第36話「三人の放課後」
十二月の最終週になった。
冬休みまで、あと数日だった。
教室は浮ついていた。
テスト明けの解放感と、年末の空気が混ざって、どこか締まりがない。私はその空気を窓際の席から眺めながら、左手の指輪を親指でなぞった。
癖になっていた。
気づくとやっている。
悪くない癖だと思っていた。
放課後、隼が来た。
「なあ、暇?」
「暇じゃないけど、何」
「三人でどっか行こうよ。蒼も来るって」
「どこに」
「駅前のファミレス。テスト終わったし」
断る理由がなかった。
「分かった」と言った。
隼が「やった」と言った。
この男はいつも嬉しそうだ。裏表がなくて、感情がそのまま出る。見ていて疲れない。
射場に寄った。
今日は短く、五本だけ引いた。
五本とも入った。
片付けをしていると蒼が来た。
「今日は早いね」と言った。
「隼に呼ばれたから」
「うん、俺も」蒼は入り口にもたれた。「リアも来るって聞いた」
「聞いたんだ」
「隼が嬉しそうに言ってた」
「あいつはいつも嬉しそうだね」
「そうだね」蒼は少し笑った。「それがいいところだと思う」
その笑い方が、今日は少し柔らかかった。
隼の話をするときの蒼の顔は、いつもと少し違う。
最初に気づいたのは夏だった。
今日も同じだった。
三人でファミレスに入った。
隼がメニューを広げながら即座に「俺、ハンバーグ」と言った。
「早い」と私は言った。
「決めてた。昨日から」
「昨日から?」
「テスト終わったらハンバーグって決めてた」
「それが勉強のモチベーションだったの」と蒼が言った。
「そう」
「それはそれで、いいと思う」
「だろ」
隼はメニューを閉じた。
こういうやりとりが、三人のいつもの始まり方だった。
隼が何か言う。蒼が受ける。私はそれを聞いている。
聞いていると、自然に口が開くこともある。
今日みたいに。
「私もハンバーグにする」
「お、珍しい」と隼が言った。
「そう?」
「なんかリアさんって、もっとおしゃれなもの食べそう」
「ハンバーグの何がおしゃれじゃないの」
「いや、おしゃれじゃないとは言ってない」
「じゃあ何」
「なんか、意外で」
蒼が「俺もハンバーグにする」と言った。
隼が「お前も?」と笑った。
「三人ともハンバーグか」
「何か問題ある?」と私は言った。
「ない、むしろいい」
料理が来るまで、他愛のない話が続いた。
テストの話。冬休みの話。隼のバスケ部の話。
隼は喋りながら、勝手に水を飲んで、勝手に前のめりになって、勝手に話を広げていく。止まらない。でも不快じゃない。
蒼は時々、短く返した。
「それは大変だったね」
「隼らしいと思う」
「それは正しくないかも」
最後のを聞いて、隼が「え、どこが?」と食いついた。
「バスケの試合の流れって、そんな単純じゃない気がする」
「分かるの、バスケ?」
「見たことはある」
「どこで」
「向こうにいたとき」
向こう、というのはアメリカのことだった。
隼は一瞬だけ、蒼の話の続きを待った。
でも蒼はそれ以上言わなかった。
隼も追わなかった。
このへんの間合いが、二人には自然にある。
ハンバーグが来た。
三人とも同じ皿が並んだ。
「なんか統一感あるな」と隼が言って、少し笑った。
蒼も笑った。
声を出して笑った。
私はその笑い方を、一瞬だけ見た。
射場で見る蒼の笑い方と、図書室で見る蒼の笑い方と、今日の笑い方は違った。
どれが本当の蒼の笑い方か、という問いは違う気がした。
全部、本当なんだと思う。
でも今日の笑い方だけは、どこにも力が入っていなかった。
完全に、抜けていた。
「なんか楽しそうだな、蒼」と隼が言った。
「楽しいよ」
「いつもと違う感じ」
「そう?」
「なんかこう、もっとこう」隼は言葉を探した。「ふわっとしてる」
「ふわっと」
「うん。いつもなんか、ちゃんとしてるじゃん。今日はちょっとそれが薄い感じ」
蒼は少しの間、隼を見た。
「それ、いい意味で言ってる?」
「もちろん」隼はハンバーグを切りながら言った。「俺はいつもの蒼も好きだけど、今日みたいな蒼も好きだよ」
蒼は何も言わなかった。
でも箸が、一瞬だけ止まった。
隼は気づかなかった。
私は気づいた。
ちゃんとしてるが薄い。
その言い方が、妙にしっくりきた。
蒼が「隼は面白いね」と言った。
「褒めてる?」
「褒めてる」
「じゃあ素直に受け取っとく」
また三人で笑った。
今度は私も、声を出して笑っていた。
帰り道、駅で隼と別れた。
蒼と二人になった。
「楽しかった?」と蒼が聞いた。
「楽しかった」
「よかった」
少し歩いた。
「今日の蒼くん、いつもと違った」と私は言った。
「隼もそう言ってた」
「隼が言ったのとは少し違う意味で」
「どう違う?」
私は少し考えた。
「うまく言えない」
「珍しい」蒼が少し笑った。「リアが言葉にできないのは」
「たまにある」
「どんなときに?」
「蒼くんのことで」
蒼は答えなかった。
代わりに、また笑った。
今日何度目かの、力の抜けた笑い方だった。
「ヒントだけ言う?」と私は言った。
「聞く」
「射場で見る顔でも、図書室で見る顔でもなかった」
「じゃあ何の顔?」
「それが言えない」
蒼はしばらく前を向いたまま歩いた。
「隼のそばにいると、楽なんだと思う」と蒼は言った。
「なんで?」
「何も考えなくていいから」
「隼といるときだけ?」
「リアといるときとは、違う楽さ」
「どう違うの」
「隼といるときは、何も考えなくていい」蒼は少し間を置いた。「リアといるときは、ちゃんとしていたい、と思う」
「それは前にも言ってた」
「うん」
「ちゃんとしていたい、って、今日みたいな顔と反対じゃないの」
蒼が止まった。
私も止まった。
向かい合った。
「そうかもしれない」と蒼は言った。
「どっちが本当の蒼くんなの」
「どっちも本当だと思う」蒼はまっすぐ私を見た。「でも、リアの前でだけ、どっちも出せる気がする」
どっちも出せる。
その言葉が、街灯の下に静かに落ちた。
うまく言えなかった。
でも胸の奥に残った。
「帰ろうか」と蒼が言った。
「うん」
また歩き始めた。
言葉にならないものを抱えたまま、駅へ向かった。
改札の前で別れた。
「また明日」
「また明日」
ホームに降りた。
電車が来る。
窓の外が流れ始める。
蒼の笑い方が、まだ頭の中に残っていた。
名前をつけられないまま、それだけが夜に残った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。
一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。
次話もお付き合いいただければ嬉しいです。




