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【9/17完結!】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第5章「解剖、始まる」

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第45話「善意から始まった」

三月に入って、最初の週だった。


橘咲良は、また同じカフェで、倉橋と向かい合っていた。


今日は、咲良から聞きたいことがあったわけではなかった。


倉橋から「伝えておきたいことがある」と連絡が来た。


「先週の続きだが」


倉橋は静かに言った。


「一つ、訂正したいことがある」


「訂正、ですか」


「僕は、彼のことを『怪物』のように話してきたかもしれない」


倉橋は少し間を置いた。


「それは、正確じゃない」


咲良は、ノートを閉じたまま、倉橋を見た。


「あの子は」


倉橋は続けた。


「最初から怪物だったんじゃない」


「どういう意味ですか」


「一度は、本当に、誰かを守りたかった子だったんだ」


その言葉を聞いた瞬間。


咲良の体の内側で、何かが動いた。


倉橋は、鞄から一枚の紙を取り出した。


古い紙だった。


日本語の作文用紙をコピーしたものだった。


「これは」


咲良が聞く。


「まだ見せられない」


倉橋は、その紙を鞄に戻しかけた。


「今日は、話すだけにする」


「何が書いてあるんですか」


倉橋は、少しの間、答えなかった。


「アメリカに渡る前」


倉橋は静かに言った。


「あの子は、小学校の授業で、将来の夢を書いた」


「将来の夢」


「困っている人を助けたい」


倉橋は言った。


「そう書いていた」


咲良は黙って聞いていた。


「両親の教育だったと思う」


倉橋は続けた。


「あの子の両親は、そういうことを大切にする人たちだった」


咲良の中で、何かが繋がろうとしていた。


でも、繋がってほしくないという気持ちもあった。


「善意から」


咲良は言った。


声が少し震えた。


「始まったっていうことですか」


「そうだ」


「困っている人を助けたい、という気持ちが」


「そのまま、あの構造に繋がっていった」


倉橋は静かに答えた。


咲良の胃の奥が重くなった。


比喩ではなかった。


本当に、体の内側が沈むような感覚だった。


「守りたい、という気持ちが」


倉橋は続けた。


「家族を失って、法が機能しないことを知って」


一度、言葉を切る。


「別の形に変わっていったんだと思う」


咲良は何も言えなかった。


言葉を探した。


でも、見つからなかった。


「刑事さん」


ようやく声を出す。


「それは」


「うん」


「同情しているんですか」


倉橋は、しばらく黙った。


「していない、と言えば嘘になる」


倉橋は静かに言った。


「でも、同情は僕の仕事とは関係ない」


「関係ないなら」


「それでも」


倉橋は咲良を見る。


「事実として、知っておいてほしかった」


「あの子は、最初から今の形だったわけじゃない」


咲良の中で、何かが崩れた。


御堂千景の炎上。


ずっと「計算された悪意」だと思っていた。


ストーカーへの対処。


「制御された暴力」だと思っていた。


でも。


その起点にあったものは。


「誰かを助けたかった子供」だった。


守りたかった。


その気持ちが。


七年という時間の中で。


今の蒼になった。


「気持ち悪い」


咲良は、思わず口にした。


言った直後、自分でも驚いた。


倉橋を責める言葉ではなかった。


蒼を否定する言葉でもなかった。


事実そのものへの、生理的な反応だった。


「すみません」


咲良は言った。


「謝らなくていい」


倉橋は静かに答えた。


「その反応は、正しい」


「正しい、って」


「善意が、あれほどの暴力の起点になっている」


倉橋は言った。


「それを知って、平気でいられる方がおかしい」


咲良は、しばらくテーブルを見ていた。


胃の重さは消えなかった。


「僕も」


倉橋が言った。


「最初にこの事実に気づいたとき、同じような感覚があった」


「刑事さんも」


「五年間、彼を追ってきた」


倉橋は静かに続ける。


「追いながら、何度も、この事実に戻る」


「なぜですか」


「忘れそうになるからだ」


倉橋は言った。


「怪物として追う方が、簡単だから」


咲良は、倉橋の顔を見た。


いつもの。


事実だけを話す刑事の顔ではなかった。


今日だけは、その奥にあるものが、少しだけ見えていた。



「善人だったなら」


咲良は言った。


「まだ、戻れる可能性があるんですか」


倉橋は、すぐには答えなかった。


しばらく窓の外を見ていた。


三月の冷たい光が、店内に差し込んでいた。


「分からない」


倉橋は、ようやく口を開いた。


「僕には、それを判断する材料がない」


「じゃあ」


咲良は聞いた。


「誰に判断できるんですか」


倉橋は、咲良を見た。


でも、答えなかった。


代わりに、少しだけ視線を落とした。


咲良は、その視線の先にあるものが分かった気がした。


リアだった。


今、蒼のそばにいる人。


蒼が見せているものを、最も近くで見ている人。


リアだけが、その答えに近い場所にいるのかもしれない。


でも。


リアは何も知らない。


今日、咲良が聞いた話を。


蒼が家族を失った日のことを。


その後、何をしたのかを。


何も知らないまま、蒼の隣にいる。


「刑事さん」


咲良は言った。


「私、気分が悪いです」


倉橋の表情が変わった。


「大丈夫か」


「少し休めば大丈夫です」


咲良は、テーブルの上のコーヒーカップを見た。


もう冷めていた。


一口も飲んでいなかった。


倉橋は、何も言わなかった。


急かさなかった。


咲良は目を閉じた。


ゆっくり呼吸を整える。


それでも、胃の重さは消えなかった。


「一つだけ」


咲良は目を開けた。


「聞いてもいいですか」


「なんだ」


「刑事さんは」


咲良は言葉を選んだ。


「あの子を、逮捕したいですか」


少し間を置く。


「それとも」


「助けたいですか」


倉橋は、長い間答えなかった。


窓の外を見ていた。


三月の光が、横顔を照らしていた。


「両方だ」


倉橋は言った。


「それが、答えだ」


咲良は、その言葉を頭の中で繰り返した。


矛盾しているように聞こえた。


でも。


今日まで聞いてきた全てを考えると、矛盾していなかった。


被害者だった。


同時に。


誰かを傷つけた可能性もある。


その両方を見なければならない。


倉橋は、そう言っているのだと思った。


カフェを出た。


倉橋とは、駅で別れた。


咲良は一人で歩いた。


冬の終わりの風が、まだ冷たかった。


歩きながら。


咲良は何度も、同じ言葉を思い出していた。


最初から怪物だったんじゃない。


一度は、本当に、誰かを守りたかった子だった。


その言葉が。


胃の重さと一緒に、残っていた。


家に着いた。


自室へ戻る。


いつものようにノートを開こうとして。


手を止めた。


今日は書けない気がした。


書けば、何かが決定的になってしまう気がした。


咲良はベッドに座った。


しばらく、何もせずにいた。


胃の奥に残った重さが、少しずつ体の中へ沈んでいく。


明日。


学校でリアに会う。


いつも通りの笑顔で。


いつも通り、蒼の話をするリアに。


咲良は、何を言えばいいのか分からなかった。


言えるはずがなかった。


蒼は最初から怪物だったわけではない。


でも。


だからこそ。


今の蒼を、どう見ればいいのか。


咲良には、まだ答えが出せなかった。


夜が深くなっていく。


咲良は暗い部屋の中で、ただ一つのことだけを考えていた。


明日、リアの隣にいる蒼を。


自分は、今までと同じ目で見られるのだろうか。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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