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【9/17完結!】桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第4章「虚飾の晩餐」 

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第35話「恋人」

朝、目が覚めた。


時計を見ると、まだ六時前だった。


カーテンの隙間から、冬の朝の青白い光が差し込んでいる。


ぼんやりと左手を持ち上げる。


薬指には、昨夜もらった指輪があった。


それを見た瞬間、昨夜の景色が静かによみがえる。


改札前で待っていた蒼。


イルミネーションの光。


落ち着いたイタリアンの店。


白い小さな箱。


街灯の下で向かい合った時間。


一つひとつが、指輪の中に閉じ込められているようだった。


しばらく何も考えず、左手だけを見つめていた。


やがて息をつき、ゆっくりとベッドを降りる。


洗面所へ向かった。


鏡の前に立つ。


映っているのは、いつもの私だった。


髪も寝癖のまま。


眠そうな顔も昨日と変わらない。


違うのは、左手だけだった。


指輪をつけた自分を、鏡越しに見つめる。


制服を着て学校へ行く姿を思い浮かべた。


少し変かもしれない。


いや、変じゃない気もする。


答えは出なかった。


顔を洗う。


歯を磨く。


その間も、何度か鏡に映る左手へ目が向いた。


何かを確かめるように。


でも何を確かめたいのか、自分でも分からなかった。


制服に着替える。


袖口から、指輪が少しだけのぞいた。


外すか。


そのままにするか。


少しだけ考えた。


外す理由を探してみる。


学校だから。


目立つから。


誰かに聞かれるかもしれないから。


いくつか浮かんだ。


でも、どれも決め手にならなかった。


反対に、外したい理由も見つからない。


それなら、このままでいい。


積極的に見せたいわけじゃない。


でも、外したくない。


その気持ちだけは、はっきりしていた。


袖を整える。


指輪は少しだけ見える。


それを確認すると、不思議と安心した。


一階へ降りる。


キッチンでは颯太がトーストを焼いていた。


「おはよう」


「おはよ」


トースターを見つめたまま返事をする。


少しして振り返り、私を見る。


視線が左手で止まった。


一秒ほど黙る。


「それ」


「うん」


「指輪?」


「うん」


颯太は何か言いかけた。


でも結局、何も聞かなかった。


黙ったままトーストを皿へ移す。


「食べる?」


「食べる」


二人で向かい合って朝食を食べた。


静かな朝だった。


テレビもついていない。


パンをかじる音だけが聞こえる。


颯太は最後まで何も聞かなかった。


その沈黙が、今日はありがたかった。


もし聞かれていたら。


私は何と答えただろう。


まだ分からない。


食べ終える。


「いってらっしゃい」


「いってきます」


玄関を開けると、冬の空気が頬を撫でた。


冷たい。


思わず左手をコートのポケットへ入れる。


その中で、指輪が指先に触れた。


駅までの道を歩く。


見慣れた通学路。


いつもと同じ景色。


でも今日は、少しだけ歩く速度が遅かった。


急ぐ理由はある。


朝練がある。


七時前には射場へ着かなければならない。


それでも足は自然とゆっくりになる。


この朝を、もう少しだけ味わっていたかった。


昨夜の出来事を思い返す。


整理しようとして、やめた。


整理してしまうと、何かが薄れてしまう気がした。


昨夜は、そのまま残しておきたい。


そう思えた。


射場へ着く。


弓を取り出し、射位へ立つ。


息を整える。


弦を引く。


一本目。


入った。


二本目。


入った。


今日も調子は悪くない。


理由は考えなかった。


考えなくても分かっていた。


三本。


四本。


五本。


静かに的へ吸い込まれていく。


七本目。


左手の薬指に意識が向いた。


指輪。


慣れない重さ。


ほんのわずかな違和感が、引き分けの途中で意識に入り込む。


放つ。


外れた。


私は小さく息を吐いた。


でも、不思議と悔しくなかった。


外れた理由が分かっていたから。


そして、その理由が嫌ではなかった。


残りを引き終える。


十本中、九本。


一本だけ外れた。


今日は、それで十分だった。


図書室へ向かった。


蒼はもう来ていた。


