第55話「廊下の雑談まで」
分厚いファイルを開いた。
最初のページに、一覧表があった。名前が、何十人分も並んでいた。
学年、クラス、名前。教師の名前も混ざっていた。田村先生の名前もあった。
一人ひとりの名前の横に、短い説明と、日付があった。
最初の名前を見た。同じクラスの女子生徒だった。日付は去年の四月。
「対象発言:瀬戸川さんってさ、また一人なんだね。分類:軽度。対応:経過観察」
その文章を、何度も読み返した。
これは、入学した年の四月に、私が教室で聞いた言葉だった。誰かが、聞こえよがしに言った言葉。あの時のことを、蒼が記録していた。
私が、その場にいたことすら、蒼は知る由がなかったはずだ。誰かから聞いたのか、それとも、別の方法で知ったのか。
ページをめくった。
次の名前があった。別の生徒だった。
「対象発言:リアちゃんって近寄りがたいよね。分類:軽度。対応:経過観察」
これも、廊下の雑談だった。私自身、直接聞いたわけではない。誰かが、私のいないところで言った言葉だった。
なぜ、これを蒼が知っているのか。
考えたくなかったが、答えは想像できた。誰かに聞かせていたのか、あるいは、盗聴のようなことまでしていたのか。
背筋が、また冷たくなった。
ページをめくるたびに、同じような記録が続いた。廊下の雑談。SNSでの、名前を出さない愚痴。授業中の、ちょっとした視線。
その全部が、記録されていた。分類され、対応が検討されていた。
「軽度」という分類が並ぶ中、時々、違う分類が現れた。
「中度」
そう書かれた項目に、目が留まった。
隼の名前だった。
「対象発言:リアさんに告白しようか迷ってる。分類:中度。対応:経過観察、必要に応じて介入検討」
隼の名前を見て、胸が締め付けられた。
隼は、ただ純粋に、私のことを気にかけてくれていただけだった。それすら、蒼は記録していた。介入検討、という言葉が、何を意味するのか、考えたくなかった。
さらにページをめくった。
咲良の名前もあった。
「対象:橘咲良。分類:要注意。理由:継続的な調査活動を確認。対応:情報統制、必要に応じて牽制」
要注意。
咲良が、蒼にとって、警戒すべき対象として記録されていた。
咲良が調査を続けていることを、蒼はずっと前から知っていた。
情報統制、牽制、という言葉の意味を、深く考えたくなかった。でも、咲良に対して、蒼が何かをしていた可能性を、否定できなかった。
咲良は、大丈夫なのだろうか。
その疑問が、頭の中で、警報のように鳴り響いた。
さらに読み進めた。
「排除検討中」
その文字が、初めて現れたのは、千景の名前の隣だった。
炎上前の記録だった。千景が私への中傷を始めた、まさにその時期の記録だった。
「対象:御堂千景。分類:要注意。理由:継続的な加害行為。対応:排除検討中」
排除、という言葉の重さを、私は既に知っていた。千景のファイルで、それがどんな結果になったかを、見ていた。
千景の名前の後にも、何人か、「排除検討中」の分類がついた名前があった。
一人は、去年、私の陰口を頻繁に言っていたという、別の生徒の名前だった。もう一人は、SNSで私への誹謗中傷を繰り返していた、名前も知らない誰かだった。
その二人が、今どうなっているのか、私には分からなかった。
分からないことが、今は一番怖かった。
リストの最後のページに、集計のようなものがあった。
「軽度:四十七件」「中度:十二件」「要注意:六件」「排除検討中:三件」「完了:三件」
その数字を、何度も見返した。
四十七件の「軽度」。私の知らないところで、私についての些細な言葉が、これほど大量に、記録されていた。
一年以上の間、蒼は、私に関わる、ありとあらゆる言葉を、拾い集めていた。
守るため、という理由が、頭に浮かんだ。あの部屋で、蒼が何度も言っていた言葉が。
守る、ということが、これほどまでの監視と、これほどまでの記録を意味するとは、思っていなかった。
ファイルを閉じた。
手の震えは、もう止まらなくなっていた。
膝の上に置いたファイルを、しばらく見つめていた。
千景。ストーカーの男性。父。そして、四十七件の些細な言葉と、六件の要注意、三件の排除検討中。
その全部の先に、まだ見ていないものがあった。
引き出しの一番奥にある、あの分厚いファイル。
瀬戸川リア。
自分の名前が書かれた、あのファイルを。
まだ、開いていなかった。
リストを、引き出しに戻した。
震える手で、その奥にあるファイルに、手を伸ばした。
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