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【9/17完結!】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第4章「虚飾の晩餐」 

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第39話「いいやつ」

年が明けた。


一月の教室は、まだ少しだけ冬休みを引きずっていた。


始業式から数日。


みんな、まだ本調子ではない。


窓際の席に座りながら、私は左手を見た。


指輪は、外していなかった。


もう、外す理由はなかった。


つけていることにも、少しずつ慣れてきていた。




放課後。


体育館へ向かうことになった。


理由は単純だった。


隼が誘ったからだ。


「見に来てよ。リアさんも蒼も」


冬の大会が近いらしい。


「なんで私も」


そう聞くと、隼は当然のように答えた。


「応援って大事だから」


「弓道部の応援には来ないのに」


「行くよ、今度」


「今度っていつ」


「今度は今度」


その適当さが、隼らしかった。


考えるより先に言葉が出る。


思ったことが、そのまま顔に出る。


一緒にいて疲れない。


そういう人だった。


蒼も来ることになった。


三人で体育館へ向かった。




練習は、本格的だった。


思っていたより、ずっと真剣だった。


声を掛け合う。


走り込む。


何度もシュートを繰り返す。


隼が声を出すたび、コート全体が少し締まった。


「隼くん、真剣だね」


私が言うと、蒼が少し笑った。


「あいつ、こういうときだけ格好いい」


「知ってるんだ」


「隣で見てるから」


隣で見てる。


その言葉が、自然に出ていた。


隼のバスケを見ることが、蒼にとって当たり前になっている。


そう感じた。




練習が一段落した。


休憩に入る。


隼が水筒を持って、こちらへ来た。


「どうだった?」


「真剣だった」


「だろ?」


隼は嬉しそうに笑った。


「大会近いからな」


「勝てそう?」


「分かんない」


隼は水を飲んだ。


「相手も強いし」


少し間を置く。


「でも今年はいける気がする」


「なんで?」


「なんとなく」


隼は笑った。


「チームの空気がいいから」


「空気?」


「うん。去年よりまとまってる」


蒼が言った。


「隼のおかげじゃない?」


「え?」


「隼が声を出すと、みんな動きやすくなる」


「そう?」


「そう」


隼は少し照れた。


「そんなことないって」


「あるよ」


蒼は静かに言った。


「隼がいるだけで、場の空気が変わる」


隼はしばらく黙った。


それから、少し真面目な顔になった。


「蒼はさ」


「うん」


「なんでもできるし、頭もいい」


隼は少し笑った。


「なのに、そういうこと言うんだな」


「そういうこと?」


「人をちゃんと見ること」


蒼の動きが、少し止まった。


「持ち上げてるつもりはない」


「分かってる」


隼は水筒の蓋を閉めた。


「だから言ってる」


そして。


「お前はいいやつだよ、蒼」


その言葉が落ちた瞬間。


蒼の表情が、ほんの一瞬だけ止まった。


本当に一瞬だった。


でも、私は見ていた。


いつものように笑おうとして。


でも、少しだけ遅れた。


「そう?」


蒼は言った。


いつもの「そう?」とは違った。


軽さがなかった。


隼は気づかなかった。


「お、コーチ呼んでる」


そう言って、すぐにコートへ戻っていった。


蒼は、その背中を見ていた。


しばらく動かなかった。




「蒼くん」


呼ぶと、蒼は振り向いた。


「うん」


「今の顔」


「今の?」


「隼くんに、いいやつって言われたとき」


蒼は答えなかった。


体育館の端。


観客席の隅。


二人で座っていた。


「言われ慣れてないの?」


聞くと、蒼は少し考えた。


「言われたことはある」


「でも今日は違った?」


「違う気がした」


「どう違うの?」


蒼はコートを見た。


隼が走っている。


声を出している。


いつも通りの姿だった。


「隼は、何も知らずに言ってる」


「うん」


「知らないまま、それでも本気で言ってる」


「それが辛いの?」


蒼は答えなかった。


でも、その沈黙が答えだった。


「私」


蒼が小さく言った。


「うん」


「僕は、いいやつじゃない」


静かな声だった。


突然の言葉だった。


「なんで急に」


「隼にああ言われて、違和感があった理由」


蒼はゆっくりと言葉を探した。


「僕が、いいやつじゃないことを知っているからだと思う」


「蒼くんは」


言いかけた。


でも蒼が首を振った。


「言わなくていい」


珍しかった。


蒼が私の言葉を途中で止めることは、ほとんどなかった。


「リアが何を言おうとしているかは分かる」


蒼は続けた。


「でも今は、聞きたくない」


私は口を閉じた。


蒼は少しだけ目を伏せた。


いつもの蒼ではなかった。


整えていない顔。


隼が言ったこととは、少し違う意味で。


本当の部分が出ていた。


「隼は」


蒼が言った。


「たぶん、僕がなれたかもしれない自分に近い」


「なれたかもしれない自分」


「感情が、そのまま出る」


蒼はコートを見る。


「思ったことを隠さない」


「誰かを傷つけようとして動かない」


「そういう人間」


隼が走っている。


声を出している。


仲間に笑いかけている。


「僕は、そうならなかった」


「どうして」


聞くと、蒼は少しだけ黙った。


「理由は言えない」


静かな声だった。


「でも、ならなかった」


それだけだった。


体育館の音が遠く感じた。


ボールが跳ねる音。


シューズが床を擦る音。


誰かの声。


その全部の中で、蒼だけが少しだけ止まっていた。


「隼といると」


蒼が言った。


「少しだけ、なれたかもしれない自分に戻れる気がする」


「戻れる?」


「でも」


蒼は首を振った。


「戻れているわけじゃない」


「近づいている気がするだけ」


「本当に戻ることは、できない」


その言葉だけは、迷いがなかった。


だから何も返せなかった。


 