窓際のいつもの席。


私が向かいに座ると、蒼は静かに顔を上げた。


「おはよう」


「おはよう」


それだけ交わして、少し黙る。


いつもの朝。


でも、昨日までとは違う朝だった。


二人ともすぐには本を開かなかった。


沈黙がぎこちないわけじゃない。


昨夜から続いている時間が、そのまま図書室まで来ているようだった。


「弓、どうだった?」


蒼が静かに聞く。


「九本」


「一本外れた?」


「うん」


「どこで」


「七本目」


蒼は少しだけ笑った。


「理由は?」


私は左手を少し持ち上げる。


「指輪」


その一言で十分だった。


蒼の視線が、私の薬指へ落ちる。


制服の袖口から、銀色が少しだけ見えていた。


「つけてきたんだ」


「うん」


「外さなかった?」


「外す理由が見つからなかった」


蒼は答えなかった。


でも、その表情が少しだけ柔らかくなる。


昨夜、街灯の下で見せた顔と同じだった。


「七本目を外した理由を教えてくれて、よかった」


「なんで?」


「ちゃんと重さがあるって分かったから」


「重さ?」


「リアの中で」


蒼はゆっくり言葉を選ぶ。


「意識してしまうくらい、大事なものになってるってこと」


私は少しだけ左手を見た。


確かに重かった。


金属の重さじゃない。


昨夜という時間ごと、指にはまっているような重さだった。


「そうかもしれない」


「それが嬉しい」


迷いのない声だった。


「変なの」


思わず笑う。


蒼も少し笑った。


「そうかも」


その笑い方は、とても自然だった。


私は本を開く。


蒼も本を開いた。


ページをめくる。


文字は目で追っているのに、頭へは入ってこない。


それでも今日は困らなかった。


読むためにここへ来たわけじゃない。


同じ朝を過ごすために来た。


そんな気がしていた。


ホームルームまで、あと五分。


私は本を閉じた。


蒼も同じタイミングで本を閉じる。


二人で立ち上がった。


図書室を出る。


冬の朝の廊下は静かだった。


窓から差し込む光が白い。


その中を並んで歩く。


私は少し迷ってから口を開いた。


「恋人」


蒼が足を止める。


「うん?」


「私たちって、恋人なんだよね」


「そう思ってる」


答えはすぐだった。


私は少し笑う。


「私も、そう思う」


言ってから、小さく息をついた。


「でもね」


「うん」


「その言葉だけ、まだ馴染まない」


蒼は急がせなかった。


黙ったまま続きを待ってくれる。


「昨日のことは全部、本当だった」


私はゆっくり言う。


「指輪も。街灯も。手の温度も。全部ちゃんと覚えてる」


蒼は静かに聞いていた。


「でも『恋人』っていう言葉だけが、まだ少し浮いてる」


「言葉だけが?」


「うん。事実はあるのに、名前だけが少し遅れてる感じ」


蒼は少し考え、それから穏やかに笑った。


「それでいいと思う」


「いいの?」


「言葉はあとから追いつくから」


その一言が胸に落ちる。


急がなくていい。


その言葉には、不思議と安心できる力があった。


「蒼くんは?」


「何?」


「もう馴染んでる?」


蒼は少しだけ空を見る。


「馴染むとか、馴染まないとかじゃなくて」


「うん」


「リアが隣にいる」


それだけだった。


「その事実が、一番大きい」


私は少し笑った。


やっぱり蒼らしい。


言葉より事実。


説明より、そこにいること。


そんな人だった。


教室の前まで来る。


「行こうか」


「うん」


ドアを開ける。


いつもの教室。


いつもの朝。


昨日と変わらない景色。


それでも今日は違っていた。


私の左手には指輪がある。


その小さな違いだけで、世界は少しだけ新しく見えた。


席に着く。


机の上へ左手を置く。


薬指の銀色が、冬の朝の光を受けて静かに輝いていた。


昨夜の街灯とは違う光。


それでも同じ指輪だった。


私はもう一度だけ、その光を見つめる。


恋人という言葉は、まだ少し遠い。


でも、この温度だけは確かだった。


それだけを胸に抱えたまま、新しい一日が静かに始まった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


一つひとつの応援が、この物語を最後まで書き切る力になっています。


次話もお付き合いいただければ嬉しいです。

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