第47話「知っている者」
放課後。
橘咲良は、いつもの教室に残っていた。
リアが、荷物をまとめている。
「今日、射場行く?」
咲良は聞いた。
「行く」
リアは答えた。
「咲良は?」
「新聞部の集まりがある」
「そう」
いつも通りの短いやり取りだった。
その短い会話の中に、咲良は自分が知ってしまったことの重さを感じないようにした。
感じないようにする。
それ自体が、もう難しかった。
「そういえば」
リアが言った。
「昨日、蒼くんの部屋に行った」
「部屋?」
「一人暮らしなんだって。知ってた?」
咲良は、一瞬だけ言葉に詰まった。
知っていた。
倉橋から聞いた話の中に、その事実も含まれていた。
「知らなかった」
咲良は答えた。
嘘だった。
嘘をついたことが、胃の奥に小さな重さとして残った。
「一人で住んでるの、なんでだろうね」
リアは、何気なく言った。
「聞いてないんだけど」
咲良は何も言わなかった。
リアは知らない。
蒼が家族を失ったこと。
親族に引き取られたこと。
その後、五年間の空白があったこと。
一人暮らしの理由を、リアはまだ蒼から聞いていない。
咲良は、それを知っている。
「咲良?」
リアが言った。
「どうしたの」
「なんでもない」
「そう見えない」
咲良は、少しの間、リアを見た。
穏やかな顔だった。
左手には指輪がある。
幸福そうだった。
その幸福を、咲良は壊せる場所にいる。
壊すべきなのか。
まだ、答えは出ていなかった。
「新聞部、忙しいの?」
リアが聞いた。
「まあまあ」
「無理しないでね」
「うん」
その優しさが、今日は少し重かった。
リアは知らない。
咲良がこの数週間で何を聞いたのか。
何を見たのか。
何を胸の奥に沈めてきたのか。
知らないまま、咲良を気遣っている。
「じゃあ、また明日」
リアが言った。
「うん。また明日」
リアは教室を出ていった。
咲良は、しばらくその背中を見ていた。
一人になった教室で、咲良は鞄を開いた。
中には、倉橋から預かった作文のコピーが入っていた。
まだ、誰にも見せていない。
見せるべきか。
それとも、まだ黙っているべきか。
決められなかった。
窓の外を見る。
グラウンドでは、弓道部の生徒たちが移動していた。
その中に、リアの姿があった。
弓具を持ち、射場へ向かっている。
いつも通りの、まっすぐな歩き方だった。
咲良は、その背中を見ながら考えた。
リアは今、蒼をどう見ているのだろう。
完璧な恋人として見ているのか。
それとも、少しずつ何かに気づいているのか。
咲良には分からなかった。
窓から、蒼の姿も見えた。
射場の入り口に立っている。
いつものように、リアを待っていた。
その姿は穏やかだった。
危険な人間には見えない。
咲良は、その光景を見続けた。
頭の中で、二つの蒼が重なっていく。
作文を書いた子供。
十三のアカウントを動かした人間。
家族を失い、法廷でそれを聞いた十二歳。
犯人グループを内部から崩壊させた十四歳。
「困っている人を助けたい」と書いた子供。
今、射場の前でリアを待つ高校二年生。
全部が、同じ一人の人間だった。
咲良は、目を逸らした。
見ていることが、今日は少し辛かった。
新聞部として、多くの事実に向き合ってきた。
でも今回の事実は、これまでとは種類が違った。
教室を出る。
新聞部の部室へ向かう。
歩きながら、咲良はスマートフォンを見た。
倉橋からメッセージが届いていた。
『次に会えるのはいつになりそうか』
咲良は少し考えた。
そして返信する。
『まだ、決めていません』
すぐに既読がついた。
しばらくして、返信が来た。
『無理しなくていい。君のペースでいい』
咲良は、その言葉を見つめた。
自分のペース。
今の咲良には、それが分からなかった。
知ってしまったことの重さ。
何もしていない自分。
その間には、大きな距離があった。
部室に着いた。
新聞部の活動は、いつも通りだった。
次号の企画会議。
写真の選定。
原稿の確認。
咲良は作業をこなしながら、頭の片隅で同じことを考えていた。
リアに、いつ話すべきか。
話すべきなのか。
それとも、話さない方がいいのか。
答えは出ない。
でも、このまま時間だけが過ぎることも、正しいとは思えなかった。
部活が終わり、外へ出た。
グラウンドは暗くなっていた。
弓道部の練習も終わる時間だった。
咲良は校門へ向かって歩いた。
校門近くで、リアと蒼が並んで歩いているのが見えた。
二人は何か話しながら笑っていた。
穏やかな光景だった。
普通の幸福な光景だった。
咲良は、少し離れた場所から二人を見た。
声をかけなかった。
かけることができなかった。
二人が校門を出ていく。
咲良は、その背中を見送った。
そして、今日一日ずっと考えていた問いを、もう一度思い返した。
知っている者として、自分は何をすべきなのか。
答えは、まだ出ていなかった。
家へ向かう道を、一人で歩く。
夜が少しずつ深くなる。
咲良は、鞄の中の作文のコピーの重さを感じていた。
まだ誰にも見せていない紙。
いつか見せる日が来るのか。
来ないのか。
今の咲良には、まだ分からなかった。
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