第45話「善意から始まった」
三月に入って、最初の週だった。
橘咲良は、また同じカフェで、倉橋と向かい合っていた。
今日は、咲良から聞きたいことがあったわけではなかった。
倉橋から「伝えておきたいことがある」と連絡が来た。
「先週の続きだが」
倉橋は静かに言った。
「一つ、訂正したいことがある」
「訂正、ですか」
「僕は、彼のことを『怪物』のように話してきたかもしれない」
倉橋は少し間を置いた。
「それは、正確じゃない」
咲良は、ノートを閉じたまま、倉橋を見た。
「あの子は」
倉橋は続けた。
「最初から怪物だったんじゃない」
「どういう意味ですか」
「一度は、本当に、誰かを守りたかった子だったんだ」
その言葉を聞いた瞬間。
咲良の体の内側で、何かが動いた。
倉橋は、鞄から一枚の紙を取り出した。
古い紙だった。
日本語の作文用紙をコピーしたものだった。
「これは」
咲良が聞く。
「まだ見せられない」
倉橋は、その紙を鞄に戻しかけた。
「今日は、話すだけにする」
「何が書いてあるんですか」
倉橋は、少しの間、答えなかった。
「アメリカに渡る前」
倉橋は静かに言った。
「あの子は、小学校の授業で、将来の夢を書いた」
「将来の夢」
「困っている人を助けたい」
倉橋は言った。
「そう書いていた」
咲良は黙って聞いていた。
「両親の教育だったと思う」
倉橋は続けた。
「あの子の両親は、そういうことを大切にする人たちだった」
咲良の中で、何かが繋がろうとしていた。
でも、繋がってほしくないという気持ちもあった。
「善意から」
咲良は言った。
声が少し震えた。
「始まったっていうことですか」
「そうだ」
「困っている人を助けたい、という気持ちが」
「そのまま、あの構造に繋がっていった」
倉橋は静かに答えた。
咲良の胃の奥が重くなった。
比喩ではなかった。
本当に、体の内側が沈むような感覚だった。
「守りたい、という気持ちが」
倉橋は続けた。
「家族を失って、法が機能しないことを知って」
一度、言葉を切る。
「別の形に変わっていったんだと思う」
咲良は何も言えなかった。
言葉を探した。
でも、見つからなかった。
「刑事さん」
ようやく声を出す。
「それは」
「うん」
「同情しているんですか」
倉橋は、しばらく黙った。
「していない、と言えば嘘になる」
倉橋は静かに言った。
「でも、同情は僕の仕事とは関係ない」
「関係ないなら」
「それでも」
倉橋は咲良を見る。
「事実として、知っておいてほしかった」
「あの子は、最初から今の形だったわけじゃない」
咲良の中で、何かが崩れた。
御堂千景の炎上。
ずっと「計算された悪意」だと思っていた。
ストーカーへの対処。
「制御された暴力」だと思っていた。
でも。
その起点にあったものは。
「誰かを助けたかった子供」だった。
守りたかった。
その気持ちが。
七年という時間の中で。
今の蒼になった。
「気持ち悪い」
咲良は、思わず口にした。
言った直後、自分でも驚いた。
倉橋を責める言葉ではなかった。
蒼を否定する言葉でもなかった。
事実そのものへの、生理的な反応だった。
「すみません」
咲良は言った。
「謝らなくていい」
倉橋は静かに答えた。
「その反応は、正しい」
「正しい、って」
「善意が、あれほどの暴力の起点になっている」
倉橋は言った。
「それを知って、平気でいられる方がおかしい」
咲良は、しばらくテーブルを見ていた。
胃の重さは消えなかった。
「僕も」
倉橋が言った。
「最初にこの事実に気づいたとき、同じような感覚があった」
「刑事さんも」
「五年間、彼を追ってきた」
倉橋は静かに続ける。
「追いながら、何度も、この事実に戻る」
「なぜですか」
「忘れそうになるからだ」
倉橋は言った。
「怪物として追う方が、簡単だから」
咲良は、倉橋の顔を見た。
いつもの。
事実だけを話す刑事の顔ではなかった。
今日だけは、その奥にあるものが、少しだけ見えていた。
「善人だったなら」
咲良は言った。
「まだ、戻れる可能性があるんですか」
倉橋は、すぐには答えなかった。
しばらく窓の外を見ていた。
三月の冷たい光が、店内に差し込んでいた。
「分からない」
倉橋は、ようやく口を開いた。
「僕には、それを判断する材料がない」
「じゃあ」
咲良は聞いた。
「誰に判断できるんですか」
倉橋は、咲良を見た。
でも、答えなかった。
代わりに、少しだけ視線を落とした。
咲良は、その視線の先にあるものが分かった気がした。
リアだった。
今、蒼のそばにいる人。
蒼が見せているものを、最も近くで見ている人。
リアだけが、その答えに近い場所にいるのかもしれない。
でも。
リアは何も知らない。
今日、咲良が聞いた話を。
蒼が家族を失った日のことを。
その後、何をしたのかを。
何も知らないまま、蒼の隣にいる。
「刑事さん」
咲良は言った。
「私、気分が悪いです」
倉橋の表情が変わった。
「大丈夫か」
「少し休めば大丈夫です」
咲良は、テーブルの上のコーヒーカップを見た。
もう冷めていた。
一口も飲んでいなかった。
倉橋は、何も言わなかった。
急かさなかった。
咲良は目を閉じた。
ゆっくり呼吸を整える。
それでも、胃の重さは消えなかった。
「一つだけ」
咲良は目を開けた。
「聞いてもいいですか」
「なんだ」
「刑事さんは」
咲良は言葉を選んだ。
「あの子を、逮捕したいですか」
少し間を置く。
「それとも」
「助けたいですか」
倉橋は、長い間答えなかった。
窓の外を見ていた。
三月の光が、横顔を照らしていた。
「両方だ」
倉橋は言った。
「それが、答えだ」
咲良は、その言葉を頭の中で繰り返した。
矛盾しているように聞こえた。
でも。
今日まで聞いてきた全てを考えると、矛盾していなかった。
被害者だった。
同時に。
誰かを傷つけた可能性もある。
その両方を見なければならない。
倉橋は、そう言っているのだと思った。
カフェを出た。
倉橋とは、駅で別れた。
咲良は一人で歩いた。
冬の終わりの風が、まだ冷たかった。
歩きながら。
咲良は何度も、同じ言葉を思い出していた。
最初から怪物だったんじゃない。
一度は、本当に、誰かを守りたかった子だった。
その言葉が。
胃の重さと一緒に、残っていた。
家に着いた。
自室へ戻る。
いつものようにノートを開こうとして。
手を止めた。
今日は書けない気がした。
書けば、何かが決定的になってしまう気がした。
咲良はベッドに座った。
しばらく、何もせずにいた。
胃の奥に残った重さが、少しずつ体の中へ沈んでいく。
明日。
学校でリアに会う。
いつも通りの笑顔で。
いつも通り、蒼の話をするリアに。
咲良は、何を言えばいいのか分からなかった。
言えるはずがなかった。
蒼は最初から怪物だったわけではない。
でも。
だからこそ。
今の蒼を、どう見ればいいのか。
咲良には、まだ答えが出せなかった。
夜が深くなっていく。
咲良は暗い部屋の中で、ただ一つのことだけを考えていた。
明日、リアの隣にいる蒼を。
自分は、今までと同じ目で見られるのだろうか。
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