第35話「恋人」
朝、目が覚めた。
時計を見ると、まだ六時前だった。
カーテンの隙間から、冬の朝の青白い光が差し込んでいる。
ぼんやりと左手を持ち上げる。
薬指には、昨夜もらった指輪があった。
それを見た瞬間、昨夜の景色が静かによみがえる。
改札前で待っていた蒼。
イルミネーションの光。
落ち着いたイタリアンの店。
白い小さな箱。
街灯の下で向かい合った時間。
一つひとつが、指輪の中に閉じ込められているようだった。
しばらく何も考えず、左手だけを見つめていた。
やがて息をつき、ゆっくりとベッドを降りる。
洗面所へ向かった。
鏡の前に立つ。
映っているのは、いつもの私だった。
髪も寝癖のまま。
眠そうな顔も昨日と変わらない。
違うのは、左手だけだった。
指輪をつけた自分を、鏡越しに見つめる。
制服を着て学校へ行く姿を思い浮かべた。
少し変かもしれない。
いや、変じゃない気もする。
答えは出なかった。
顔を洗う。
歯を磨く。
その間も、何度か鏡に映る左手へ目が向いた。
何かを確かめるように。
でも何を確かめたいのか、自分でも分からなかった。
制服に着替える。
袖口から、指輪が少しだけのぞいた。
外すか。
そのままにするか。
少しだけ考えた。
外す理由を探してみる。
学校だから。
目立つから。
誰かに聞かれるかもしれないから。
いくつか浮かんだ。
でも、どれも決め手にならなかった。
反対に、外したい理由も見つからない。
それなら、このままでいい。
積極的に見せたいわけじゃない。
でも、外したくない。
その気持ちだけは、はっきりしていた。
袖を整える。
指輪は少しだけ見える。
それを確認すると、不思議と安心した。
一階へ降りる。
キッチンでは颯太がトーストを焼いていた。
「おはよう」
「おはよ」
トースターを見つめたまま返事をする。
少しして振り返り、私を見る。
視線が左手で止まった。
一秒ほど黙る。
「それ」
「うん」
「指輪?」
「うん」
颯太は何か言いかけた。
でも結局、何も聞かなかった。
黙ったままトーストを皿へ移す。
「食べる?」
「食べる」
二人で向かい合って朝食を食べた。
静かな朝だった。
テレビもついていない。
パンをかじる音だけが聞こえる。
颯太は最後まで何も聞かなかった。
その沈黙が、今日はありがたかった。
もし聞かれていたら。
私は何と答えただろう。
まだ分からない。
食べ終える。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
玄関を開けると、冬の空気が頬を撫でた。
冷たい。
思わず左手をコートのポケットへ入れる。
その中で、指輪が指先に触れた。
駅までの道を歩く。
見慣れた通学路。
いつもと同じ景色。
でも今日は、少しだけ歩く速度が遅かった。
急ぐ理由はある。
朝練がある。
七時前には射場へ着かなければならない。
それでも足は自然とゆっくりになる。
この朝を、もう少しだけ味わっていたかった。
昨夜の出来事を思い返す。
整理しようとして、やめた。
整理してしまうと、何かが薄れてしまう気がした。
昨夜は、そのまま残しておきたい。
そう思えた。
射場へ着く。
弓を取り出し、射位へ立つ。
息を整える。
弦を引く。
一本目。
入った。
二本目。
入った。
今日も調子は悪くない。
理由は考えなかった。
考えなくても分かっていた。
三本。
四本。
五本。
静かに的へ吸い込まれていく。
七本目。
左手の薬指に意識が向いた。
指輪。
慣れない重さ。
ほんのわずかな違和感が、引き分けの途中で意識に入り込む。
放つ。
外れた。
私は小さく息を吐いた。
でも、不思議と悔しくなかった。
外れた理由が分かっていたから。
そして、その理由が嫌ではなかった。
残りを引き終える。
十本中、九本。
一本だけ外れた。
今日は、それで十分だった。
図書室へ向かった。
蒼はもう来ていた。
窓際のいつもの席。
