第32話「聖域」
十月になった。
あの夜から、一週間が過ぎた。
一週間で、何かが変わった。
変わったというより、落ち着いた。
教室の空気は、また普通に戻っていた。
千景の炎上も。
ストーカーのことも。
教室の誰も知らない。
知らないまま、十月の日常は続いていた。
私だけが知っていた。
その事実を、一週間かけて少しずつ抱えていた。
慣れたわけじゃない。
ただ、前ほど苦しくなくなっていた。
昼休み。
咲良がやって来た。
「最近、顔が違う」
開口一番だった。
「どう違うの」
「落ち着いてる」
咲良は弁当を広げる。
「なんか決まった顔してる」
「そう見える?」
「見える」
少し笑った。
「いい意味でね」
「調査は?」
私が聞くと、咲良は箸を止めた。
「続けてる。でも壁がある」
「壁?」
「技術的な話じゃない」
咲良は少し声を落とした。
「これ以上は私一人じゃ危ない気がする」
「危ない?」
「規模が思ったより大きい」
慎重な口調だった。
「痕跡がなさすぎるんだよ」
「痕跡」
「普通は何か残る。でも残ってない」
咲良は小さく息を吐いた。
「残らないように動ける人がいる」
私は黙った。
「リアさんは?」
咲良が聞いた。
「その後、大丈夫?」
「来てない」
「本当に?」
「本当に」
咲良はしばらく私を見た。
「自然に消えた感じはしないけどね」
「うん」
「何かあった?」
「少し」
それ以上は聞かなかった。
聞かないことで察していた。
咲良は昔からそうだった。
その距離感が心地いい。
そう思った。
放課後。
射場へ向かった。
今日は蒼が先にいた。
最近は珍しくない。
入り口で待っていた。
「今日も早い」
私が言うと、
「来たかったから」
と蒼が答えた。
「毎回同じ理由だね」
「毎回同じだから」
少し笑った。
弓を構える。
引く。
入る。
また引く。
入る。
今日も調子は良かった。
十本。
全部入った。
通りかかった三上先生が黙って頷く。
それだけだった。
でも十分だった。
片付けながら蒼を見る。
「全部入った」
「見てた」
「今日は整ってた」
「なんで?」
「分からない」
本当に分からなかった。
あの夜から。
弓は少しずつ戻っていた。
理由だけが説明できなかった。
「整ってる時って」
蒼が言った。
「何も考えてないの?」
「考えてないわけじゃない」
矢筒を閉じながら答える。
「でも引っかかりはないかな」
「引っかからない状態って、どうやって作るの」
「作らない」
私は首を振った。
「気づいたら、そうなってる」
蒼は少し考えた。
「それが難しい」
「整えようとする?」
「する」
「だから乱れるんだよ」
蒼が苦笑する。
「向いてないな」
「弓道?」
「うん」
「剣道も向いてないって言われた」
「水泳は向いてたのに」
「あれは考えなくて済んだから」
少し間が空く。
「今は?」
そう聞くと、
蒼は小さく笑った。
「考えてしまう」
その一言が妙に残った。
射場を出る。
夕方の廊下を並んで歩く。
窓の外は秋の色だった。
「あの夜のこと」
私が言った。
蒼が頷く。
「後悔してる?」
少しだけ考えてから答えた。
「してない」
「なんで?」
「リアに会えた夜だったから」
足が少し止まりそうになった。
あの夜には色々あった。
でも蒼にとっては。
私に会えた夜でもあった。
「リアは?」
今度は蒼が聞く。
「後悔してる?」
私は少しだけ考えた。
「してない」
「なんで?」
答えは自然に出た。
「蒼くんの涙を見た夜だったから」
言った瞬間。
少しだけ驚いた。
正直すぎた。
でも取り消したいとは思わなかった。
蒼が立ち止まる。
廊下の途中だった。
ゆっくり振り向く。
「リア」
「うん」
「それ」
少し言葉を探していた。
「覚えておいていい?」
変な聞き方だった。
でも蒼らしかった。
「覚えておいて」
そう答える。
蒼は静かに頷いた。
それだけだった。
また歩き出す。
家に帰る。
自室へ入る。
窓の外はもう暗かった。
ベッドに腰を下ろす。
あの夜のことを思い出した。
何度も思い出した一週間だった。
最初は苦しかった。
共犯という言葉が重かった。
今も重い。
でも抱えられないほどじゃない。
その違いが何なのか。
まだ説明はできなかった。
窓の外を見る。
街灯が灯っている。
いつもの夜だった。
でも一週間前と同じ夜ではなかった。
何かが違う。
何が違うのか。
名前をつけようとしてみる。
できなかった。
そのままにしておこうと思った。
その時。
スマートフォンが震えた。
蒼からだった。
『今日の弓、全部入ってたね』
少し笑った。
見ていたことは知っていた。
でもわざわざ送ってくるのは珍しい。
『うん』
そう返した。
少しして通知が来る。
『蒼くんの涙を見た夜だったから、って言ってくれたこと』
画面を見る。
続きが届いた。
『覚えてる』
もう一通。
『ずっと覚えておく』
しばらく画面を閉じられなかった。
胸の奥に、静かな何かが残った。
名前はまだない。
言葉にもできない。
それでも確かにあった。
あの夜から続いてきたものが。
今夜、少しだけ輪郭を持った気がした。
それだけで十分だった。
スマートフォンを置く。
電気を消す。
暗い部屋で目を閉じた。
言葉にならない何かを抱えたまま。
そのまま眠りについた。
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