第38話「普通の人間」
その夜は、颯太と二人で夕飯を食べた。
父はまだ帰っていない。
母も残業だった。
いつもの二人きりの夜。
颯太が並べた皿を見て、少し笑う。
「今日の献立、俺の最高傑作」
卵焼き。
ほうれん草のおひたし。
鮭の塩焼き。
最高傑作と言うには、ずいぶん素朴だった。
「地味だね」
「地味だからいいんだよ」
少し胸を張る。
思わず笑ってしまった。
味は、ちゃんとおいしかった。
「今日の姉ちゃん、機嫌いいね」
颯太が卵焼きを口に運びながら言う。
「そう?」
「うん。顔が緩んでる」
「緩んでない」
「いや、緩んでる」
即答だった。
「蒼くんのこと?」
「なんでそうなるの」
「なんとなく」
それ以上は聞いてこなかった。
いつもそうだ。
踏み込む前で止まる。
その距離感が心地いい。
食器を片づけ、自室へ戻る。
ベッドに腰を下ろく。
自然と左手へ目が向いた。
薬指には、指輪。
それだけで昨夜の景色が静かによみがえる。
窓の外は冬の夜だった。
街灯が一本。
いつもの場所で、変わらず光っている。
今日の蒼を思い返す。
図書室で交わした言葉。
「怖い方がいい」
照れたように笑った顔。
帰り道。
「それ、すごく正確だと思う」
その声まで、まだ耳に残っていた。
普通の人間に戻れるかもしれない。
その言葉が浮かんだのは、今夜だった。
蒼が。
普通の人間に戻れるかもしれない。
そんなことを、本気で思った。
今までの私は、そうは思えなかった。
蒼は、どこか普通じゃない。
何でも覚えすぎる。
何でも見抜きすぎる。
環境が変わっても適応が早すぎる。
七年間の空白。
灯への返事が半拍遅れた夜。
神経科学の本。
感情より先に行動すると言った夜。
止まれなかった夜。
どれも消えてはいない。
何一つ、解決したわけじゃない。
それでも。
最近の蒼は違う。
図書室でリルケを読んでいた。
隼と声を上げて笑った。
「怖い方がいい」と言って照れた。
射場では、私の言葉を受け止めて笑った。
指輪のサイズを、弓を引く左手だけで覚えていた。
最初に会った頃の蒼なら、こんなふうには笑わなかった。
整えられた表情しか見せなかった。
今も整えている。
だけど、その隙間から見えるものがある。
笑う。
困る。
照れる。
言葉に詰まる。
そんな当たり前の表情。
その全部が、少しずつ増えていた。
私は、その変化を信じたかった。
普通の人間。
その言葉を、今夜は悪い意味では使わなかった。
普通に笑って。
普通に迷って。
普通に誰かを好きになる。
そんな人になれるかもしれない。
蒼は、その途中にいるのかもしれない。
そう思った。
希望だった。
間違っているかもしれない。
期待しすぎているだけかもしれない。
それでも今夜は。
不安より、希望の方が少しだけ大きかった。
スマートフォンを手に取る。
蒼とのトーク画面を開く。
新しい通知はない。
少し迷ってから、メッセージを打った。
『今日の図書室、ありがとう』
送信する。
すぐに少しだけ後悔した。
何に対する「ありがとう」なのか。
自分でも説明できない。
でも既読は早かった。
返信が届く。
『こちらこそ』
また、その言葉だった。
指輪を渡してくれた夜も。
蒼は同じことを言った。
こちらこそ。
結局、その意味は聞かなかった。
聞けないわけじゃない。
今夜は、このまま受け取っていたかった。
しばらくして、もう一通届いた。
『明日も図書室来る?』
私は少し笑った。
『行く』
すぐに返信が返ってくる。
『おやすみ、リア』
『おやすみ』
画面を閉じた。
部屋は静かだった。
ベッドに横になり、天井を見上げる。
普通の人間に戻れるかもしれない。
その言葉が、今夜は胸の中で静かに形になっていた。
昨日の「怖い方がいい」とは違う。
あれは蒼の言葉だった。
これは私の願いだった。
ふと、弓道を始めた頃を思い出す。
最初の一本を引いた日。
三上先生は静かに言った。
「弓は嘘をつかない」
当たるのにも理由がある。
外れるのにも理由がある。
ごまかしは利かない。
だから私は弓が好きだった。
蒼も、きっと嘘はつかない。
全部を話す人ではない。
隠していることもある。
それでも、口にした言葉だけは、いつも本当だった。
「君を失うのが怖かった」
「リアにだけ、止まる」
「怖い方がいい」
どれも飾らない本音だった。
本音を口にできる人なら。
誰かを信じ、誰かに寄りかかり、笑って、迷って。
そんな当たり前を少しずつ取り戻せるのかもしれない。
そう思いたかった。
その希望は、間違いではない気がした。
目を閉じる。
今日は眠れそうだった。
希望を抱いたまま眠れる夜は、あまりない。
だから、この夜を大切にしたいと思う。
左手の薬指に触れる。
指輪の重みが、確かにそこにあった。
その重みを感じながら、静かに眠りへ落ちていった。
翌朝。
図書室へ向かう。
扉を開けると、蒼はもう来ていた。
今日はリルケではない。
薄い文庫本を開いている。
背表紙を見る。
カミュ。
「また『異邦人』?」
蒼が顔を上げた。
「違う。『転落』」
「読んだことない」
「僕も久しぶり」
本を閉じながら、小さく笑う。
「どんな話?」
少し考えてから答えた。
「自分は善人だと思っていた男が、本当の自分と向き合う話」
その説明が妙に心に残った。
「なんで今、それを?」
「読みたくなったから」
短い答え。
でも、それだけでは終わらなかった。
少し間を置いて続ける。
「昨夜、考えたいことがあった」
「何を?」
蒼は静かに笑う。
「まだ言葉にならない」
また、その答えだった。
だけど今日は少し違う。
言葉にできないのではなく、言葉にするまで大切に抱えているように聞こえた。
「転落、か」
「うん」
「暗い話を読む気分だった?」
蒼は首を横に振る。
「暗いから読むんじゃない」
表紙に視線を落とす。
「自分が何者なのか、確かめたくなるときに読む」
その言葉に、私は昨夜を思い出した。
普通の人間に戻れるかもしれない。
そう願った夜。
そして今朝。
蒼は、自分が何者なのかを知ろうとしている。
同じ図書室。
同じ朝。
同じ静けさ。
でも私たちは、少しだけ違う場所を見つめていた。
私は本を開く。
蒼もページをめくる。
紙をめくる音だけが、小さく響く。
昨夜の希望。
今朝の『転落』。
その二つは、まだ交わらない。
どちらが本当なのか。
今の私には分からなかった。
分からないまま、それでもページをめくる。
冬の朝の光が、静かな図書室をやわらかく照らしていた。
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