隼がこちらへ走ってきた。


「休憩終わり!」


明るい声だった。


「次のセット、ちゃんと見ててよ」


蒼は顔を上げた。


「見てる」


いつもの声だった。


さっきまでの静けさが消えていた。


「戻った」


私が言うと、蒼がこちらを見る。


「何が?」


「いつもの蒼くんに」


蒼は少し笑った。


「戻るしかないから」


その一言が、体育館の中で一番重く残った。


 


練習が終わった。


三人で体育館を出た。


冬の夕方だった。


空気が冷たい。


「今日はありがとな」


隼が言った。


「別に」


私が答える。


「蒼も」


「うん」


「また応援来てくれよ」


「予定が合えば」


「そこは来るって言えよ」


隼が笑う。


蒼も少し笑った。


隼は自転車に乗り、そのまま帰っていった。


残ったのは、私と蒼だけだった。


「隼くんに」


私は言った。


「いいやつって言われたこと」


「うん」


「私も、同じこと思ってる」


蒼が足を止めた。


「リア」


「蒼くんは、いいやつだと思う」


少し間があった。


「リアは知ってるでしょ」


蒼の声が低くなる。


「僕がしたことを」


「知ってる」


「それでも?」


「それでも思う」


私は答えた。


「いいやつかどうかと、してきたことは別の話だと思う」


蒼は黙った。


しばらく歩いた。


「その考え方」


蒼が言う。


「危ないと思う」


「なんで」


「何をしても、いいやつでいられることになる」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ、どういう意味?」


私は少し考えた。


「蒼くんの中に、いいやつの部分が本当にあるってこと」


「部分だけじゃ足りない」


「足りなくても」


私は言った。


「ある」


蒼は答えなかった。


冬の道を、二人で歩いた。


いいやつという言葉だけが、静かに残っていた。




改札の前まで来た。


いつもの場所だった。


いつものように、人が行き交っていた。


「また明日」


蒼が言った。


「また明日」


蒼が改札を抜けていく。


私はその背中を見ていた。


少しずつ遠ざかっていく。


見えなくなるまで、動かなかった。


 


今日の蒼は、何度も止まった。


隼の言葉を聞いたとき。


なれたかもしれない自分の話をしたとき。


「戻るしかない」と言ったとき。


止まって。


考えて。


また動いた。


その繰り返しだった。


 


ホームへ降りた。


電車を待つ。


冷たい風が吹いた。


左手を見た。


指輪があった。


冬の照明を受けて、静かに光っていた。


 


お前はいいやつだよ、蒼。


隼の言葉を思い出した。


何も知らないから言えた言葉。


何も知らないのに、迷わず言えた言葉。


その言葉が、蒼にとってどれほど重いのか。


今の私には、まだ全部は分からなかった。


でも。


きっと軽い言葉ではない。


そんな気がした。


 


電車が来た。


乗り込んだ。


窓の外が流れ始める。


街の明かりが、線になって消えていく。


 


今日の蒼は、いつもと違っていた。


完璧な顔。


整えた顔。


少し崩れた顔。


苦しそうな顔。


それでも笑った顔。


 


どれが本当なのか。


そんなことを考えていた。


でも、途中でやめた。


きっと全部、本当なのだと思った。


 


蒼は一つの顔だけで生きているわけじゃない。


隼の前で見せる顔。


私の前で見せる顔。


一人でいるときの顔。


その全部が蒼なのだと思った。


 


だからこそ。


隼の言葉が重い。


何も知らない人間から向けられた肯定。


それを、蒼は受け取れない。


受け取れないのに。


それでも、少しだけ揺れていた。


 


その揺れを、私は見た。


 


電車の窓に映る自分を見る。


左手の指輪が目に入る。


指でそっと触れた。


もう癖になっていた。


 


悪くない癖だと思った。


 


明日も図書室へ行く。


明日も蒼に会う。


それだけは、確かだった。


 


電車は夜の街を進んでいった。


冬の夜は長い。


でも今夜の私は、不思議と寒くなかった。


隼の言葉が。


蒼の止まった時間が。


そして、今日見た蒼の表情が。


まだ胸の中に残っていた。


 


その残ったものが何なのか。


まだ名前はつけられなかった。


でも。


いつか蒼自身が、その言葉を受け取れる日が来るのかもしれない。


そんな小さな期待だけを抱えて。


私は帰路についた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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