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【9/17完結!】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第6章「開かずの記録庫」

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第50話「鍵のかかった引き出し」

四月の第三週だった。


その日は、蒼が塾の模試で家にいない日だった。


「鍵、渡しておくから」と蒼は前の晩に言った。「先に部屋で待ってて」


合鍵をもらったのは、初めてだった。半同棲、という言葉に、今日また少し近づいた気がした。


放課後、一人で蒼の部屋に向かった。鍵を開けて、中に入った。


誰もいない部屋は、いつもと少し違って見えた。蒼がいるときは、蒼の動きに合わせて空気が動いている感じがする。今日は、部屋そのものが静止していた。


ソファに座って、本を読んで待つことにした。持ってきた文庫本を開いたが、なかなか進まなかった。時計を見た。模試が終わるまで、まだ二時間はある。


トイレを借りようと、廊下を歩いた。蒼の寝室の前を通った。


先週見た、あの引き出しのことを思い出した。


大事なものを入れている、と蒼は言っていた。今は開けないでほしい、とも。


見るつもりはなかった。本当に、そのつもりはなかった。


トイレから戻る途中、寝室のドアが少し開いていることに気づいた。いつもは閉まっているはずのドアだった。


風のせいかもしれない、と思った。窓が少し開いていたのかもしれない。


ドアの隙間から、部屋の中が見えた。あの棚が、視界に入った。


近づくつもりはなかった。でも、気づいたら棚の前に立っていた。


下の段の引き出しに、目が行った。


鍵がかかっているはずだった。先週、蒼はそう言っていた。


でも、引き出しの取っ手のあたりに、わずかな隙間があった。


完全に閉まっていなかった。


手を触れるつもりはなかった。触れるつもりはなかったのに、指が引き出しの取っ手にかかっていた。


軽く引いてみただけだった。確認するだけのつもりだった。開かないことを、確認するだけの。


引き出しが、音もなく開いた。


鍵がかかっていなかった。


その事実に、心臓が一つ、大きく跳ねた。


閉めるべきだった。すぐに閉めて、何も見なかったことにするべきだった。


でも、開いた引き出しの中身が、目に入ってしまった。


ファイルだった。何冊もの、綺麗に整理されたファイルが、隙間なく並んでいた。背表紙には、ラベルが貼られていた。手書きの文字だった。


文字を読むつもりはなかった。読むつもりはなかったのに、目が勝手に文字を追っていた。


一番手前のファイルの背表紙に、名前があった。


見慣れた名前だった。


同じクラスの、誰かの名前。


その隣のファイルにも、別の名前があった。


心臓の音が、さっきより大きく聞こえるようになっていた。


引き出しを閉めようとした。手が伸びた。でも、閉める前に、もう一冊、目に入ってしまったファイルがあった。


背表紙の名前を見て、指の動きが止まった。


自分の知っている名前だった。


学校で、何度も呼ばれるのを聞いたことがある名前だった。


冷たいものが、背中を伝った。


引き出しの奥、一番奥にあるファイルに、目が吸い寄せられた。


そのファイルだけ、少し厚みが違った。他のファイルより、分厚かった。


背表紙の文字を、見てしまった。


自分の名前だった。


瀬戸川リア。


その四文字が、そこにあった。


手が震えていることに、少し遅れて気づいた。


ファイルを引き出しから出すべきかどうか、迷った。迷っている間も、手は震えたままだった。


玄関の方で、物音がした気がした。


蒼が帰ってきたのかもしれない。


慌てて引き出しを閉めた。閉めながら、鍵がかかっていないことを、もう一度確かめた。


かかっていなかった。


なぜ鍵がかかっていないのか。


大事なものを入れている、と蒼は言った。今は開けないでほしい、とも言った。


鍵をかけ忘れる人間には見えなかった。蒼は、そういうことを忘れるタイプの人間ではない。


だとしたら。


かけ忘れたのではなく、かけていなかったということになる。


私だけが、この部屋の合鍵を持っている。


私だけが、今日ここに一人でいる。


その状況で、鍵がかかっていない引き出し。


偶然だとは、どうしても思えなかった。


玄関の物音は、隣の部屋のものだったらしい。蒼はまだ帰ってきていなかった。


寝室のドアを、元通り少しだけ開けた状態に戻した。棚の位置も、動かした覚えはなかったが、念のため確認した。


リビングに戻って、ソファに座った。


心臓が、まだ速かった。


文庫本を開いたが、文字が全く頭に入ってこなかった。同じ行を、何度も目でなぞっていた。


さっき見た名前を、頭の中で反芻した。


クラスメイトの名前。学校で聞いたことのある名前。そして、自分の名前。


厚みの違うファイル。


そこに、何が書かれているのか。


見てしまった以上、見なかったことにはできなかった。でも、続きを見る勇気は、今日の私にはまだなかった。


模試から帰ってきた蒼が、玄関を開ける音がした。


「ただいま」と蒼の声がした。


「おかえり」


自分の声が、いつもと同じトーンで出せたことに、少し安堵した。


蒼がリビングに入ってきた。


「待たせてごめん」


「全然」


蒼はいつも通りだった。何かに気づいた様子は、なかった。


でも私の中では、さっき見たものが、まだ消えずに残っていた。


夕飯を食べながら、いつも通りの会話をした。模試の手応え、弓道の調子、来週の予定。


いつも通りの会話の中で、私だけが、別のことを考え続けていた。


あの引き出しの中に、何が入っているのか。


見るべきかどうか。


見た後、何が起きるのか。


答えは出なかった。出ないまま、夜は続いていった。


帰り際、蒼が駅まで送ってくれた。


「また明日」


「また明日」


電車に乗って、窓の外を見た。


心臓は、まだ少し速いままだった。


家に帰った。自室に入った。ベッドに座った。


さっき見た四文字が、まだ目の裏に残っていた。


瀬戸川リア。


そのファイルの厚みが、他のどれよりも分厚かったこと。


それが何を意味するのか、今夜の私には、まだ分からなかった。


分からないまま、天井を見つめていた。


明日、また蒼の部屋に行くことになっている。


その部屋の、あの引き出しのことを、忘れられる気がしなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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