第37話「演じていない」
昨夜、眠れなかった。
理由は分かっていた。
蒼の笑い方が頭から離れない。
ハンバーグの皿が三つ並んだとき。
隼が何か言ったとき。
力が抜けた笑い方。
名前をつけようとして、できなかった。
そのまま朝になった。
⸻
図書室に行った。
蒼はいた。
向かいに座る。
今朝の蒼は、いつもの蒼だった。
本を開いている。
背筋がまっすぐ。
静かで整っている。
昨夜とは違う。
「おはよう」と蒼が言う。
「おはよう」
本を開いた。
文字が入ってこない。
「どうしたの」と蒼が聞く。
「なんでもない」
「眠れなかった顔してる」
「そう見える?」
「見える」
「少しだけ」と言った。
蒼は本を閉じた。
手をテーブルに置く。
「何考えてた?」
「昨日のこと」
「ファミレス?」
「うん」
「何が引っかかった?」
「引っかかってるというより」
言葉を探す。
「笑い方が、まだ分からない」
「昨日も言ってたね」
「一晩経っても変わらない」
蒼がこちらを見る。
「どんな笑い方だと思う?」
「どんな、って」
「そのまま言ってみて」
少し考える。
「演じていない、に近い」
言った瞬間、自分でも少し驚いた。
蒼は否定しない。
肯定もしない。
「普段は演じてるの?」と聞く。
「違う」蒼は少し間を置く。「整えてる」
「整える?」
「ちゃんとしていようとする」
「昨日はそれがなかった」
「隼といると必要ない」
「なんで」
「隼は見てない」
「見てない?」
「ただ一緒にいる」
ただ一緒にいる。
「私は?」と聞いた。
言ったあと、少しだけ後悔する。
でも戻さない。
蒼は窓の外を見る。
冬の空。
「リアは見てる」
視線が戻る。
「見てるから整えようとする?」
「整えたいと思う」
「それは違う?」
「動機が違う」
隼の前では整えない。
リアの前では整えたくなる。
どちらも本当で、どちらも違う。
「どっちが楽?」
「どっちも楽じゃない」
「どっちが好き?」
少し沈黙。
長い。
「リアの前の方が怖い」
「怖い?」
「見られてるから」
一拍。
「でも、その方がいいかもしれない」
怖い方がいい。
意味はまだ掴めない。
でも言葉だけ残る。
授業中も残っていた。
怖い方がいい。
見られている。
整えたくなる。
その緊張。
弓道に似ていると思った。
的の前の静けさ。
外すかもしれない怖さ。
それでも引く理由。
放課後、射場に行った。
蒼は来ていた。
十本引く。
八本入る。
「今日は八本」と言った。
「外れた理由は?」
「三本目と八本目」
「三本目は?」
「朝のこと」
「八本目も?」
「同じ」
蒼が少し笑う。
「朝の話、まだ考えてたんだ」
「離れなかった」
「何を考えてた?」
「怖い方が好きの意味」
「出た?」
「出なかった」
「そう」
「教えて」
蒼は床を見る。
沈黙。
「言葉にしにくい」
「今日初めて聞いた」
「たまにある」
「どんなとき」
「リアのこと」
同じ答え。
少しだけ照れた顔。
初めて見る表情。
「今の顔も名前がつかない」と言った。
「どんな顔?」
「昨日とは違う」
「どう違う?」
「昨日は抜けてた。今日は隠しきれてない」
蒼が困ったように笑う。
「バレてる?」
「バレてる」
「何が」
「それは言わない」
蒼がこちらを見る。
短く。
「そう?」
そこに全部があった。
帰り道。
「今日の弓」と蒼。
「うん」
「明日は整うといいね」
「理由が分かれば整う」
「今日は?」
「朝のせい」
「明日は?」
「分からない」
「難しいね」
少し笑う。
「弓って」
「そう。整えようとすると乱れる」
「それ、さっきと同じだね」
同じ。
「弓と私も?」
「たぶん」
「整えようとすると乱れる?」
「どっちも」
蒼が少し黙る。
「それ、正確だと思う」
改札前。
「また明日」
「また明日」
背中が消える。
今日の蒼は何度も顔を変えた。
整えた顔。
抜けた顔。
照れた顔。
困った顔。
全部本物だった。
どれも同じ重さだった。
電車に乗る。
窓の外が流れる。
怖い方がいい。
その言葉だけ残る。
まだ分からない。
でも形だけは少しある。
明日も図書室に行く。
それだけは確かだった。
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