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【9/17完結!】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第5章「解剖、始まる」

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第42話「倉橋という男」

その男を見かけたのは、偶然だった。


橘咲良は、二月の初め、学校帰りに立ち寄った図書館で、その男を見た。


市立図書館の郷土資料コーナー。


新聞部の取材で、学院の創立史を調べていた。


目的の資料を探している途中、隣の棚で、一人の男が新聞の縮刷版をめくっているのに気づいた。


四十代半ばくらい。


着崩していないスーツ姿。


堅苦しさはない。


咲良の目を引いたのは、男が読んでいた記事だった。


英字新聞だった。


日本の図書館で、しかも郷土資料コーナーで英字新聞を読み込む人間は珍しい。


 


咲良は、その男を観察した。


観察は昔からの癖だった。


新聞部に入る前から、気になったものは覚えておく性分だった。


男は、あるページで手を止めた。


しばらく記事を見つめる。


それからスマートフォンを取り出し、そのページを撮影した。


一連の動きに無駄はなかった。


男が顔を上げる。


咲良と目が合った。


 


「何か?」


穏やかな声だった。


警戒も威圧感もない。


「すみません。見てしまって」


咲良は軽く頭を下げた。


「英字新聞を読んでいる方が珍しくて」


「仕事でね」


男は縮刷版を閉じた。


「学生さん?」


「桜渓学院です」


「桜渓か」


男は少しだけ考えるような顔をした。


「いい学校だね」


「ご存じなんですか」


「近くを通ることがある」


会話はそこで終わりそうだった。


咲良は一瞬迷う。


それでも聞いた。


「お仕事は何を?」


男は静かに咲良を見た。


値踏みではない。


答えるべきかを考えている目だった。


「警察」


短く答える。


「国際犯罪課だ」


 


その言葉に、咲良の意識が止まった。


国際犯罪課。


英字新聞。


その二つが頭の中で結びつく。


「国際犯罪課の方が、この図書館に?」


質問は踏み込みすぎたかもしれない。


そう思ったが、男は気にした様子を見せなかった。


「昔の資料を調べていてね」


縮刷版を書棚へ戻す。


「五年前の事件だ」


「五年前……」


「アメリカで起きた事件だよ。日本では大きく報じられなかった」


咲良の鼓動が少し速くなる。


まだ理由は説明できない。


それでも、何かがつながる感覚だけはあった。


 


「お名前を伺ってもいいですか」


「倉橋」


男は答えた。


「倉橋誠」


「橘咲良です」


「新聞部かな」


「どうして分かったんですか」


倉橋は少しだけ笑った。


「質問の角度が記者っぽい」


咲良は驚いた。


言い当てられていた。


「学校のことを調べています」


「学校のこと?」


「はい」


倉橋はしばらく黙った。


何かを考えている。


「桜渓学院で」


静かな声だった。


「最近、何か変わったことはあった?」


その質問は妙だった。


刑事のほうから学校の様子を探る。


違和感があった。


「なぜ、そんなことを聞くんですか」


倉橋はすぐには答えない。


少し考えてから、逆に尋ねた。


「転入生はいる?」


咲良の呼吸が止まった。


「います」


咲良は静かに答えた。


自分の声が少しだけ硬くなっていることに気づいていた。


「朝比奈という名前かな」


咲良は倉橋を見た。


倉橋も、まっすぐ咲良を見返していた。


穏やかな表情だった。


だが、その奥には長い時間を抱えたような重さがあった。


「どうして、その名前を」


咲良は尋ねた。


倉橋は少し黙ったあと、静かに口を開く。


「五年前の事件と関係がある名前だからだ」


 


咲良は言葉を失った。


十か月かけて書きためたノート。


そこに並ぶ「不明」「推定」「説明不能」という文字が、一斉によみがえる。


「詳しく聞かせてもらえませんか」


倉橋は答える代わりに問い返した。


「君は朝比奈蒼を、どこまで知っている?」


咲良は少し考え、正直に話すことにした。


「不審な点はいくつもあります。でも、確証はありません」


「例えば?」


「クラスメイトへの中傷事件です」


「それから、リアへのストーカー被害」


「どちらも朝比奈くんが関わっていると思っています。でも証拠がありません」


倉橋の目がわずかに動いた。


驚きではない。


確認できた、という表情だった。


「よく見ているね」


「刑事さんは何を知っているんですか」


図書館は静まり返っていた。


二人の声だけが、小さく響く。


「全部は話せない」


倉橋は言った。


「どうしてですか」


「捜査中だからだ」


「少しだけでも」


倉橋は咲良を見つめた。


何を話し、何を伏せるか。


その線引きをしているようだった。


「話せることと、話せないことがある」


静かな口調だった。


「今日はここまでだ」


 


「連絡先を交換してもいいですか」


咲良は自分でも驚くほど自然に口にしていた。


この機会を逃したくなかった。


倉橋は少し考え、胸ポケットから名刺を取り出した。


そこには、


国際犯罪課


倉橋誠


という肩書と名前、連絡先が印字されていた。


「何か分かったら連絡していい」


倉橋は名刺を差し出す。


「ただし、一人では動かないでほしい」


「なぜですか」


「危険だからだ」


その一言は短かった。


だからこそ重かった。


咲良は名刺を受け取りながら尋ねる。


「朝比奈蒼は……危険な人なんですか」


倉橋はすぐには答えなかった。


「危険という言葉が正しいかは分からない」


静かな声だった。


「ただ、普通の高校生ではない」


 


咲良は名刺を見つめた。


紙一枚なのに、不思議な重みがあった。


「一つだけ教えてください」


顔を上げる。


「あの人は、悪い人なんですか」


倉橋は長く黙った。


答えを探しているようだった。


やがて、小さく息を吐く。


「それは」


ゆっくりと言葉を選ぶ。


「今の僕にも、正確には分からない」


予想外の答えだった。


もっと断定的な言葉を想像していた。


「分からない……」


咲良は思わず繰り返した。


「五年前の彼は、今とは違う子どもだった」


倉橋は静かに続ける。


「今の彼が、どう変わったのか」


「それを確かめようとしている」


 


倉橋は資料を鞄へしまった。


「今日はもう行く」


「連絡を待っている」


「はい」


倉橋は図書館をあとにした。


咲良は、その背中が見えなくなるまで見送った。


手元には名刺が残る。


倉橋誠。


国際犯罪課。


電話番号をノートへ書き写す。


一文字も間違えないように。


丁寧に。


 


帰り道。


咲良は今日の出来事を整理していた。


倉橋という刑事。


五年前の事件。


朝比奈蒼という名前。


普通の高校生ではない、という言葉。


そして、


五年前は違う子どもだった。


その一言だけが、何度も頭の中で反響する。


何が違ったのか。


何が起きたのか。


まだ何も分からない。


それでも、ようやく一つだけ確かなことがあった。


自分の違和感は、思い込みではなかった。


咲良はもう一度、名刺を見た。


リアに話すべきか。


それとも、もう少し調べてからにするか。


答えは出ない。


名刺を財布へしまい、冬の夜道を歩き続けた。


静かな夜だった。


だが咲良の調査は、この日を境に、新しい段階へ踏み込もうとしていた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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