第51話「ファイル」
四月の最終週になった。
あの日から、一週間が経っていた。
蒼の部屋には、変わらず通っていた。いつも通りの日常が続いていた。グラタンの匂い、詩集の並んだ本棚、弓の調子を聞いてくる蒼の声。全部、変わっていなかった。
変わっていないことが、この一週間、少しずつ苦しくなっていた。
引き出しのことを、蒼には何も言わなかった。言えなかった。見てしまったことを認めれば、蒼がどう反応するか分からない。その怖さより、もっと単純な理由があった。
知りたい気持ちと、知りたくない気持ちが、同じ重さで自分の中にあった。
その日は、また蒼が塾に行く日だった。合鍵で部屋に入った。
ソファに座って、しばらく何もしなかった。
天井を見た。時計を見た。また天井を見た。
行こうと決めるまでに、どれくらい時間がかかったか、覚えていない。気づいたら、寝室の前に立っていた。
ドアを開けた。棚の前に立った。
下の段の引き出しに、手をかけた。
今日も、鍵はかかっていなかった。
その事実を、もう一度確かめた。かかっていない。あの日と同じだった。
引き出しを、ゆっくり開けた。
先週見た通り、ファイルが並んでいた。整然と、隙間なく。
一冊目に手を伸ばした。
背表紙の名前を、もう一度見た。クラスメイトの名前だった。
手が震えていた。
震えていることに、少し驚いた。弓を引くとき、これほど震えたことはない。的の前では、いつも落ち着いていられる。今は、ただファイルを一冊手に取るだけで、指先が制御できていなかった。
表紙を開いた。
中には、印刷された紙が、何枚も綴じられていた。日付が並んでいた。時系列で整理されていた。
内容を読む前に、一度、目を閉じた。
開けたら、もう戻れないかもしれない。
そう思ったが、閉じたまま止まっていることもできなかった。
目を開けた。
紙面には、SNSのスクリーンショットが印刷されていた。誰かの投稿。誰かのコメント。日時と、投稿者のアカウント情報。
一枚目をめくった。
二枚目をめくった。
同じクラスの誰かが、別の誰かへの陰口を書いていた投稿だった。日付は去年の秋だった。
なぜこんなものが、蒼の部屋にあるのか。
三枚目には、その投稿への対応が記録されていた。誰が、いつ、どんな情報を、誰に流したか。まるで報告書のような書き方だった。
最後のページに、印がついていた。
赤いスタンプのような印字だった。
「完了」
その二文字だけが、大きく押されていた。
私は、そのファイルを、静かに閉じた。
閉じてから、しばらく何もできなかった。
今見たものが何なのか、頭では分かっていた。でも、体がその理解に追いついていなかった。
もう一冊、手に取った。
背表紙の名前は、知らない人だった。学校の生徒ではないかもしれない。
開いた。
中には、地図のようなものが印刷されていた。誰かの通学路らしき道が、赤いペンで印がつけられていた。時間帯ごとの人の流れが、細かくメモされていた。
このファイルにも、最後のページに「完了」の印があった。
胸の中で、何かが冷たくなっていくのを感じた。
三冊目に、手が止まった。
一番奥にあった、厚みの違うファイル。
先週見た、あの名前。
瀬戸川リア。
自分の名前が書かれた背表紙を、もう一度見た。
手を伸ばした。震えは、もう止まらなかった。
引き出そうとして、指先が滑った。ファイルが、少しだけ床に落ちかけた。慌てて掴んだ。
心臓が、耳の奥で鳴っていた。
このファイルを開けば、何が書かれているのか。
これまで見た二冊と、同じ形式なら。
自分に関する、何らかの記録。
日付と、出来事と、対応と、そして最後に押される、あの印。
開くべきかどうか、迷った。
でも、ここまで来て、開かないという選択肢は、もう自分の中になかった。
厚いファイルの表紙に、手をかけた。
指先が、まだ震えていた。
震える指で、表紙を、少しだけ持ち上げた。
一ページ目が見えかけた瞬間、部屋のどこかで、物音がした。
心臓が跳ねた。
玄関の方向だった。
慌ててファイルを閉じた。閉じた勢いで、他のファイルとの並びが少し崩れた。直そうとしたが、手が思うように動かなかった。
音は、外の廊下からのものだった。誰かが通り過ぎただけらしい。蒼が帰ってきた音ではなかった。
それでも、心臓は落ち着かなかった。
自分のファイルを、引き出しに戻した。並びを、できる限り元通りにした。二冊目、一冊目も、順番通りに戻した。
引き出しを閉めた。
閉めてから、その場に座り込んだ。床に、そのまま座っていた。
自分の平穏が、何の上に築かれているのか。今日、その入り口だけを見てしまった。
全部を見ていない。まだ、自分のファイルの中身は、ほとんど分からないままだった。
でも、二冊のファイルに押された「完了」の印だけで、十分だった。
十分すぎるほど、伝わってきた。
蒼が、何をしてきたのか。
誰かの秋の投稿。誰かの通学路。そして、自分の名前が書かれた、一番分厚いファイル。
床に座ったまま、しばらく動けなかった。
時計を見た。蒼が帰ってくるまで、まだ時間があった。
立ち上がった。膝に力が入らなかった。壁に手をついて、体を支えた。
洗面所に行った。鏡を見た。
自分の顔が、いつもと違って見えた。何が違うのか、うまく説明できなかった。ただ、いつもの自分ではないことだけは分かった。
顔を洗った。冷たい水が、少しだけ、体を現実に引き戻した。
リビングに戻って、ソファに座った。
文庫本を開いた。文字は、まったく頭に入ってこなかった。
自分のファイルの中身を、まだ見ていない。
見なければならない、と思った。
でも今日は、もう無理だった。
体が、これ以上を拒否していた。
蒼が帰ってくる音がしたのは、それから一時間後だった。
「ただいま」
「おかえり」
自分の声が、震えていないか、少しだけ心配だった。でも、蒼は普段通りだった。何も気づいていない様子だった。
夕飯を一緒に食べた。味は、あまり分からなかった。
いつも通りの会話をした。いつも通りの笑顔を作った。
でも頭の中では、あの二冊のファイルと、まだ開けていない自分のファイルのことだけが、ずっと繰り返されていた。
帰り道、電車の窓に映る自分の顔を見た。
今日見たものを、まだ誰にも話せない。
咲良にも、颯太にも。
そして、蒼本人にも。
明日、また蒼の部屋に行くことになっている。
その部屋の、あの引き出しの中に、自分のファイルが、まだ開かれるのを待っていた。
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