第40話「晩餐」
一月最後の週末だった。
蒼から「家に来ないか」と誘われた。
「家って、蒼くんの?」
「うん。誰もいないから」
「誰もいない、って」
「一人暮らしだから」
一人暮らし。
初めて聞いた事実だった。
高校生で一人暮らしというのは珍しい。
理由を聞こうとして、やめた。
聞かなくていいことが、まだたくさんある。
その一つだった。
土曜日の午後。
蒼のマンションへ向かった。
駅から少し離れた、静かな場所だった。
エントランスで蒼が待っていた。
「よく来たね」
「呼んだのは蒼くんだよ」
「そうだけど」
蒼は少しだけ笑った。
エレベーターに乗った。
七階だった。
部屋に入る。
整理された部屋だった。
物は少ない。
でも、冷たい感じはしなかった。
必要なものが、必要な場所にある。
そんな部屋だった。
本棚に目が向いた。
神経科学の本。
哲学書。
詩集。
並んだ背表紙の中に、一冊のリルケの詩集があった。
図書室で読んでいたものと、同じシリーズだった。
「これ、買ったの?」
「うん」
蒼は本棚を見た。
「図書室で読んで、欲しくなった」
欲しくなった。
また、その言葉だった。
最近、この言葉をよく聞く。
蒼が何かを欲しいと言うこと。
それ自体が、少し新鮮だった。
キッチンで、蒼が料理を始めた。
「作れるんだ」
「一人暮らしだから」
「何を作るの?」
「見てて」
言われた通り、見ていた。
野菜を切る手つきは丁寧だった。
無駄がない。
動きの一つ一つが、必要な分だけだった。
弓を引く蒼を思い出した。
似ていると思った。
余計な力がないところが。
「手伝おうか」
「座ってて」
蒼は包丁を置かずに言った。
「今日はリアをもてなす日だから」
もてなす。
その言葉を、蒼の口から聞くのは初めてだった。
少し古い言い方。
でも、蒼が言うと不思議と自然だった。
一時間ほどして、料理が完成した。
パスタ。
サラダ。
小さなスープ。
派手ではない。
でも、丁寧に作られていた。
テーブルに並んだ料理を見て、少し驚いた。
「本当に美味しそう」
「味は保証しない」
「謙遜?」
「正直な感想」
食べた。
美味しかった。
「美味しい」
そう言うと、蒼の表情が少し変わった。
ほんの少しだけ。
でも、分かった。
嬉しいのだと思った。
いつもの静かな顔に、分かりやすい喜びが混じっていた。
「よかった」
「よく作るの、こういうの」
「一人のときは、もっと簡単なもの」
「今日は特別?」
「特別」
即答だった。
食事をしながら、色々な話をした。
弓道の話。
学校の話。
颯太の話。
隼のバスケの話。
蒼はよく笑った。
今日の笑い方は、ファミレスで見たものに近かった。
力が抜けていた。
でも、それだけではなかった。
穏やかさが、もう一段深かった。
自分の部屋だからかもしれない。
整えなくていい場所だから、蒼はこうしていられるのかもしれない。
「今日、楽しい」
気づけば、口に出していた。
「僕も」
「本当に?」
「本当に」
蒼は私を見た。
「こんなふうに誰かと食事するの、久しぶり」
「久しぶりって」
「小学生のとき以来かもしれない」
小学生のとき。
蒼の家の食卓を想像した。
灯がいて。
蒼の母がいて。
賑やかな食卓。
その記憶と、今日の静かな食卓が少し重なった。
「懐かしい」
蒼が言った。
「食卓が?」
「誰かと食べること自体が」
その言葉の奥に、七年間の空白があった。
でも今日は、そこに触れなかった。
触れないまま、食事を続けた。
食後。
二人でソファに座った。
窓の外は、もう暗くなっていた。
一月の日は短い。
「今日はありがとう」
私は言った。
「こちらこそ」
また、その言葉だった。
指輪を渡した夜も。
図書室の後も。
蒼はこの言葉を使う。
今日は、その意味を少し聞いてみたくなった。
「こちらこそ、って何に対して?」
蒼は少し考えた。
「来てくれたこと」
「それだけ?」
「今日、笑ってくれたこと」
「私、笑ってた?」
「たくさん」
自分では気づいていなかった。
でも蒼が言うなら、そうだったのかもしれない。
「蒼くんも、今日はたくさん笑ってた」
「そう?」
「うん。一番、自然な感じがした」
蒼は少し黙った。
「ここにいると」
蒼はゆっくり言った。
「誰も僕を見ていない」
「私は見てる」
「リアは特別」
その言葉に、迷いはなかった。
「特別って」
「見られていい人」
蒼は静かに言った。
「他の誰にも、これを見せたくない」
これ。
何を指しているのかは分からなかった。
でも聞かなかった。
今日は、聞かない方がいい気がした。
しばらく、二人で静かに座っていた。
窓の外の暗さが、少しずつ深くなる。
「リア」
蒼が言った。
「うん」
「今日みたいな日が、続くといいと思う」
「続くよ」
私はすぐに答えた。
「本当に?」
「本当に」
蒼は何も言わなかった。
でも、その沈黙が今日一番穏やかだった。
穏やかな沈黙の中で、私は今日という日をゆっくり味わった。
蒼の部屋。
丁寧な料理。
よく笑う蒼。
もてなす、という少し古い言葉。
特別、という言葉。
全部が、今日という日にあった。
この日のことを、私はずっと覚えているだろう。
そう思った。
理由は分からなかった。
ただ、そう思った。
夜。
蒼が駅まで送ってくれた。
改札の前。
いつものように別れる時間になった。
「今日、来てよかった」
私が言うと、蒼は頷いた。
「僕も、呼んでよかった」
「また誘って」
「誘う」
蒼は少しだけ笑った。
今日最後の笑顔だった。
一番、自然な笑顔だった。
私はその表情を見ながら、改札を抜けた。
ホームへ降りた。
電車を待ちながら、今日という日をもう一度思い返した。
何度思い返しても、良い記憶しか出てこなかった。
不安も。
違和感も。
今夜はどこにもなかった。
ただ、幸福だけがあった。
電車が来た。
乗り込んだ。
窓の外の夜の街が、静かに流れていく。
左手の指輪が、車内の光を受けて小さく光った。
今日という日を。
私はこの先ずっと、良い日として覚えているだろう。
そんな確信だけを持って、家へ帰った。
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