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【9/17完結!】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第6章「開かずの記録庫」

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第57話「何の上に」

どれくらいの時間、床に座っていたか、分からなかった。


気づいたら、部屋の中の光が、少し変わっていた。西日が、カーテンの隙間から、赤みを帯びて差し込んでいた。


散らばった紙を、見た。


拾わなければならない。


頭では、それだけを考えていた。他のことは、何も考えられなかった。


手を伸ばした。指先が、まだ震えていた。震えたまま、紙を一枚、拾い上げた。


「対象、弓道部にて安定した精神状態を確認。良好」


自分についての記述だった。もう一度、読んでしまった。読みたくなかったのに、目が勝手に文字を追った。


紙を、ファイルの中に戻した。順番が正しいかどうか、確認する余裕はなかった。ただ、元の位置に近い場所に、押し込んだ。


もう一枚、拾った。


「対象、大会にて優勝の可能性、高。応援準備を検討」


これも、戻した。


一枚ずつ、拾いながら、内容が目に入るたびに、体のどこかが冷えていく気がした。慣れることはなかった。何度読んでも、慣れなかった。


床の紙を、全部拾い終えるまで、どれくらいかかったか、覚えていない。


ファイルを閉じた。表紙の、瀬戸川リア、という文字を、もう一度見た。


見ないようにした。目を逸らした。逸らしても、その五文字は、まぶたの裏に残っていた。


立ち上がろうとした。膝に、力が入らなかった。


壁に手をついた。少しずつ、体を起こした。


寝室の引き出しの前に、ファイルを持って戻った。


千景のファイル。ストーカーの男性のファイル。父のファイル。関係者リスト。そして、自分のファイル。


一冊ずつ、元の位置に戻した。並びが、正確に元通りかどうか、確信は持てなかった。でも、できる限り、記憶を頼りに並べた。


引き出しを、静かに閉めた。


鍵は、かかっていない。かけようとも思わなかった。かけられる立場でもなかった。


寝室のドアを、そっと閉めた。閉まる音が、いつもより大きく響いた気がした。


リビングに戻った。ソファに座った。


自分の呼吸の音を、また聞いていた。


蒼が帰ってくる時間を、確認した。時計を見て、あと三十分もないことに気づいた。


三十分で、何ができるだろう。


何もできない、と思った。何かをする気力が、もう残っていなかった。


でも、いつも通りでいなければならない、という思考だけが、頭のどこかに残っていた。


いつも通り、というのが、どういう状態なのか、今の私には分からなくなっていた。


数時間前まで、いつも通りだった。蒼の部屋に来て、ソファに座って、蒼を待つ。それが、いつも通りだった。


今も、同じ場所に、同じように座っている。でも、もう、いつも通りではなかった。


洗面所に行った。鏡を見た。


自分の顔が、疲れて見えた。目の下に、うっすらと影があった。今日、何時間、この部屋にいたのか、覚えていなかった。


水で顔を洗った。冷たい水が、頬を伝った。


タオルで拭きながら、鏡の中の自分に、問いかけた。


これから、どうするのか。


蒼に、今日見たことを話すのか。話さないのか。


答えは、まだ出なかった。出す時間も、残っていなかった。


リビングに戻って、文庫本を手に取った。開いた。文字は、まったく頭に入ってこなかった。それでも、開いていることに意味があった。


蒼が帰ってきたとき、いつも通りの姿でいる必要があった。本を読んでいる自分。それが、今、演じられる唯一の姿だった。


演じる、という言葉が、頭に浮かんだ瞬間、少し可笑しくなった。


蒼が、いつも整えている、と言っていた。私の前でだけ、整えたいと思う、と言っていた。


今、私も、同じことをしようとしていた。蒼の前で、整えようとしていた。


何も知らない顔を、作ろうとしていた。


その努力が、うまくいくかどうか、自信はなかった。


時計を見た。あと十五分。


深呼吸をした。何度も、繰り返した。


自分の中にある感情を、一つ一つ、名前をつけようとした。


怖い。それは、確かにあった。


悲しい。それも、あった。でも、単純な悲しみとは違う気がした。


怒り。誰に対しての怒りなのか、自分でもはっきりしなかった。蒼に対してなのか、それとも、この状況全体に対してなのか。


そのどれもが、混ざり合って、一つの塊になっていた。名前をつけようとしても、うまく分解できなかった。


ただ、確実に分かっていることが、一つあった。


さっきまでの自分と、今の自分は、違う人間になっていた。


同じ体で、同じ服を着て、同じソファに座っている。でも、知ってしまった以上、もう戻れない場所に、足を踏み入れていた。


玄関の方向で、鍵の音がした。


心臓が、大きく跳ねた。


蒼が帰ってきた。


「ただいま」という声が、玄関から聞こえた。


「おかえり」


自分の声が、震えていないか、聞いた瞬間、確かめる余裕はなかった。ただ、口から出てしまった。


蒼がリビングに入ってきた。


「待たせてごめん」


「全然」


自分の声が、いつもと同じトーンで出せているかどうか、分からなかった。でも、蒼は、いつも通りの表情をしていた。何かに気づいた様子は、なかった。


その事実に、少しだけ、安堵した。


同時に、その安堵が、今の自分にとって、正しい感情なのかどうか、分からなかった。


蒼は、キッチンに向かった。夕飯の支度を始める音がした。


私は、ソファに座ったまま、その音を聞いていた。


いつも通りの音だった。いつも通りの、丁寧な手つきが、想像できた。


その丁寧さの裏に、今日見たもの全てが、詰まっていた。


保留にしよう、と思った。


今夜だけは、この感情を、どこかに一旦しまっておく。名前をつけることも、答えを出すことも、今夜はしない。


いつも通りの夜を、演じきる。


それが、今の私にできる、唯一のことだった。


台所から、蒼の声がした。


「今日、何食べたい気分?」


「なんでもいい」


自分の声が、少しだけ、震えていた気がした。でも、蒼は、何も気づかなかった。


夕飯の匂いが、少しずつ、部屋に広がり始めていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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