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【9/17完結!】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第6章「開かずの記録庫」

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第53話「ストーカーの記録」

表紙を開いた。


一枚目に、名前があった。知らない名前だった。年齢と、簡単な経歴が記されていた。二十代後半の男性。前科なし。職業は書かれていなかった。


次のページに、日付が並んでいた。九月から始まっていた。私がストーカー被害に遭い始めた時期と、一致していた。


写真が印刷されていた。私を撮ったものではなかった。その男性を、遠くから撮った写真だった。駅の改札を通る姿。コンビニに入っていく姿。日常の一場面が、何枚も並んでいた。


尾行していた記録だった。


ページをめくった。


男性についての情報が、細かく整理されていた。勤務先らしき場所、通勤ルート、生活パターン。誰と会っているか、何時に家を出るか。まるで身辺調査の報告書だった。


私を撮った写真が送られてきていた、あの時期。同じ時期に、蒼はこの男性のことを、これほど詳しく知っていた。


途中のページに、見出しがあった。


「対応方針検討」


その下に、いくつかの案が箇条書きで並んでいた。案の一つ一つに、実行の難易度と、期待される効果についての短い評価がついていた。


まるで仕事の企画書のようだった。


読み進める手が、震え始めていた。


「最終方針」という見出しの後に、心理的な弱点についての分析があった。男性が何を恐れているか、何に執着しているか、どんな環境で判断力を失いやすいか。


そこに書かれている内容を、これ以上詳しく読み進める気力が、なかった。


でも、目は勝手に文字を追っていた。


具体的な方法は、そこには書かれていなかった。ただ、結果だけが、次のページに記録されていた。


十月の、あの夜の日付があった。


私が現場に行き合った、あの夜だった。


短い記録があった。


「対象、精神的破綻を確認。医療機関への通報、なし。当面の行動能力、著しく低下」


行動能力の著しい低下。


その言葉の意味を、私はあの夜、実際に見ていた。しゃがみこんで、目が開いたまま何も見ていなかった、あの男性の姿を。


蒼は、直接、彼に手を上げたわけではなかった。あの夜、私が見た限りでは。


でも、ここに書かれている「対応方針」を見れば、それが何を意味するのか、分かってしまった。


心理的に、その男性が最も恐れているものを、突き詰めて利用したのだと分かった。


具体的に何をしたのか、私にはまだ分からない。分かりたくもなかった。


でも、結果だけは、はっきりと分かった。


一人の人間が、精神的に、取り返しのつかない状態になった。


最後のページに、あの赤い印があった。


「完了」


その下に、追記があった。


「対象、その後の追跡調査、不要と判断」


不要と判断、という言葉が、頭の中に残った。


追跡する必要がない、というのは、それだけ確実に、破壊されたということだった。


私は、あの夜、蒼を抱きしめた。震える手を、握った。


その手が、この結果を作った手だった。


同じ手だった。


私を優しく抱きしめる手と、一人の人間の精神を破壊した手が、同じ、一つの手だった。


ファイルを、膝の上に置いたまま、しばらく動けなかった。


あの夜、蒼は言った。


止めたかった。本当に。でも君の名前が聞こえた瞬間、体が止まらなかった。


その言葉を、私は信じた。今も、嘘だとは思わない。


でも、この記録を見ると、その夜のことが、突発的な暴走だったとは、思えなくなっていた。


対応方針の検討。心理的弱点の分析。何日もかけて準備された計画。


止まらなかった、というのは、本当だったのかもしれない。でも、止まらなかった先にあるものは、あらかじめ、緻密に用意されていた。


衝動と計画が、同じ夜の中に、両方とも存在していた。


その両立が、私には理解できなかった。


理解できないまま、私は、あの夜、警察には言わないと決めた。


その決断が、正しかったのかどうか。


今、ここに座って、その答えを考えることが、怖かった。


膝の上のファイルを、そっと閉じた。


閉じる音が、部屋の中で、やけに大きく響いた気がした。


時計を見た。まだ時間はあった。でも、これ以上、今日は読み進める余力がなかった。


ファイルを、引き出しに戻した。


戻す手が、まだ震えていた。震えは、あの夜、蒼の手を握ったときに感じた震えと、似ているようで、違っていた。


あの夜の震えは、恐怖と、それでも寄り添おうとする気持ちが、混ざったものだった。


今の震えには、寄り添おうとする気持ちが、少しも混ざっていなかった。


ただ、恐怖と、理解できないものへの拒絶反応だけがあった。


引き出しを閉めた。


リビングに戻った。


ソファに座った。


自分の呼吸の音が、やけに耳につく夜だった。


蒼が帰ってくるまで、まだ時間があった。


その時間の中で、自分のファイルの中身を、まだ見ていないことに気づいた。


千景のファイル。ストーカーの男性のファイル。二つを見ただけで、これほどの衝撃だった。


自分のファイルには、何が書かれているのか。


一番厚みのある、あのファイルには。


見なければならない、と思う気持ちと、これ以上何も知りたくない、という気持ちが、同じ強さで、自分の中にあった。


窓の外を見た。五月の夕方の光が、少しずつ、色を変えていた。


蒼が帰ってくる音を、今日はどこか、待っているような、待っていないような、複雑な気持ちで聞くことになるだろう。


そう思いながら、私はソファの上で、ただじっと、時間が過ぎるのを待っていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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