第39話「いいやつ」
年が明けた。
一月の教室は、まだ少しだけ冬休みを引きずっていた。
始業式から数日。
みんな、まだ本調子ではない。
窓際の席に座りながら、私は左手を見た。
指輪は、外していなかった。
もう、外す理由はなかった。
つけていることにも、少しずつ慣れてきていた。
放課後。
体育館へ向かうことになった。
理由は単純だった。
隼が誘ったからだ。
「見に来てよ。リアさんも蒼も」
冬の大会が近いらしい。
「なんで私も」
そう聞くと、隼は当然のように答えた。
「応援って大事だから」
「弓道部の応援には来ないのに」
「行くよ、今度」
「今度っていつ」
「今度は今度」
その適当さが、隼らしかった。
考えるより先に言葉が出る。
思ったことが、そのまま顔に出る。
一緒にいて疲れない。
そういう人だった。
蒼も来ることになった。
三人で体育館へ向かった。
練習は、本格的だった。
思っていたより、ずっと真剣だった。
声を掛け合う。
走り込む。
何度もシュートを繰り返す。
隼が声を出すたび、コート全体が少し締まった。
「隼くん、真剣だね」
私が言うと、蒼が少し笑った。
「あいつ、こういうときだけ格好いい」
「知ってるんだ」
「隣で見てるから」
隣で見てる。
その言葉が、自然に出ていた。
隼のバスケを見ることが、蒼にとって当たり前になっている。
そう感じた。
練習が一段落した。
休憩に入る。
隼が水筒を持って、こちらへ来た。
「どうだった?」
「真剣だった」
「だろ?」
隼は嬉しそうに笑った。
「大会近いからな」
「勝てそう?」
「分かんない」
隼は水を飲んだ。
「相手も強いし」
少し間を置く。
「でも今年はいける気がする」
「なんで?」
「なんとなく」
隼は笑った。
「チームの空気がいいから」
「空気?」
「うん。去年よりまとまってる」
蒼が言った。
「隼のおかげじゃない?」
「え?」
「隼が声を出すと、みんな動きやすくなる」
「そう?」
「そう」
隼は少し照れた。
「そんなことないって」
「あるよ」
蒼は静かに言った。
「隼がいるだけで、場の空気が変わる」
隼はしばらく黙った。
それから、少し真面目な顔になった。
「蒼はさ」
「うん」
「なんでもできるし、頭もいい」
隼は少し笑った。
「なのに、そういうこと言うんだな」
「そういうこと?」
「人をちゃんと見ること」
蒼の動きが、少し止まった。
「持ち上げてるつもりはない」
「分かってる」
隼は水筒の蓋を閉めた。
「だから言ってる」
そして。
「お前はいいやつだよ、蒼」
その言葉が落ちた瞬間。
蒼の表情が、ほんの一瞬だけ止まった。
本当に一瞬だった。
でも、私は見ていた。
いつものように笑おうとして。
でも、少しだけ遅れた。
「そう?」
蒼は言った。
いつもの「そう?」とは違った。
軽さがなかった。
隼は気づかなかった。
「お、コーチ呼んでる」
そう言って、すぐにコートへ戻っていった。
蒼は、その背中を見ていた。
しばらく動かなかった。
「蒼くん」
呼ぶと、蒼は振り向いた。
「うん」
「今の顔」
「今の?」
「隼くんに、いいやつって言われたとき」
蒼は答えなかった。
体育館の端。
観客席の隅。
二人で座っていた。
「言われ慣れてないの?」
聞くと、蒼は少し考えた。
「言われたことはある」
「でも今日は違った?」
「違う気がした」
「どう違うの?」
蒼はコートを見た。
隼が走っている。
声を出している。
いつも通りの姿だった。
「隼は、何も知らずに言ってる」
「うん」
「知らないまま、それでも本気で言ってる」
「それが辛いの?」
蒼は答えなかった。
でも、その沈黙が答えだった。
「私」
蒼が小さく言った。
「うん」
「僕は、いいやつじゃない」
静かな声だった。
突然の言葉だった。
「なんで急に」
「隼にああ言われて、違和感があった理由」
蒼はゆっくりと言葉を探した。
「僕が、いいやつじゃないことを知っているからだと思う」
「蒼くんは」
言いかけた。
でも蒼が首を振った。
「言わなくていい」
珍しかった。
蒼が私の言葉を途中で止めることは、ほとんどなかった。
「リアが何を言おうとしているかは分かる」
蒼は続けた。
「でも今は、聞きたくない」
私は口を閉じた。
蒼は少しだけ目を伏せた。
いつもの蒼ではなかった。
整えていない顔。
隼が言ったこととは、少し違う意味で。
本当の部分が出ていた。
「隼は」
蒼が言った。
「たぶん、僕がなれたかもしれない自分に近い」
「なれたかもしれない自分」
「感情が、そのまま出る」
蒼はコートを見る。
「思ったことを隠さない」
「誰かを傷つけようとして動かない」
「そういう人間」
隼が走っている。
声を出している。
仲間に笑いかけている。
「僕は、そうならなかった」
「どうして」
聞くと、蒼は少しだけ黙った。
