第50話「鍵のかかった引き出し」
四月の第三週だった。
その日は、蒼が塾の模試で家にいない日だった。
「鍵、渡しておくから」と蒼は前の晩に言った。「先に部屋で待ってて」
合鍵をもらったのは、初めてだった。半同棲、という言葉に、今日また少し近づいた気がした。
放課後、一人で蒼の部屋に向かった。鍵を開けて、中に入った。
誰もいない部屋は、いつもと少し違って見えた。蒼がいるときは、蒼の動きに合わせて空気が動いている感じがする。今日は、部屋そのものが静止していた。
ソファに座って、本を読んで待つことにした。持ってきた文庫本を開いたが、なかなか進まなかった。時計を見た。模試が終わるまで、まだ二時間はある。
トイレを借りようと、廊下を歩いた。蒼の寝室の前を通った。
先週見た、あの引き出しのことを思い出した。
大事なものを入れている、と蒼は言っていた。今は開けないでほしい、とも。
見るつもりはなかった。本当に、そのつもりはなかった。
トイレから戻る途中、寝室のドアが少し開いていることに気づいた。いつもは閉まっているはずのドアだった。
風のせいかもしれない、と思った。窓が少し開いていたのかもしれない。
ドアの隙間から、部屋の中が見えた。あの棚が、視界に入った。
近づくつもりはなかった。でも、気づいたら棚の前に立っていた。
下の段の引き出しに、目が行った。
鍵がかかっているはずだった。先週、蒼はそう言っていた。
でも、引き出しの取っ手のあたりに、わずかな隙間があった。
完全に閉まっていなかった。
手を触れるつもりはなかった。触れるつもりはなかったのに、指が引き出しの取っ手にかかっていた。
軽く引いてみただけだった。確認するだけのつもりだった。開かないことを、確認するだけの。
引き出しが、音もなく開いた。
鍵がかかっていなかった。
その事実に、心臓が一つ、大きく跳ねた。
閉めるべきだった。すぐに閉めて、何も見なかったことにするべきだった。
でも、開いた引き出しの中身が、目に入ってしまった。
ファイルだった。何冊もの、綺麗に整理されたファイルが、隙間なく並んでいた。背表紙には、ラベルが貼られていた。手書きの文字だった。
文字を読むつもりはなかった。読むつもりはなかったのに、目が勝手に文字を追っていた。
一番手前のファイルの背表紙に、名前があった。
見慣れた名前だった。
同じクラスの、誰かの名前。
その隣のファイルにも、別の名前があった。
心臓の音が、さっきより大きく聞こえるようになっていた。
引き出しを閉めようとした。手が伸びた。でも、閉める前に、もう一冊、目に入ってしまったファイルがあった。
背表紙の名前を見て、指の動きが止まった。
自分の知っている名前だった。
学校で、何度も呼ばれるのを聞いたことがある名前だった。
冷たいものが、背中を伝った。
引き出しの奥、一番奥にあるファイルに、目が吸い寄せられた。
そのファイルだけ、少し厚みが違った。他のファイルより、分厚かった。
背表紙の文字を、見てしまった。
自分の名前だった。
瀬戸川リア。
その四文字が、そこにあった。
手が震えていることに、少し遅れて気づいた。
ファイルを引き出しから出すべきかどうか、迷った。迷っている間も、手は震えたままだった。
玄関の方で、物音がした気がした。
蒼が帰ってきたのかもしれない。
慌てて引き出しを閉めた。閉めながら、鍵がかかっていないことを、もう一度確かめた。
かかっていなかった。
なぜ鍵がかかっていないのか。
大事なものを入れている、と蒼は言った。今は開けないでほしい、とも言った。
鍵をかけ忘れる人間には見えなかった。蒼は、そういうことを忘れるタイプの人間ではない。
だとしたら。
かけ忘れたのではなく、かけていなかったということになる。
私だけが、この部屋の合鍵を持っている。
私だけが、今日ここに一人でいる。
その状況で、鍵がかかっていない引き出し。
偶然だとは、どうしても思えなかった。
玄関の物音は、隣の部屋のものだったらしい。蒼はまだ帰ってきていなかった。
寝室のドアを、元通り少しだけ開けた状態に戻した。棚の位置も、動かした覚えはなかったが、念のため確認した。
リビングに戻って、ソファに座った。
心臓が、まだ速かった。
文庫本を開いたが、文字が全く頭に入ってこなかった。同じ行を、何度も目でなぞっていた。
さっき見た名前を、頭の中で反芻した。
クラスメイトの名前。学校で聞いたことのある名前。そして、自分の名前。
厚みの違うファイル。
そこに、何が書かれているのか。
見てしまった以上、見なかったことにはできなかった。でも、続きを見る勇気は、今日の私にはまだなかった。
模試から帰ってきた蒼が、玄関を開ける音がした。
「ただいま」と蒼の声がした。
「おかえり」
自分の声が、いつもと同じトーンで出せたことに、少し安堵した。
蒼がリビングに入ってきた。
「待たせてごめん」
「全然」
蒼はいつも通りだった。何かに気づいた様子は、なかった。
でも私の中では、さっき見たものが、まだ消えずに残っていた。
夕飯を食べながら、いつも通りの会話をした。模試の手応え、弓道の調子、来週の予定。
いつも通りの会話の中で、私だけが、別のことを考え続けていた。
あの引き出しの中に、何が入っているのか。
見るべきかどうか。
見た後、何が起きるのか。
答えは出なかった。出ないまま、夜は続いていった。
帰り際、蒼が駅まで送ってくれた。
「また明日」
「また明日」
電車に乗って、窓の外を見た。
心臓は、まだ少し速いままだった。
家に帰った。自室に入った。ベッドに座った。
さっき見た四文字が、まだ目の裏に残っていた。
瀬戸川リア。
そのファイルの厚みが、他のどれよりも分厚かったこと。
それが何を意味するのか、今夜の私には、まだ分からなかった。
分からないまま、天井を見つめていた。
明日、また蒼の部屋に行くことになっている。
その部屋の、あの引き出しのことを、忘れられる気がしなかった。
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