第43話「米国の事件」
二度目の連絡が来たのは、二月の半ばだった。
送り主は倉橋誠。
メッセージは短い。
「話せることが、少し増えた」
橘咲良は、指定された場所へ向かった。
学校から少し離れた駅前のチェーンカフェだった。
倉橋は奥の席に座っていた。
テーブルには、コーヒーが二つ。
「先に頼んでおいた」
倉橋はそう言った。
「ありがとうございます」
咲良は席に着く。
「これから話す内容には」
倉橋は静かな口調で切り出した。
「まだ公開できない捜査情報も含まれる」
咲良は黙ってうなずく。
「誰かに話すときは慎重にしてほしい」
「分かりました」
「瀬戸川さんにも、まだ話さないほうがいい」
「どうしてですか」
「彼女は当事者だからだ」
倉橋はコーヒーを一口飲んだ。
「当事者は、事実を知った瞬間に冷静ではいられなくなることがある」
咲良はその言葉を、そのままノートの余白に記した。
「五年前」
倉橋が話し始める。
「朝比奈蒼は、家族とアメリカで暮らしていた」
「父親の仕事の都合ですか」
「そうだ。現地で事業を進めていた」
「詳しい内容は、まだ話せない」
咲良は黙って聞く。
「その仕事の過程で」
倉橋は続けた。
「父親は現地の組織と対立した」
「組織……」
「合法企業を装った犯罪組織だと思ってくれればいい」
咲良はノートを開いた。
書こうとして手を止める。
倉橋がその動きを見た。
「記録して構わない」
「ただし外には出さないでほしい」
咲良は小さくうなずき、ペンを走らせた。
「経緯のすべては分かっていない」
倉橋の声は変わらない。
「ただ結果として」
「朝比奈家は標的になった」
咲良は顔を上げる。
「ある夜、自宅が襲撃された」
倉橋は感情を交えない。
事実だけを積み重ねていく。
その淡々とした口調の奥に、意図的な抑制だけが感じられた。
「父親」
「母親」
「妹」
「三人とも殺害された」
咲良のペンが止まる。
ほんの一瞬だけ。
だがすぐに動き出した。
今の自分にできるのは、記録することだけだった。
「朝比奈蒼は」
咲良は静かに尋ねた。
「その場にいたんですか」
倉橋は少しだけ間を置いた。
「いた」
短い返答だった。
「身体に大きなけがはなかった」
そこで言葉を切る。
「ただ、それを無事と呼べるかは別の話だ」
咲良は何も言わなかった。
聞かなくても想像できることがあった。
だから、それ以上は踏み込まなかった。
「犯人グループは、その後逮捕された」
倉橋が続ける。
「現地警察の動きは早かった」
「物証も十分だった」
「では、有罪になったんですね」
咲良が尋ねる。
「一度は起訴された」
倉橋は静かに答えた。
その「一度は」という言葉だけが引っ掛かった。
「一度は……ということは」
倉橋はカップに視線を落とした。
しばらく黙る。
「司法取引が成立した」
「司法取引」
咲良は小さく繰り返す。
「アメリカでは珍しくない制度だ」
倉橋の声は冷静だった。
「主犯格が別の犯罪組織の情報提供を行い、その見返りとして減刑を受けた」
「結果として」
「実刑は大幅に軽くなった」
咲良のペンが止まる。
「家族三人を殺して、それだけですか」
倉橋は首を横に振った。
「制度の是非を話したいわけじゃない」
「僕も当時の全資料を把握しているわけではない」
「ただ」
「結果だけは変わらない」
「数年後、彼らは社会へ戻った」
その一文だけが重く残った。
「朝比奈くんは」
咲良は尋ねる。
「その判決を知っていたんですか」
「知っていた」
倉橋は即答した。
「当時十二歳だった」
「判決の日も法廷にいた」
咲良は言葉を失う。
「十二歳の子どもが」
倉橋は静かに続けた。
「家族を殺した相手が数年で社会へ戻ると、その場で知った」
初めてだった。
倉橋の声がわずかに揺れたのは。
ほんの一瞬。
刑事ではない誰かの表情が、その声にだけ現れた。
「その後は」
咲良が尋ねる。
「日本へ戻った」
「親族に引き取られた記録になっている」
「記録になっている……」
「その後の生活は、詳しくは分からない」
倉橋は言った。
「五年間」
「彼は捜査対象ではなかった」
「対象になったのは、いつからですか」
倉橋は少しだけ咲良を見た。
「一年前だ」
「ある情報が入った」
「どんな情報ですか」
倉橋は首を振る。
「それは、まだ話せない」
そして静かに言った。
「今日はここまでだ」
咲良はノートを閉じた。
「一つだけ」
倉橋を見る。
「刑事さんは、朝比奈くんをどう思っていますか」
倉橋は答えるまでに時間をかけた。
コーヒーカップを両手で包む。
「僕の仕事は事実を追うことだ」
「感情は仕事の邪魔になる」
少しだけ目を伏せる。
「それでも」
「法廷で判決を聞いていた、あの十二歳の顔を思い出すことがある」
それだけだった。
それ以上は語らなかった。
二人は店を出た。
駅前で別れる。
咲良は一人で歩き始めた。
冬の夕方。
今日聞いた話を整理しようとする。
できなかった。
家族三人が殺害されたこと。
十二歳の蒼が法廷に立っていたこと。
そして。
犯人たちは数年で釈放されたこと。
その事実だけが、頭の中に重く沈んでいた。
帰り道。
スマートフォンが震えた。
リアからだった。
『今日、蒼くんと一緒に帰ってる』
いつもと変わらない一文。
咲良は画面を見つめた。
リアは何も知らない。
蒼の過去も。
今日、自分が聞いた事実も。
知らないまま、今も蒼の隣を歩いている。
返信を書こうとして指が止まる。
何を書けばいいのか分からなかった。
帰宅後、咲良はノートを開いた。
今日の記録を書き加える。
「五年前、米国にて朝比奈蒼の家族三名が殺害される」
「犯人グループは司法取引により減刑」
「数年後、釈放」
「朝比奈蒼。当時十二歳。判決を法廷で聞く」
書き終えたページを見つめる。
これまで並んでいた「推定」や「不明」は、そこにはなかった。
今日は違う。
事実だけが並んでいた。
だが、事実になったことで重さは増していた。
犯人グループは釈放された。
その先に何が起きたのか。
まだ誰も語っていない。
咲良はノートを閉じた。
冬の夜は静かだった。
その静けさだけが、部屋に残っていた。
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