純な悲しみとは違う気がした。
怒り。誰に対しての怒りなのか、自分でもはっきりしなかった。蒼に対してなのか、それとも、この状況全体に対してなのか。
そのどれもが、混ざり合って、一つの塊になっていた。名前をつけようとしても、うまく分解できなかった。
ただ、確実に分かっていることが、一つあった。
さっきまでの自分と、今の自分は、違う人間になっていた。
同じ体で、同じ服を着て、同じソファに座っている。でも、知ってしまった以上、もう戻れない場所に、足を踏み入れていた。
玄関の方向で、鍵の音がした。
心臓が、大きく跳ねた。
蒼が帰ってきた。
「ただいま」という声が、玄関から聞こえた。
「おかえり」
自分の声が、震えていないか、聞いた瞬間、確かめる余裕はなかった。ただ、口から出てしまった。
蒼がリビングに入ってきた。
「待たせてごめん」
「全然」
自分の声が、いつもと同じトーンで出せているかどうか、分からなかった。でも、蒼は、いつも通りの表情をしていた。何かに気づいた様子は、なかった。
その事実に、少しだけ、安堵した。
同時に、その安堵が、今の自分にとって、正しい感情なのかどうか、分からなかった。
蒼は、キッチンに向かった。夕飯の支度を始める音がした。
私は、ソファに座ったまま、その音を聞いていた。
いつも通りの音だった。いつも通りの、丁寧な手つきが、想像できた。
その丁寧さの裏に、今日見たもの全てが、詰まっていた。
保留にしよう、と思った。
今夜だけは、この感情を、どこかに一旦しまっておく。名前をつけることも、答えを出すことも、今夜はしない。
いつも通りの夜を、演じきる。
それが、今の私にできる、唯一のことだった。
台所から、蒼の声がした。
「今日、何食べたい気分?」
「なんでもいい」
自分の声が、少しだけ、震えていた気がした。でも、蒼は、何も気づかなかった。
夕飯の匂いが、少しずつ、部屋に広がり始めていた。
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