第56話「最後のページ」
自分の名前が書かれた、分厚いファイルを、引き出しから取り出した。
膝の上に置いた。表紙を見つめた。
瀬戸川リア。
その五文字だけが、静かにそこにあった。
開くまでに、どれくらいの時間がかかったか、覚えていない。手が動かなかった。動かそうとしても、指先が言うことを聞かなかった。
深呼吸を、何度もした。
表紙を開いた。
最初のページに、日付があった。四月八日。
蒼が転入してきた、その日だった。
「対象との再会を確認。旧知の間柄。関係構築を最優先とする」
再会、という言葉が、そこに書かれていた。転入初日から、蒼にとって、私との関係は、目的を持ったものだった。
ページをめくった。
四月から五月にかけての記録が、続いていた。図書室での会話、弓道の練習を見に来たこと、隼との会話。日常だと思っていた出来事の一つ一つが、細かく記録されていた。
「対象、弓道部にて安定した精神状態を確認。良好」
私が弓を引いているとき、蒼がどう見ていたか。良好、という評価が、そこに書かれていた。
読み進めるほど、体温が下がっていく気がした。
六月から七月にかけてのページには、千景の炎上に関する記述があった。ここには、以前見た千景のファイルとほぼ同じ内容が、簡潔にまとめられていた。
その最後に、こう書かれていた。
「対象への心理的負荷、除去完了。対象の安定確認」
対象、というのが、私を指していることは明らかだった。千景を排除したことで、私の心の安定が保たれた、という記録だった。
九月から十月にかけて、ストーカー事件についての記述があった。ここでも、同じような文章が続いた。
「対象への脅威、完全排除。対象の安全確保」
安全確保。
その言葉が、あの夜の記憶と、静かに重なった。震える蒼の手を、抱きしめた夜。
十二月のページに、クリスマスの記録があった。
「対象との関係、進展。指輪贈呈。対象、受諾」
進展、という一語だけで、あの夜の全てが、業務のように記されていた。
一月のページ。冬休みの記録。三人での学食の記録。
「隼、対象への信頼度、高。監視継続の必要性、中程度に低下」
隼への監視すら、続いていたことが、そこに書かれていた。
読み進めるページの端が、指の震えで少し折れた。
三月のページに、進んだ。私が知らない、蒼だけの記録が続いていた。
「対象、大会にて優勝の可能性、高。応援準備を検討」
その細かさに、少し笑いそうになった。笑うことが、今のこの状況で正しいのかどうか、分からなかった。でも、笑いに近い何かが、喉の奥からこみ上げた。
四月のページに来た。
私が、この部屋に通い始めた時期だった。
「対象、半同棲状態に移行。生活の安定度、上昇。継続を推奨」
推奨、という言葉が、私たちの関係を、まるで実験結果のように扱っていた。
ページをめくる手が、遅くなっていった。
最後のページが、近づいているのが分かった。
読み終わってしまうことへの恐怖と、読み終わらなければならないという義務感が、同時にあった。
最後のページを開いた。
そこには、他のページとは違う書式で、一文だけが書かれていた。
太い文字で、それだけが記されていた。
「瀬戸川リア:守護対象。最優先。永続。」
その三つの言葉を、何度も、何度も読み返した。
守護対象。最優先。永続。
永続、という言葉が、頭の中で反響した。
これまで読んできた全てのファイルには、日付があった。始まりと、終わりがあった。「完了」の印があった。
私だけには、終わりがなかった。
始まりの日付だけがあって、終わりの欄は、空白のままだった。
永続、という文字が、その空白を埋めていた。
これから先、ずっと。私が生きている限り、ずっと。
蒼の中で、私は、終わることのない対象として、位置づけられていた。
ファイルを持つ手から、力が抜けた。
ファイルが、膝の上から滑り落ちた。床に、紙の音が響いた。
その音を聞いた瞬間、体を支えていたものが、何もなくなった気がした。
気づいたら、床に座り込んでいた。
いつ、ソファから滑り落ちたのか、覚えていない。
床の上、散らばったファイルの紙を、見下ろした。
千景の記録。ストーカーの男性の記録。父の記録。四十七件の些細な言葉。六件の要注意。三件の排除検討中。
そして、自分自身の、永続する監視の記録。
その全部が、私を守るためだった。
蒼は、そう思っている。本当に、そう信じている。
守る、という言葉の意味が、こんなにも大きく、こんなにも重いものだとは、知らなかった。
床に座ったまま、動けなかった。
時計の音だけが、部屋に響いていた。
蒼が帰ってくるまで、まだ時間があるはずだった。でも、その時間が、どれくらいなのか、今の私には数えられなかった。
散らばった紙を、拾わなければならない。元通りに戻さなければならない。
そう分かっていても、体が動かなかった。
床に座ったまま、天井を見上げた。
天井の模様が、いつもと同じはずなのに、初めて見るもののように、遠く見えた。
自分の呼吸の音だけが、静かな部屋に響いていた。
その音を聞きながら、私は、まだ何も考えられずにいた。
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