第53話「ストーカーの記録」
表紙を開いた。
一枚目に、名前があった。知らない名前だった。年齢と、簡単な経歴が記されていた。二十代後半の男性。前科なし。職業は書かれていなかった。
次のページに、日付が並んでいた。九月から始まっていた。私がストーカー被害に遭い始めた時期と、一致していた。
写真が印刷されていた。私を撮ったものではなかった。その男性を、遠くから撮った写真だった。駅の改札を通る姿。コンビニに入っていく姿。日常の一場面が、何枚も並んでいた。
尾行していた記録だった。
ページをめくった。
男性についての情報が、細かく整理されていた。勤務先らしき場所、通勤ルート、生活パターン。誰と会っているか、何時に家を出るか。まるで身辺調査の報告書だった。
私を撮った写真が送られてきていた、あの時期。同じ時期に、蒼はこの男性のことを、これほど詳しく知っていた。
途中のページに、見出しがあった。
「対応方針検討」
その下に、いくつかの案が箇条書きで並んでいた。案の一つ一つに、実行の難易度と、期待される効果についての短い評価がついていた。
まるで仕事の企画書のようだった。
読み進める手が、震え始めていた。
「最終方針」という見出しの後に、心理的な弱点についての分析があった。男性が何を恐れているか、何に執着しているか、どんな環境で判断力を失いやすいか。
そこに書かれている内容を、これ以上詳しく読み進める気力が、なかった。
でも、目は勝手に文字を追っていた。
具体的な方法は、そこには書かれていなかった。ただ、結果だけが、次のページに記録されていた。
十月の、あの夜の日付があった。
私が現場に行き合った、あの夜だった。
短い記録があった。
「対象、精神的破綻を確認。医療機関への通報、なし。当面の行動能力、著しく低下」
行動能力の著しい低下。
その言葉の意味を、私はあの夜、実際に見ていた。しゃがみこんで、目が開いたまま何も見ていなかった、あの男性の姿を。
蒼は、直接、彼に手を上げたわけではなかった。あの夜、私が見た限りでは。
でも、ここに書かれている「対応方針」を見れば、それが何を意味するのか、分かってしまった。
心理的に、その男性が最も恐れているものを、突き詰めて利用したのだと分かった。
具体的に何をしたのか、私にはまだ分からない。分かりたくもなかった。
でも、結果だけは、はっきりと分かった。
一人の人間が、精神的に、取り返しのつかない状態になった。
最後のページに、あの赤い印があった。
「完了」
その下に、追記があった。
「対象、その後の追跡調査、不要と判断」
不要と判断、という言葉が、頭の中に残った。
追跡する必要がない、というのは、それだけ確実に、破壊されたということだった。
私は、あの夜、蒼を抱きしめた。震える手を、握った。
その手が、この結果を作った手だった。
同じ手だった。
私を優しく抱きしめる手と、一人の人間の精神を破壊した手が、同じ、一つの手だった。
ファイルを、膝の上に置いたまま、しばらく動けなかった。
あの夜、蒼は言った。
止めたかった。本当に。でも君の名前が聞こえた瞬間、体が止まらなかった。
その言葉を、私は信じた。今も、嘘だとは思わない。
でも、この記録を見ると、その夜のことが、突発的な暴走だったとは、思えなくなっていた。
対応方針の検討。心理的弱点の分析。何日もかけて準備された計画。
止まらなかった、というのは、本当だったのかもしれない。でも、止まらなかった先にあるものは、あらかじめ、緻密に用意されていた。
衝動と計画が、同じ夜の中に、両方とも存在していた。
その両立が、私には理解できなかった。
理解できないまま、私は、あの夜、警察には言わないと決めた。
その決断が、正しかったのかどうか。
今、ここに座って、その答えを考えることが、怖かった。
膝の上のファイルを、そっと閉じた。
閉じる音が、部屋の中で、やけに大きく響いた気がした。
時計を見た。まだ時間はあった。でも、これ以上、今日は読み進める余力がなかった。
ファイルを、引き出しに戻した。
戻す手が、まだ震えていた。震えは、あの夜、蒼の手を握ったときに感じた震えと、似ているようで、違っていた。
あの夜の震えは、恐怖と、それでも寄り添おうとする気持ちが、混ざったものだった。
今の震えには、寄り添おうとする気持ちが、少しも混ざっていなかった。
ただ、恐怖と、理解できないものへの拒絶反応だけがあった。
引き出しを閉めた。
リビングに戻った。
ソファに座った。
自分の呼吸の音が、やけに耳につく夜だった。
蒼が帰ってくるまで、まだ時間があった。
その時間の中で、自分のファイルの中身を、まだ見ていないことに気づいた。
千景のファイル。ストーカーの男性のファイル。二つを見ただけで、これほどの衝撃だった。
自分のファイルには、何が書かれているのか。
一番厚みのある、あのファイルには。
見なければならない、と思う気持ちと、これ以上何も知りたくない、という気持ちが、同じ強さで、自分の中にあった。
窓の外を見た。五月の夕方の光が、少しずつ、色を変えていた。
蒼が帰ってくる音を、今日はどこか、待っているような、待っていないような、複雑な気持ちで聞くことになるだろう。
そう思いながら、私はソファの上で、ただじっと、時間が過ぎるのを待っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




