第52話「千景の記録」
五月になった。
あの部屋で、二冊のファイルを見てから、十日ほどが経っていた。
その間、蒼の部屋には行かなかった。理由をつけて、避けていた。弓道の大会が近い、模試の勉強がある、颯太と過ごす時間を作りたい。どれも嘘ではなかったが、本当の理由でもなかった。
十日間、頭の中には、あの引き出しのことしかなかった。
咲良から連絡が来た。「最近、蒼くんと会ってる?」という何気ない一文だった。返信を打とうとして、指が止まった。
『少し忙しくて』とだけ返した。
嘘だった。忙しいのではなく、怖いのだった。
十日経って、それでも蒼の部屋に行かないという選択肢は、結局、選べなかった。行かなければ、蒼に何かを聞かれる。何かを聞かれれば、隠していることが顔に出るかもしれない。
行くしかなかった。
蒼が塾に行く日を、また合鍵で待つことにした。
寝室のドアを開けた。今日は、迷わなかった。迷う段階は、もう過ぎていた。
引き出しを開けた。並んだファイルの中から、千景の名前が書かれた一冊を取り出した。
ソファに戻って、開いた。
日付が並んでいた。去年の六月から始まっていた。私が知らないうちから、記録は始まっていた。
最初のページには、千景のSNSアカウントの情報が印刷されていた。フォロワー数、投稿頻度、使っている言葉の傾向。まるで分析レポートのような書式だった。
次のページには、千景が書いた投稿のスクリーンショットが並んでいた。私への言及が始まった、最初の投稿だった。日付を見ると、体育祭の直後だった。
ページをめくった。
投稿が増えていく様子が、時系列で記録されていた。文体の変化、使われた単語の頻度、拡散のパターン。誰がいいねを押したか、誰がコメントを残したか、細かく記録されていた。
途中のページに、地図があった。千景の自宅周辺の地図だった。
その隣に、千景の家族構成についてのメモがあった。両親の名前、職業らしき記述。私が知らない情報だった。
なぜここまで調べる必要があったのか。
答えは、次のページにあった。
「対応方針」という見出しの下に、箇条書きが並んでいた。
「本人アカウントの特定完了」「過去投稿の収集完了」「拡散用アカウント準備」「実行タイミング検討」
その下に、日付が書かれていた。七月の、あの炎上が起きた日だった。
炎上の詳細が、その後に続いていた。十三のアカウントの構成。それぞれの投稿内容。拡散の経路。全部が、事前に設計された通りに進んでいた。
咲良が「秒単位で揃っている」と言っていたことを思い出した。
ここに、その理由の全部があった。
最後のページに、赤い印があった。
「完了」
その二文字の下に、小さく手書きの追記があった。
「対象、行動停止を確認」
行動停止、という言葉が、頭の中で反響した。中傷が止まった、という意味なのか、それ以上の何かを意味するのか、判断できなかった。
ファイルを閉じようとして、手が止まった。
最後のページの裏に、もう一枚、紙が挟まっていた。
見落としていた。開いてみた。
そこには、千景の炎上後の様子についての、短い記録があった。
「対象、学校への出席継続。心理的影響、経過観察中」
経過観察、という言葉に、背筋が冷たくなった。
千景の炎上を、蒼はただ引き起こしただけではなかった。その後も、観察を続けていた。
私は、そのページを、もう一度読んだ。
観察中、という言葉が、今も続いているのかどうか、分からなかった。今この瞬間も、千景は蒼に見られているのかもしれない。そう思うと、鳥肌が立った。
ファイルを閉じた。
しばらく、そのまま動けなかった。
咲良が、あの夏、千景の炎上について調べていたことを思い出した。咲良は、発信元の分散パターンに気づいた。でも、その先にある蒼の意図までは、たどり着けなかった。
咲良が見ていたのは、事件の表面だった。ここにあるのは、その裏側の全部だった。
千景は、私を傷つけようとした。それは事実だった。私を陰湿に孤立させようとした。それも事実だった。
でも千景がそうなった背景には、私が気づかなかった何かがあった。屋上で聞いた話を思い出した。存在を認められないことより、最初から見えていないことの方がきつかった、と千景は言っていた。
その千景の傷を、蒼は利用した。あるいは、その傷につけこんで、千景を実行犯として動かした部分すら、あったのかもしれない。
ファイルを、引き出しに戻そうとした。
戻す前に、もう一度、表紙を見た。
御堂千景。SNS工作・心理的解体の記録。完了。
心理的解体、という言葉が、表紙のどこにも書かれていないことに気づいた。私が今、頭の中で、そう呼んでいるだけだった。
でも、中身を読めば、それ以外の言葉が見つからなかった。
千景は、解体された。蒼によって。
千景自身の弱さや悪意も、確かにあった。でも、その弱さにつけこんで、これほど精緻な形で利用した誰かがいた。
その誰かを、私は愛していた。
愛している、という言葉が、今この瞬間、自分の中でどう響くのか、分からなかった。
引き出しに、ファイルを戻した。並びを、元通りに直した。
隣にあった、別のファイルが目に入った。
以前見た、地図が書かれたファイルだった。誰かの通学路が記されていた、あのファイルだった。
千景のものではない、別の名前の背表紙。
その名前を、私はまだ知らなかった。誰なのか、分からなかった。
でも、あの地図の形式が、何かに似ている気がした。
思い出した。
去年の秋、私自身の通学路にも、誰かの目があった。
手を伸ばした。
そのファイルを、引き出しから取り出した。
表紙をめくる前に、時計を見た。蒼が帰ってくるまで、まだ少し時間があった。
深呼吸をした。
表紙を開いた。
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