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【9/17完結!】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第4章「虚飾の晩餐」 

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第38話「普通の人間」

その夜は、颯太と二人で夕飯を食べた。


父はまだ帰っていない。


母も残業だった。


いつもの二人きりの夜。


颯太が並べた皿を見て、少し笑う。


「今日の献立、俺の最高傑作」


卵焼き。


ほうれん草のおひたし。


鮭の塩焼き。


最高傑作と言うには、ずいぶん素朴だった。


「地味だね」


「地味だからいいんだよ」


少し胸を張る。


思わず笑ってしまった。


味は、ちゃんとおいしかった。


「今日の姉ちゃん、機嫌いいね」


颯太が卵焼きを口に運びながら言う。


「そう?」


「うん。顔が緩んでる」


「緩んでない」


「いや、緩んでる」


即答だった。


「蒼くんのこと?」


「なんでそうなるの」


「なんとなく」


それ以上は聞いてこなかった。


いつもそうだ。


踏み込む前で止まる。


その距離感が心地いい。


食器を片づけ、自室へ戻る。


ベッドに腰を下ろく。


自然と左手へ目が向いた。


薬指には、指輪。


それだけで昨夜の景色が静かによみがえる。


窓の外は冬の夜だった。


街灯が一本。


いつもの場所で、変わらず光っている。


今日の蒼を思い返す。


図書室で交わした言葉。


「怖い方がいい」


照れたように笑った顔。


帰り道。


「それ、すごく正確だと思う」


その声まで、まだ耳に残っていた。


普通の人間に戻れるかもしれない。


その言葉が浮かんだのは、今夜だった。


蒼が。


普通の人間に戻れるかもしれない。


そんなことを、本気で思った。


今までの私は、そうは思えなかった。


蒼は、どこか普通じゃない。


何でも覚えすぎる。


何でも見抜きすぎる。


環境が変わっても適応が早すぎる。


七年間の空白。


灯への返事が半拍遅れた夜。


神経科学の本。


感情より先に行動すると言った夜。


止まれなかった夜。


どれも消えてはいない。


何一つ、解決したわけじゃない。


それでも。


最近の蒼は違う。


図書室でリルケを読んでいた。


隼と声を上げて笑った。


「怖い方がいい」と言って照れた。


射場では、私の言葉を受け止めて笑った。


指輪のサイズを、弓を引く左手だけで覚えていた。


最初に会った頃の蒼なら、こんなふうには笑わなかった。


整えられた表情しか見せなかった。


今も整えている。


だけど、その隙間から見えるものがある。


笑う。


困る。


照れる。


言葉に詰まる。


そんな当たり前の表情。


その全部が、少しずつ増えていた。


私は、その変化を信じたかった。


普通の人間。


その言葉を、今夜は悪い意味では使わなかった。


普通に笑って。


普通に迷って。


普通に誰かを好きになる。


そんな人になれるかもしれない。


蒼は、その途中にいるのかもしれない。


そう思った。


希望だった。


間違っているかもしれない。


期待しすぎているだけかもしれない。


それでも今夜は。


不安より、希望の方が少しだけ大きかった。


スマートフォンを手に取る。


蒼とのトーク画面を開く。


新しい通知はない。


少し迷ってから、メッセージを打った。


『今日の図書室、ありがとう』


送信する。


すぐに少しだけ後悔した。


何に対する「ありがとう」なのか。


自分でも説明できない。


でも既読は早かった。


返信が届く。


『こちらこそ』


また、その言葉だった。


指輪を渡してくれた夜も。


蒼は同じことを言った。


こちらこそ。


結局、その意味は聞かなかった。


聞けないわけじゃない。


今夜は、このまま受け取っていたかった。


しばらくして、もう一通届いた。


『明日も図書室来る?』


私は少し笑った。


『行く』


すぐに返信が返ってくる。


『おやすみ、リア』


『おやすみ』


画面を閉じた。


部屋は静かだった。


ベッドに横になり、天井を見上げる。


普通の人間に戻れるかもしれない。


その言葉が、今夜は胸の中で静かに形になっていた。


昨日の「怖い方がいい」とは違う。


あれは蒼の言葉だった。


これは私の願いだった。


ふと、弓道を始めた頃を思い出す。


最初の一本を引いた日。


三上先生は静かに言った。


「弓は嘘をつかない」


当たるのにも理由がある。


外れるのにも理由がある。


ごまかしは利かない。


だから私は弓が好きだった。


蒼も、きっと嘘はつかない。


全部を話す人ではない。


隠していることもある。


それでも、口にした言葉だけは、いつも本当だった。


「君を失うのが怖かった」


「リアにだけ、止まる」


「怖い方がいい」


どれも飾らない本音だった。


本音を口にできる人なら。


誰かを信じ、誰かに寄りかかり、笑って、迷って。


そんな当たり前を少しずつ取り戻せるのかもしれない。


そう思いたかった。


その希望は、間違いではない気がした。


目を閉じる。


今日は眠れそうだった。


希望を抱いたまま眠れる夜は、あまりない。


だから、この夜を大切にしたいと思う。


左手の薬指に触れる。


指輪の重みが、確かにそこにあった。


その重みを感じながら、静かに眠りへ落ちていった。


翌朝。


図書室へ向かう。


扉を開けると、蒼はもう来ていた。


今日はリルケではない。


薄い文庫本を開いている。


背表紙を見る。


カミュ。


「また『異邦人』?」


蒼が顔を上げた。


「違う。『転落』」


「読んだことない」


「僕も久しぶり」


本を閉じながら、小さく笑う。


「どんな話?」


少し考えてから答えた。


「自分は善人だと思っていた男が、本当の自分と向き合う話」


その説明が妙に心に残った。


「なんで今、それを?」


「読みたくなったから」


短い答え。


でも、それだけでは終わらなかった。


少し間を置いて続ける。


「昨夜、考えたいことがあった」


「何を?」


蒼は静かに笑う。


「まだ言葉にならない」


また、その答えだった。


だけど今日は少し違う。


言葉にできないのではなく、言葉にするまで大切に抱えているように聞こえた。


「転落、か」


「うん」


「暗い話を読む気分だった?」


蒼は首を横に振る。


「暗いから読むんじゃない」


表紙に視線を落とす。


「自分が何者なのか、確かめたくなるときに読む」


その言葉に、私は昨夜を思い出した。


普通の人間に戻れるかもしれない。


そう願った夜。


そして今朝。


蒼は、自分が何者なのかを知ろうとしている。


同じ図書室。


同じ朝。


同じ静けさ。


でも私たちは、少しだけ違う場所を見つめていた。


私は本を開く。


蒼もページをめくる。


紙をめくる音だけが、小さく響く。


昨夜の希望。


今朝の『転落』。


その二つは、まだ交わらない。


どちらが本当なのか。


今の私には分からなかった。


分からないまま、それでもページをめくる。


冬の朝の光が、静かな図書室をやわらかく照らしていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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