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【9/17完結!】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第5章「解剖、始まる」

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第43話「米国の事件」

二度目の連絡が来たのは、二月の半ばだった。


送り主は倉橋誠。


メッセージは短い。


「話せることが、少し増えた」


橘咲良は、指定された場所へ向かった。


学校から少し離れた駅前のチェーンカフェだった。


倉橋は奥の席に座っていた。


テーブルには、コーヒーが二つ。


「先に頼んでおいた」


倉橋はそう言った。


「ありがとうございます」


咲良は席に着く。


 


「これから話す内容には」


倉橋は静かな口調で切り出した。


「まだ公開できない捜査情報も含まれる」


咲良は黙ってうなずく。


「誰かに話すときは慎重にしてほしい」


「分かりました」


「瀬戸川さんにも、まだ話さないほうがいい」


「どうしてですか」


「彼女は当事者だからだ」


倉橋はコーヒーを一口飲んだ。


「当事者は、事実を知った瞬間に冷静ではいられなくなることがある」


咲良はその言葉を、そのままノートの余白に記した。


 


「五年前」


倉橋が話し始める。


「朝比奈蒼は、家族とアメリカで暮らしていた」


「父親の仕事の都合ですか」


「そうだ。現地で事業を進めていた」


「詳しい内容は、まだ話せない」


咲良は黙って聞く。


「その仕事の過程で」


倉橋は続けた。


「父親は現地の組織と対立した」


「組織……」


「合法企業を装った犯罪組織だと思ってくれればいい」


咲良はノートを開いた。


書こうとして手を止める。


倉橋がその動きを見た。


「記録して構わない」


「ただし外には出さないでほしい」


咲良は小さくうなずき、ペンを走らせた。


 


「経緯のすべては分かっていない」


倉橋の声は変わらない。


「ただ結果として」


「朝比奈家は標的になった」


咲良は顔を上げる。


「ある夜、自宅が襲撃された」


倉橋は感情を交えない。


事実だけを積み重ねていく。


その淡々とした口調の奥に、意図的な抑制だけが感じられた。


「父親」


「母親」


「妹」


「三人とも殺害された」


咲良のペンが止まる。


ほんの一瞬だけ。


だがすぐに動き出した。


今の自分にできるのは、記録することだけだった。


「朝比奈蒼は」


咲良は静かに尋ねた。


「その場にいたんですか」


倉橋は少しだけ間を置いた。


「いた」


短い返答だった。


「身体に大きなけがはなかった」


そこで言葉を切る。


「ただ、それを無事と呼べるかは別の話だ」


咲良は何も言わなかった。


聞かなくても想像できることがあった。


だから、それ以上は踏み込まなかった。


 


「犯人グループは、その後逮捕された」


倉橋が続ける。


「現地警察の動きは早かった」


「物証も十分だった」


「では、有罪になったんですね」


咲良が尋ねる。


「一度は起訴された」


倉橋は静かに答えた。


その「一度は」という言葉だけが引っ掛かった。


「一度は……ということは」


倉橋はカップに視線を落とした。


しばらく黙る。


「司法取引が成立した」


 


「司法取引」


咲良は小さく繰り返す。


「アメリカでは珍しくない制度だ」


倉橋の声は冷静だった。


「主犯格が別の犯罪組織の情報提供を行い、その見返りとして減刑を受けた」


「結果として」


「実刑は大幅に軽くなった」


咲良のペンが止まる。


「家族三人を殺して、それだけですか」


倉橋は首を横に振った。


「制度の是非を話したいわけじゃない」


「僕も当時の全資料を把握しているわけではない」


「ただ」


「結果だけは変わらない」


「数年後、彼らは社会へ戻った」


その一文だけが重く残った。


 


「朝比奈くんは」


咲良は尋ねる。


「その判決を知っていたんですか」


「知っていた」


倉橋は即答した。


「当時十二歳だった」


「判決の日も法廷にいた」


咲良は言葉を失う。


「十二歳の子どもが」


倉橋は静かに続けた。


「家族を殺した相手が数年で社会へ戻ると、その場で知った」


初めてだった。


倉橋の声がわずかに揺れたのは。


ほんの一瞬。


刑事ではない誰かの表情が、その声にだけ現れた。


 


「その後は」


咲良が尋ねる。


「日本へ戻った」


「親族に引き取られた記録になっている」


「記録になっている……」


「その後の生活は、詳しくは分からない」


倉橋は言った。


「五年間」


「彼は捜査対象ではなかった」


「対象になったのは、いつからですか」


倉橋は少しだけ咲良を見た。


「一年前だ」


「ある情報が入った」


「どんな情報ですか」


倉橋は首を振る。


「それは、まだ話せない」


そして静かに言った。


「今日はここまでだ」


 


咲良はノートを閉じた。


「一つだけ」


倉橋を見る。


「刑事さんは、朝比奈くんをどう思っていますか」


倉橋は答えるまでに時間をかけた。


コーヒーカップを両手で包む。


「僕の仕事は事実を追うことだ」


「感情は仕事の邪魔になる」


少しだけ目を伏せる。


「それでも」


「法廷で判決を聞いていた、あの十二歳の顔を思い出すことがある」


それだけだった。


それ以上は語らなかった。


 


二人は店を出た。


駅前で別れる。


咲良は一人で歩き始めた。


冬の夕方。


今日聞いた話を整理しようとする。


できなかった。


家族三人が殺害されたこと。


十二歳の蒼が法廷に立っていたこと。


そして。


犯人たちは数年で釈放されたこと。


その事実だけが、頭の中に重く沈んでいた。


 


帰り道。


スマートフォンが震えた。


リアからだった。


『今日、蒼くんと一緒に帰ってる』


いつもと変わらない一文。


咲良は画面を見つめた。


リアは何も知らない。


蒼の過去も。


今日、自分が聞いた事実も。


知らないまま、今も蒼の隣を歩いている。


返信を書こうとして指が止まる。


何を書けばいいのか分からなかった。


 


帰宅後、咲良はノートを開いた。


今日の記録を書き加える。


「五年前、米国にて朝比奈蒼の家族三名が殺害される」


「犯人グループは司法取引により減刑」


「数年後、釈放」


「朝比奈蒼。当時十二歳。判決を法廷で聞く」


書き終えたページを見つめる。


これまで並んでいた「推定」や「不明」は、そこにはなかった。


今日は違う。


事実だけが並んでいた。


だが、事実になったことで重さは増していた。


犯人グループは釈放された。


その先に何が起きたのか。


まだ誰も語っていない。


咲良はノートを閉じた。


冬の夜は静かだった。


その静けさだけが、部屋に残っていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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