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【9/17完結!】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第6章「開かずの記録庫」

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第49話「半同棲」

四月になった。


桜が散り始めていた。学院の正門から続く並木道は、まだ半分ほど花をつけていたが、風が吹くたびに、花びらが舞った。


高校三年生になった。クラス替えがあって、隼とは別のクラスになった。咲良とは、今年も同じクラスだった。蒼とも、同じクラスのままだった。


三年生になっても、朝の図書室は変わらなかった。蒼は今日もそこにいた。


「今日、また来る?」と蒼が聞いた。


「行く」と私は答えた。


「行く」というのが、蒼の部屋のことを指しているのは、もう説明しなくても分かった。三月の終わりから、週に二、三回は、蒼の部屋に行くようになっていた。


半同棲、という言葉が頭に浮かんだのは、いつだったか覚えていない。誰かに言われたわけでもない。自分で気づいたら、その言葉が一番近い気がしていた。


蒼の部屋には、私の歯ブラシがあった。私の分のスリッパもあった。冷蔵庫には、私が好きな飲み物が、いつの間にか常備されていた。


放課後、蒼の部屋に行った。


玄関を開けると、少し前まで誰かの家、だったものが、今はもう自分の生活の一部になっていた。靴を脱ぐとき、そのことに気づいた。


「おかえり」と蒼が言った。


「ただいま」と、自然に返していた。


その自然さに、少しだけ驚いた。ただいま、という言葉を、この部屋で使うようになったのは、いつからだろう。


リビングのソファに座って、鞄を置いた。蒼はキッチンにいた。夕飯の支度をしている音がした。


「手伝おうか」と声をかけた。


「座ってて」


いつもの返事だった。蒼は料理をしているとき、誰にも手を出させない。理由は聞いたことがなかった。聞かなくても、なんとなく分かる気がした。丁寧な手つき、無駄のない動き。人に見せる場所じゃなくて、蒼が一人で整える場所なのかもしれない。


窓の外を見た。四月の夕方は、少しずつ日が長くなってきている。


本棚に目をやった。神経科学の本、哲学書、詩集。並んだ背表紙の中に、見慣れない本が数冊増えていた。


「これ、新しいの」と私は聞いた。


「うん」


「何の本」


「気になって買った」


具体的な答えではなかった。でも、それ以上は聞かなかった。蒼の本棚には、いつも新しい本が増えていく。全部の理由を聞くことは、もうしなくなっていた。


夕飯ができた。今日はグラタンだった。オーブンから出したばかりで、まだ湯気が立っていた。


「美味しい」と食べながら言った。


「よかった」


蒼が少し笑った。この笑い方には、もう名前をつけなくてよくなっていた。何度も見るうちに、いちいち分析しなくても分かるようになった顔だった。


食後、二人でソファに座った。テレビをつけていたが、内容はどちらも見ていなかった。


「最近」と蒼が言った。「リアの弓、また調子いいね」


「そう?」


「先週、全部入ってた」


「今週はまだ分からない」


「分かるよ」蒼は静かに言った。「今日も整ってる感じがする」


「なんで分かるの」


「顔を見れば」


「顔に出てるの」


「出てる」蒼は少し笑った。「昔から」


昔から、という言葉に、少しだけ引っかかった。昔から、というのは、いつからのことを指すのか。転入してきてからか、それとも、小学生のときからか。


聞かなかった。今夜は、聞かないことに、あまり抵抗がなかった。


そろそろ帰る時間だった。荷物をまとめ始めたとき、廊下の奥にある部屋の前を通った。


蒼の寝室だった。何度か入ったことがある部屋だ。でも、今日はふと、部屋の隅にある小さな棚が目に入った。


引き出しが二段だけの、シンプルな棚だった。特に珍しいものでもない。


でも、下の段の引き出しに、鍵がついていることに、今日初めて気づいた。


「これ、鍵かかってるの」と私は聞いた。


蒼が振り向いた。


一瞬だけ、間があった。


「うん」と蒼は言った。「大事なものを入れてるから」


「何が入ってるの」


「古い書類とか」


短い答えだった。いつもの、過不足のない答え方だった。でも今日は、その短さの中に、何か別のものが混じっている気がした。


「見ちゃだめ?」と私は、軽く聞いた。


「別に、隠してるわけじゃない」蒼は静かに言った。「でも、今は開けないでほしい」


「今は」


「今は」


蒼はそれ以上、説明しなかった。


私も、それ以上、聞かなかった。


鍵のかかった引き出し。大事なものを入れている、という言葉。今は開けないでほしい、という言葉。


その全部が、今夜は特に気にならなかった。蒼の部屋には、私の知らないことが、たくさんある。それはもう、当たり前になっていた。当たり前になっていることに、今日はまだ気づいていなかった。


玄関で靴を履いた。


「また明日」と蒼が言った。


「また明日」


蒼が駅まで送ってくれた。


電車に乗って、窓の外を見ながら、今日の部屋のことを思い返した。グラタンの味。新しい本。整った弓の話。そして、鍵のかかった引き出し。


引き出しのことは、電車を降りる頃には、ほとんど頭から消えていた。


家に帰って、いつも通りの夜を過ごした。颯太と少し話して、風呂に入って、自室に戻った。


ベッドに横になったとき、ふと、引き出しのことがまた浮かんだ。


大事なものを入れている、と蒼は言った。


古い書類、とも言った。


その二つの言葉が、なぜか少しだけ、頭の中で離れなかった。


離れないまま、今夜は眠ることにした。明日も、いつも通りの朝が来る。図書室で蒼に会って、弓を引いて、また部屋に行くかもしれない。


そう思いながら、目を閉じた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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