「理由は言えない」
静かな声だった。
「でも、ならなかった」
それだけだった。
体育館の音が遠く感じた。
ボールが跳ねる音。
シューズが床を擦る音。
誰かの声。
その全部の中で、蒼だけが少しだけ止まっていた。
「隼といると」
蒼が言った。
「少しだけ、なれたかもしれない自分に戻れる気がする」
「戻れる?」
「でも」
蒼は首を振った。
「戻れているわけじゃない」
「近づいている気がするだけ」
「本当に戻ることは、できない」
その言葉だけは、迷いがなかった。
だから何も返せなかった。
隼がこちらへ走ってきた。
「休憩終わり!」
明るい声だった。
「次のセット、ちゃんと見ててよ」
蒼は顔を上げた。
「見てる」
いつもの声だった。
さっきまでの静けさが消えていた。
「戻った」
私が言うと、蒼がこちらを見る。
「何が?」
「いつもの蒼くんに」
蒼は少し笑った。
「戻るしかないから」
その一言が、体育館の中で一番重く残った。
練習が終わった。
三人で体育館を出た。
冬の夕方だった。
空気が冷たい。
「今日はありがとな」
隼が言った。
「別に」
私が答える。
「蒼も」
「うん」
「また応援来てくれよ」
「予定が合えば」
「そこは来るって言えよ」
隼が笑う。
蒼も少し笑った。
隼は自転車に乗り、そのまま帰っていった。
残ったのは、私と蒼だけだった。
「隼くんに」
私は言った。
「いいやつって言われたこと」
「うん」
「私も、同じこと思ってる」
蒼が足を止めた。
「リア」
「蒼くんは、いいやつだと思う」
少し間があった。
「リアは知ってるでしょ」
蒼の声が低くなる。
「僕がしたことを」
「知ってる」
「それでも?」
「それでも思う」
私は答えた。
「いいやつかどうかと、してきたことは別の話だと思う」
蒼は黙った。
しばらく歩いた。
「その考え方」
蒼が言う。
「危ないと思う」
「なんで」
「何をしても、いいやつでいられることになる」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
私は少し考えた。
「蒼くんの中に、いいやつの部分が本当にあるってこと」
「部分だけじゃ足りない」
「足りなくても」
私は言った。
「ある」
蒼は答えなかった。
冬の道を、二人で歩いた。
いいやつという言葉だけが、静かに残っていた。
改札の前まで来た。
いつもの場所だった。
いつものように、人が行き交っていた。
「また明日」
蒼が言った。
「また明日」
蒼が改札を抜けていく。
私はその背中を見ていた。
少しずつ遠ざかっていく。
見えなくなるまで、動かなかった。
今日の蒼は、何度も止まった。
隼の言葉を聞いたとき。
なれたかもしれない自分の話をしたとき。
「戻るしかない」と言ったとき。
止まって。
考えて。
また動いた。
その繰り返しだった。
ホームへ降りた。
電車を待つ。
冷たい風が吹いた。
左手を見た。
指輪があった。
冬の照明を受けて、静かに光っていた。
お前はいいやつだよ、蒼。
隼の言葉を思い出した。
何も知らないから言えた言葉。
何も知らないのに、迷わず言えた言葉。
その言葉が、蒼にとってどれほど重いのか。
今の私には、まだ全部は分からなかった。
でも。
きっと軽い言葉ではない。
そんな気がした。
電車が来た。
乗り込んだ。
窓の外が流れ始める。
街の明かりが、線になって消えていく。
今日の蒼は、いつもと違っていた。
完璧な顔。
整えた顔。
少し崩れた顔。
苦しそうな顔。
それでも笑った顔。
どれが本当なのか。
そんなことを考えていた。
でも、途中でやめた。
きっと全部、本当なのだと思った。
蒼は一つの顔だけで生きているわけじゃない。
隼の前で見せる顔。
私の前で見せる顔。
一人でいるときの顔。
その全部が蒼なのだと思った。
だからこそ。
隼の言葉が重い。
何も知らない人間から向けられた肯定。
それを、蒼は受け取れない。
受け取れないのに。
それでも、少しだけ揺れていた。
その揺れを、私は見た。
電車の窓に映る自分を見る。
左手の指輪が目に入る。
指でそっと触れた。
もう癖になっていた。
悪くない癖だと思った。
明日も図書室へ行く。
明日も蒼に会う。
それだけは、確かだった。
電車は夜の街を進んでいった。
冬の夜は長い。
でも今夜の私は、不思議と寒くなかった。
隼の言葉が。
蒼の止まった時間が。
そして、今日見た蒼の表情が。
まだ胸の中に残っていた。
その残ったものが何なのか。
まだ名前はつけられなかった。
でも。
いつか蒼自身が、その言葉を受け取れる日が来るのかもしれない。
そんな小さな期待だけを抱えて。
私は帰路についた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