私が向かいに座ると、蒼は静かに顔を上げた。
「おはよう」
「おはよう」
それだけ交わして、少し黙る。
いつもの朝。
でも、昨日までとは違う朝だった。
二人ともすぐには本を開かなかった。
沈黙がぎこちないわけじゃない。
昨夜から続いている時間が、そのまま図書室まで来ているようだった。
「弓、どうだった?」
蒼が静かに聞く。
「九本」
「一本外れた?」
「うん」
「どこで」
「七本目」
蒼は少しだけ笑った。
「理由は?」
私は左手を少し持ち上げる。
「指輪」
その一言で十分だった。
蒼の視線が、私の薬指へ落ちる。
制服の袖口から、銀色が少しだけ見えていた。
「つけてきたんだ」
「うん」
「外さなかった?」
「外す理由が見つからなかった」
蒼は答えなかった。
でも、その表情が少しだけ柔らかくなる。
昨夜、街灯の下で見せた顔と同じだった。
「七本目を外した理由を教えてくれて、よかった」
「なんで?」
「ちゃんと重さがあるって分かったから」
「重さ?」
「リアの中で」
蒼はゆっくり言葉を選ぶ。
「意識してしまうくらい、大事なものになってるってこと」
私は少しだけ左手を見た。
確かに重かった。
金属の重さじゃない。
昨夜という時間ごと、指にはまっているような重さだった。
「そうかもしれない」
「それが嬉しい」
迷いのない声だった。
「変なの」
思わず笑う。
蒼も少し笑った。
「そうかも」
その笑い方は、とても自然だった。
私は本を開く。
蒼も本を開いた。
ページをめくる。
文字は目で追っているのに、頭へは入ってこない。
それでも今日は困らなかった。
読むためにここへ来たわけじゃない。
同じ朝を過ごすために来た。
そんな気がしていた。
ホームルームまで、あと五分。
私は本を閉じた。
蒼も同じタイミングで本を閉じる。
二人で立ち上がった。
図書室を出る。
冬の朝の廊下は静かだった。
窓から差し込む光が白い。
その中を並んで歩く。
私は少し迷ってから口を開いた。
「恋人」
蒼が足を止める。
「うん?」
「私たちって、恋人なんだよね」
「そう思ってる」
答えはすぐだった。
私は少し笑う。
「私も、そう思う」
言ってから、小さく息をついた。
「でもね」
「うん」
「その言葉だけ、まだ馴染まない」
蒼は急がせなかった。
黙ったまま続きを待ってくれる。
「昨日のことは全部、本当だった」
私はゆっくり言う。
「指輪も。街灯も。手の温度も。全部ちゃんと覚えてる」
蒼は静かに聞いていた。
「でも『恋人』っていう言葉だけが、まだ少し浮いてる」
「言葉だけが?」
「うん。事実はあるのに、名前だけが少し遅れてる感じ」
蒼は少し考え、それから穏やかに笑った。
「それでいいと思う」
「いいの?」
「言葉はあとから追いつくから」
その一言が胸に落ちる。
急がなくていい。
その言葉には、不思議と安心できる力があった。
「蒼くんは?」
「何?」
「もう馴染んでる?」
蒼は少しだけ空を見る。
「馴染むとか、馴染まないとかじゃなくて」
「うん」
「リアが隣にいる」
それだけだった。
「その事実が、一番大きい」
私は少し笑った。
やっぱり蒼らしい。
言葉より事実。
説明より、そこにいること。
そんな人だった。
教室の前まで来る。
「行こうか」
「うん」
ドアを開ける。
いつもの教室。
いつもの朝。
昨日と変わらない景色。
それでも今日は違っていた。
私の左手には指輪がある。
その小さな違いだけで、世界は少しだけ新しく見えた。
席に着く。
机の上へ左手を置く。
薬指の銀色が、冬の朝の光を受けて静かに輝いていた。
昨夜の街灯とは違う光。
それでも同じ指輪だった。
私はもう一度だけ、その光を見つめる。
恋人という言葉は、まだ少し遠い。
でも、この温度だけは確かだった。
それだけを胸に抱えたまま、新しい一日が静かに始まった。
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