第54話「父の記録」
引き出しに戻したファイルの隣に、見覚えのある文字があった。
一瞬、目を疑った。瀬戸川、という苗字だった。
自分のファイルの隣に、別の瀬戸川があるはずがなかった。手を伸ばして、そのファイルを取り出した。
背表紙に、フルネームが書かれていた。
瀬戸川颯。
父の名前だった。
しばらく、その文字を見ていた。父の名前が、なぜここにあるのか。理解する前に、体が先に冷たくなっていた。
表紙を開いた。
日付が、去年の秋から始まっていた。父の会社名と、部署名が記されていた。役職も書かれていた。
次のページに、父についての情報があった。勤務先での立場、取引先との関係、社内での評判らしきものまで、細かく整理されていた。
なぜ、蒼がこれほど父のことを調べていたのか。
答えを探して、ページをめくった。
「対象の行動記録」という見出しの下に、父の行動が時系列で並んでいた。誰と会っていたか、どこに行っていたか。会食の記録、休日の外出先。
その中に、女性の名前が、何度も出てきていた。
一人ではなかった。複数の名前が、日付ごとに違う相手として記録されていた。
父の不倫を、私は昔から知っていた。八歳のとき、駅前のカフェで見た光景を、今も覚えている。母が黙って私の手を引いて帰った、あの日のことを。
でも、これほど詳細に、繰り返されていたことまでは、知らなかった。
ページをめくる手が、少し重くなった。
「対応方針」という見出しがあった。
父の会社での立場を弱らせる方法についての検討があった。具体的な手段については、詳しく書かれていなかった。ただ、いくつかの選択肢と、それぞれのリスク評価が並んでいた。
「最終方針」の項目に、匿名での内部通報という言葉があった。
父の会社での、ある取引に関する不正の疑いについて、匿名で情報を提供したという記録だった。
不正の内容までは、私には理解できなかった。専門的な用語が並んでいた。ただ、その通報が、去年の冬に行われたことだけは分かった。
父が急に閑職に異動になったのは、今年の初めだった。
理由を、私は聞いていなかった。父自身も、詳しくは話さなかった。母も、何かを察していたようだったが、家族の間でその話題は避けられていた。
自業自得だと、私はずっと思っていた。父が誰かの恨みを買うようなことをして、その結果、社内での立場を失ったのだと。
でも、それは違った。
蒼が、仕組んでいた。
最後のページに、あの赤い印があった。
「完了」
その下に、短い追記があった。
「対象、閑職へ異動。家庭への直接的な影響、経過観察」
家庭への影響。
その言葉が、私の中に、何か複雑な感情を呼び起こした。
父の不倫は、事実だった。父が誰かを傷つけていたことも、事実だった。母がどれほど傷ついていたか、私も知っている。
だから、父が社会的な制裁を受けることを、私は完全には否定できなかった。
でも、それを決めたのは、蒼だった。
私に相談することも、母に確認することもなく、蒼が一人で判断して、実行した。
父を裁く権利が、蒼にあったのか。
その問いに、答えが出なかった。
父は、確かに悪いことをしていた。誰かを傷つけていた。それでも、その報いを与える権利は、蒼にはなかったはずだった。
でも同時に、父の閑職への異動が、母の負担を軽くしていたことも、否定できなかった。父が家にいる時間が増えて、母が少し安心しているように見える夜が、確かにあった。
複雑な感情が、頭の中で絡み合っていた。
怒りとも、安堵とも、どちらとも言い切れない何かだった。
ファイルを閉じようとしたとき、もう一枚、紙が挟まっていることに気づいた。
開いてみた。
そこには、家族についてのメモがあった。
母の勤務先、颯太の学校での様子。私が知らないところまで、蒼は把握していた。
「瀬戸川家、全体の安定を維持することが最優先」
そう書かれていた。
家族全体を、蒼は観察していた。父だけではなく、母や颯太のことまで、ずっと見ていた。
その視線の広さに、背筋が冷たくなった。
私を守るために、家族全体を、蒼は管理しようとしていたのかもしれない。
守る、という言葉が、これほど重い意味を持つとは、思っていなかった。
ファイルを、引き出しに戻そうとした。
戻す前に、その隣にある、もう一冊の存在に気づいた。
これまで見てきたファイルよりも、はるかに分厚かった。
背表紙に、名前は書かれていなかった。
代わりに、こう書かれていた。
「関係者リスト」
その文字を見て、手が止まった。
関係者、という言葉が、誰を指しているのか。
分厚さから考えて、一人や二人の話ではないことは、明らかだった。
時計を見た。まだ時間はあったが、今日はもう、限界に近かった。
それでも、手が勝手に、そのファイルへと伸びていった。
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