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【9/17完結!】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第4章「虚飾の晩餐」 

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第40話「晩餐」

一月最後の週末だった。


蒼から「家に来ないか」と誘われた。


「家って、蒼くんの?」


「うん。誰もいないから」


「誰もいない、って」


「一人暮らしだから」


一人暮らし。


初めて聞いた事実だった。


高校生で一人暮らしというのは珍しい。


理由を聞こうとして、やめた。


聞かなくていいことが、まだたくさんある。


その一つだった。



土曜日の午後。


蒼のマンションへ向かった。


駅から少し離れた、静かな場所だった。


エントランスで蒼が待っていた。


「よく来たね」


「呼んだのは蒼くんだよ」


「そうだけど」


蒼は少しだけ笑った。


エレベーターに乗った。


七階だった。


部屋に入る。


整理された部屋だった。


物は少ない。


でも、冷たい感じはしなかった。


必要なものが、必要な場所にある。


そんな部屋だった。


本棚に目が向いた。


神経科学の本。


哲学書。


詩集。


並んだ背表紙の中に、一冊のリルケの詩集があった。


図書室で読んでいたものと、同じシリーズだった。


「これ、買ったの?」


「うん」


蒼は本棚を見た。


「図書室で読んで、欲しくなった」


欲しくなった。


また、その言葉だった。


最近、この言葉をよく聞く。


蒼が何かを欲しいと言うこと。


それ自体が、少し新鮮だった。



キッチンで、蒼が料理を始めた。


「作れるんだ」


「一人暮らしだから」


「何を作るの?」


「見てて」


言われた通り、見ていた。


野菜を切る手つきは丁寧だった。


無駄がない。


動きの一つ一つが、必要な分だけだった。


弓を引く蒼を思い出した。


似ていると思った。


余計な力がないところが。


「手伝おうか」


「座ってて」


蒼は包丁を置かずに言った。


「今日はリアをもてなす日だから」


もてなす。


その言葉を、蒼の口から聞くのは初めてだった。


少し古い言い方。


でも、蒼が言うと不思議と自然だった。



一時間ほどして、料理が完成した。


パスタ。


サラダ。


小さなスープ。


派手ではない。


でも、丁寧に作られていた。


テーブルに並んだ料理を見て、少し驚いた。


「本当に美味しそう」


「味は保証しない」


「謙遜?」


「正直な感想」


食べた。


美味しかった。


「美味しい」


そう言うと、蒼の表情が少し変わった。


ほんの少しだけ。


でも、分かった。


嬉しいのだと思った。


いつもの静かな顔に、分かりやすい喜びが混じっていた。


「よかった」


「よく作るの、こういうの」


「一人のときは、もっと簡単なもの」


「今日は特別?」


「特別」


即答だった。



食事をしながら、色々な話をした。


弓道の話。


学校の話。


颯太の話。


隼のバスケの話。


蒼はよく笑った。


今日の笑い方は、ファミレスで見たものに近かった。


力が抜けていた。


でも、それだけではなかった。


穏やかさが、もう一段深かった。


自分の部屋だからかもしれない。


整えなくていい場所だから、蒼はこうしていられるのかもしれない。


「今日、楽しい」


気づけば、口に出していた。


「僕も」


「本当に?」


「本当に」


蒼は私を見た。


「こんなふうに誰かと食事するの、久しぶり」


「久しぶりって」


「小学生のとき以来かもしれない」


小学生のとき。


蒼の家の食卓を想像した。


灯がいて。


蒼の母がいて。


賑やかな食卓。


その記憶と、今日の静かな食卓が少し重なった。


「懐かしい」


蒼が言った。


「食卓が?」


「誰かと食べること自体が」


その言葉の奥に、七年間の空白があった。


でも今日は、そこに触れなかった。


触れないまま、食事を続けた。



食後。


二人でソファに座った。


窓の外は、もう暗くなっていた。


一月の日は短い。


「今日はありがとう」


私は言った。


「こちらこそ」


また、その言葉だった。


指輪を渡した夜も。


図書室の後も。


蒼はこの言葉を使う。


今日は、その意味を少し聞いてみたくなった。


「こちらこそ、って何に対して?」


蒼は少し考えた。


「来てくれたこと」


「それだけ?」


「今日、笑ってくれたこと」


「私、笑ってた?」


「たくさん」


自分では気づいていなかった。


でも蒼が言うなら、そうだったのかもしれない。


「蒼くんも、今日はたくさん笑ってた」


「そう?」


「うん。一番、自然な感じがした」


蒼は少し黙った。


「ここにいると」


蒼はゆっくり言った。


「誰も僕を見ていない」


「私は見てる」


「リアは特別」


その言葉に、迷いはなかった。


「特別って」


「見られていい人」


蒼は静かに言った。


「他の誰にも、これを見せたくない」


これ。


何を指しているのかは分からなかった。


でも聞かなかった。


今日は、聞かない方がいい気がした。



しばらく、二人で静かに座っていた。


窓の外の暗さが、少しずつ深くなる。


「リア」


蒼が言った。


「うん」


「今日みたいな日が、続くといいと思う」


「続くよ」


私はすぐに答えた。


「本当に?」


「本当に」


蒼は何も言わなかった。


でも、その沈黙が今日一番穏やかだった。


穏やかな沈黙の中で、私は今日という日をゆっくり味わった。


蒼の部屋。


丁寧な料理。


よく笑う蒼。


もてなす、という少し古い言葉。


特別、という言葉。


全部が、今日という日にあった。


この日のことを、私はずっと覚えているだろう。


そう思った。


理由は分からなかった。


ただ、そう思った。



夜。


蒼が駅まで送ってくれた。


改札の前。


いつものように別れる時間になった。


「今日、来てよかった」


私が言うと、蒼は頷いた。


「僕も、呼んでよかった」


「また誘って」


「誘う」


蒼は少しだけ笑った。


今日最後の笑顔だった。


一番、自然な笑顔だった。


私はその表情を見ながら、改札を抜けた。


ホームへ降りた。


電車を待ちながら、今日という日をもう一度思い返した。


何度思い返しても、良い記憶しか出てこなかった。


不安も。


違和感も。


今夜はどこにもなかった。


ただ、幸福だけがあった。


電車が来た。


乗り込んだ。


窓の外の夜の街が、静かに流れていく。


左手の指輪が、車内の光を受けて小さく光った。


今日という日を。


私はこの先ずっと、良い日として覚えているだろう。


そんな確信だけを持って、家へ帰った。







ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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