第46話「作文」
三月の第二週だった。
橘咲良は、前回と同じカフェで、倉橋を待っていた。
今日は、倉橋から連絡が来たわけではなかった。
咲良の方から連絡をした。
「先週、見せてもらえなかったものを、まだ見せてもらえますか」
短い返信が届いた。
「持っていく」
それだけだった。
倉橋は、いつもより少し遅れて現れた。
席につくと、すぐに鞄を開いた。
そして、一枚の紙を取り出した。
コピー用紙だった。
古い作文用紙を、そのまま複写したもの。
「これだ」
倉橋は、それだけ言った。
説明はしなかった。
咲良は、その紙を受け取った。
原稿用紙のマス目の中に、子供の字が並んでいた。
丁寧に書かれた字だった。
けれど、ところどころ、力が入りすぎている。
小学生らしい、まっすぐな筆圧だった。
タイトル欄には、こう書かれていた。
「しょうらいのゆめ」
咲良は、その文字をしばらく見つめた。
本文に目を落とす。
「わたしのしょうらいのゆめは、けいさつかんです」
咲良は、一度だけ目を閉じた。
そして、もう一度開いた。
文字は変わらない。
そこに残っていた。
「わるいひとをつかまえて」
「もうだれもかなしまなくていいせかいにしたいです」
そこで、咲良の視線が止まった。
続きを読めなかった。
紙を見たまま、動けなかった。
倉橋は何も言わなかった。
咲良が、この紙と向き合う時間を待っていた。
急かす必要はない。
そう考えているようだった。
咲良は、もう一度、最初から読んだ。
今度は、ゆっくりと。
一文字ずつ確かめるように。
作文の最後には、日付があった。
蒼が小学六年生だった頃の日付。
アメリカへ渡る前年の日付だった。
「これを書いてから」
咲良は、ようやく声を出した。
「一年後に」
「一年後に、家族を失った」
倉橋は静かに答えた。
咲良は、紙を見つめた。
もうだれもかなしまなくていいせかい。
そう願った子供が。
その翌年、自分自身が最も深い悲しみを経験することになった。
「なぜ」
咲良は聞いた。
「これを持っているんですか」
「捜査資料の一部だ」
倉橋は答えた。
「小学校から、任意で提供を受けた」
「なぜ、警察官になりたいって書いた作文が、捜査資料に」
倉橋は少し黙った。
「事件の後」
静かに話し始める。
「彼を担当した心理カウンセラーが、この作文の存在を知った」
「知っていた」
「彼自身が話したらしい」
倉橋は続けた。
「小学校の頃、こんな作文を書いた、と」
咲良は、もう一度、作文を見た。
丁寧な字。
まっすぐな筆圧。
「けいさつかん」という文字。
「もうだれもかなしまなくていい」という文字。
「刑事さん」
咲良は言った。
「この作文を、いつも持ち歩いているんですか」
倉橋は、少しだけ驚いた顔をした。
「なぜ、そう思う」
「コピーが少し擦れているので」
倉橋は無意識に胸ポケットへ触れた。
その仕草が、答えだった。
「持ち歩いている」
倉橋は、静かに認めた。
「なぜですか」
「忘れないためだ」
「何を」
倉橋は、しばらく黙った。
「あの子が、最初はこういう子供だったということを」
咲良は、作文をテーブルへ置いた。
見ていられなかった。
でも、目を逸らすこともできなかった。
「これを」
咲良は言った。
「私、預かってもいいですか」
倉橋は少し考えた。
「コピーのコピーなら」
倉橋は言った。
「渡せる」
「原本は」
「僕が持っている」
咲良は、静かに頷いた。
「これを見て」
倉橋は言った。
「君は何を思った」
咲良は、しばらく考えた。
「悲しい、という言葉だけでは簡単すぎる気がします」
「うん」
「怒り、とも違います」
「うん」
「なんて言えばいいか、分かりません」
咲良は正直に言った。
「ただ、この子が、こんなことになってほしくなかったと思いました」
倉橋は静かに頷いた。
「僕も、同じだ」
「刑事さん」
咲良は言った。
「これを、リアさんに見せるべきだと思いますか」
倉橋は、すぐには答えなかった。
窓の外を見ていた。
三月の光は、まだ弱かった。
「それは」
倉橋は静かに言った。
「僕には決められない」
「なぜですか」
「君と、リアさんの関係の問題だからだ」
倉橋は続けた。
「僕は、外側の人間だ」
咲良は、もう一度、作文のコピーを見た。
コピーのコピーになる予定の紙。
いずれ自分の手元に残るもの。
その重さを、まだ理解しきれていなかった。
「時間をください」
咲良は言った。
「もちろん」
倉橋は答えた。
「急ぐ話じゃない」
倉橋は、残ったコーヒーを飲み干した。
それから、席を立った。
カフェを出た。
倉橋は、コピーのコピーを後日渡すと言って、先に帰った。
咲良は、一人で駅まで歩いた。
歩きながら、咲良は作文の文字を何度も思い返していた。
けいさつかん。
もうだれもかなしまなくていいせかい。
その言葉を書いた子供の手。
御堂千景の炎上を設計した手。
同じ手だった。
同じ人間の手だった。
駅に着いた。
ホームで電車を待つ。
スマートフォンを見る。
リアからメッセージが届いていた。
『今日、蒼くんと弓道の試合の話してた。次の大会、応援来てくれるって』
いつも通りの、何気ないメッセージだった。
咲良は、その画面を長い間見つめていた。
返信を打とうとした。
けれど、指が止まった。
今日見たものを、まだリアには話せない。
でも、いつまでも隠し続けることが正しいとも思えなかった。
電車が来た。
咲良は乗り込んだ。
窓の外の景色が流れ始める。
鞄の中には、まだ受け取っていない作文のコピーがある。
そう思った。
実際には、まだ手元にはない。
それでも、頭の中には、あの文字が残っていた。
けいさつかん。
もうだれもかなしまなくていいせかい。
その言葉を、リアに見せるべきなのか。
それとも、まだ自分の中に留めておくべきなのか。
咲良には、まだ答えが出なかった。
答えが出ないまま。
電車は、夜の街へ進んでいった。
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