第49話「半同棲」
四月になった。
桜が散り始めていた。学院の正門から続く並木道は、まだ半分ほど花をつけていたが、風が吹くたびに、花びらが舞った。
高校三年生になった。クラス替えがあって、隼とは別のクラスになった。咲良とは、今年も同じクラスだった。蒼とも、同じクラスのままだった。
三年生になっても、朝の図書室は変わらなかった。蒼は今日もそこにいた。
「今日、また来る?」と蒼が聞いた。
「行く」と私は答えた。
「行く」というのが、蒼の部屋のことを指しているのは、もう説明しなくても分かった。三月の終わりから、週に二、三回は、蒼の部屋に行くようになっていた。
半同棲、という言葉が頭に浮かんだのは、いつだったか覚えていない。誰かに言われたわけでもない。自分で気づいたら、その言葉が一番近い気がしていた。
蒼の部屋には、私の歯ブラシがあった。私の分のスリッパもあった。冷蔵庫には、私が好きな飲み物が、いつの間にか常備されていた。
放課後、蒼の部屋に行った。
玄関を開けると、少し前まで誰かの家、だったものが、今はもう自分の生活の一部になっていた。靴を脱ぐとき、そのことに気づいた。
「おかえり」と蒼が言った。
「ただいま」と、自然に返していた。
その自然さに、少しだけ驚いた。ただいま、という言葉を、この部屋で使うようになったのは、いつからだろう。
リビングのソファに座って、鞄を置いた。蒼はキッチンにいた。夕飯の支度をしている音がした。
「手伝おうか」と声をかけた。
「座ってて」
いつもの返事だった。蒼は料理をしているとき、誰にも手を出させない。理由は聞いたことがなかった。聞かなくても、なんとなく分かる気がした。丁寧な手つき、無駄のない動き。人に見せる場所じゃなくて、蒼が一人で整える場所なのかもしれない。
窓の外を見た。四月の夕方は、少しずつ日が長くなってきている。
本棚に目をやった。神経科学の本、哲学書、詩集。並んだ背表紙の中に、見慣れない本が数冊増えていた。
「これ、新しいの」と私は聞いた。
「うん」
「何の本」
「気になって買った」
具体的な答えではなかった。でも、それ以上は聞かなかった。蒼の本棚には、いつも新しい本が増えていく。全部の理由を聞くことは、もうしなくなっていた。
夕飯ができた。今日はグラタンだった。オーブンから出したばかりで、まだ湯気が立っていた。
「美味しい」と食べながら言った。
「よかった」
蒼が少し笑った。この笑い方には、もう名前をつけなくてよくなっていた。何度も見るうちに、いちいち分析しなくても分かるようになった顔だった。
食後、二人でソファに座った。テレビをつけていたが、内容はどちらも見ていなかった。
「最近」と蒼が言った。「リアの弓、また調子いいね」
「そう?」
「先週、全部入ってた」
「今週はまだ分からない」
「分かるよ」蒼は静かに言った。「今日も整ってる感じがする」
「なんで分かるの」
「顔を見れば」
「顔に出てるの」
「出てる」蒼は少し笑った。「昔から」
昔から、という言葉に、少しだけ引っかかった。昔から、というのは、いつからのことを指すのか。転入してきてからか、それとも、小学生のときからか。
聞かなかった。今夜は、聞かないことに、あまり抵抗がなかった。
そろそろ帰る時間だった。荷物をまとめ始めたとき、廊下の奥にある部屋の前を通った。
蒼の寝室だった。何度か入ったことがある部屋だ。でも、今日はふと、部屋の隅にある小さな棚が目に入った。
引き出しが二段だけの、シンプルな棚だった。特に珍しいものでもない。
でも、下の段の引き出しに、鍵がついていることに、今日初めて気づいた。
「これ、鍵かかってるの」と私は聞いた。
蒼が振り向いた。
一瞬だけ、間があった。
「うん」と蒼は言った。「大事なものを入れてるから」
「何が入ってるの」
「古い書類とか」
短い答えだった。いつもの、過不足のない答え方だった。でも今日は、その短さの中に、何か別のものが混じっている気がした。
「見ちゃだめ?」と私は、軽く聞いた。
「別に、隠してるわけじゃない」蒼は静かに言った。「でも、今は開けないでほしい」
「今は」
「今は」
蒼はそれ以上、説明しなかった。
私も、それ以上、聞かなかった。
鍵のかかった引き出し。大事なものを入れている、という言葉。今は開けないでほしい、という言葉。
その全部が、今夜は特に気にならなかった。蒼の部屋には、私の知らないことが、たくさんある。それはもう、当たり前になっていた。当たり前になっていることに、今日はまだ気づいていなかった。
玄関で靴を履いた。
「また明日」と蒼が言った。
「また明日」
蒼が駅まで送ってくれた。
電車に乗って、窓の外を見ながら、今日の部屋のことを思い返した。グラタンの味。新しい本。整った弓の話。そして、鍵のかかった引き出し。
引き出しのことは、電車を降りる頃には、ほとんど頭から消えていた。
家に帰って、いつも通りの夜を過ごした。颯太と少し話して、風呂に入って、自室に戻った。
ベッドに横になったとき、ふと、引き出しのことがまた浮かんだ。
大事なものを入れている、と蒼は言った。
古い書類、とも言った。
その二つの言葉が、なぜか少しだけ、頭の中で離れなかった。
離れないまま、今夜は眠ることにした。明日も、いつも通りの朝が来る。図書室で蒼に会って、弓を引いて、また部屋に行くかもしれない。
そう思いながら、目を閉じた。
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