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桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第3章「鮮血の聖域」

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第31話「普通のままで」

止めたかった。


本当に。


でも君の名前が聞こえた瞬間には、もう動いていた。


考えるより先だった。


昨夜もそう言った。


今夜になっても変わらない。


眠れなかった。


リアに「眠れそう?」と送った。


自分が眠れないからだった。


返ってきたのは、


「分からない」


という言葉だった。


リアらしいと思った。


分からないものを、分からないと言う。


それができる人だ。


僕は違う。


分からないものを分かった顔で通り過ぎることが多い。


怖くない顔。


平気な顔。


整っている顔。


そういうものを重ねてきた。


だから昨日、泣いたことが少し信じられない。


気づかなかった。


自分が泣いていることに。


リアに言われるまで知らなかった。


それが妙に引っかかっている。


見えていない場所が、自分の中にあった。


ずっと管理できていると思っていたのに。


リアに触れられたとき。


力が抜けた。


あの感覚がまだ残っている。


落ち着かない。


でも嫌ではなかった。


そこが厄介だった。


隼のことを思い出す。


隼はよく笑う。


腹が立てば怒るし、面白ければ笑う。


考えてから感情を出すんじゃない。


感情が先に来る。


昔からそうだった。


隼といると妙に楽だった。


理由が少し分かった気がする。


何も隠していないからだ。


隠していない人間の隣にいると、自分まで少しだけ力が抜ける。


その感覚を嫌だと思ったことはない。


普通のままでいられたら。


そんなことを考えた。


初めてじゃない。


ずっと前からある。


ただ今夜は少し近かった。


隼みたいに笑えたら。


もっと単純に怒れたら。


考える前に笑えて。


考える前に安心できて。


そんなふうに生きられたら。


あるいは。


リアの隣で肩の力を抜いたまま。


何も壊さずにいられたら。


それだけで十分なのかもしれない。


分からない。


リアがいれば止まれると言った。


あれは本当だ。


でも、それを口にした瞬間から。


どこかでリアに預けていることも分かっている。


それでも。


そばにいたいと言えた。


初めてだった。


ずっと思っていた。


言わなかっただけだ。


リアは嫌じゃないと言った。


その言葉が、まだ残っている。


嫌じゃない。


それだけなのに。


十分だった。


十分だと思ってしまう。


それが少しだけ怖い。


怖いことばかりだ。


でも。


リアの手は温かかった。


それも本当だ。


その二つだけが。


今夜の中で並んでいる。


普通のままでいられたら。


そう思った。


思ったまま。


目を閉じた。)


翌朝、図書室へ行った。


蒼は先に来ていた。


珍しかった。


向かいに座る。


「眠れた?」


私が聞く。


「少し」


「昨日よりは?」


「昨日より」


「よかった」


蒼は本を出した。


私も本を開く。


カミュではなかった。


神経科学でもない。


薄い文庫本だった。


背表紙が見える。


詩集だった。


「珍しい」


「たまには」


「誰の?」


「リルケ」


「好きなの?」


蒼は少し考えた。


「今朝は読みたかった」


読みたかった。


また、その言葉を使った。


最近の蒼は、欲しいものを隠さなくなった。


でも今朝の言い方は少し違った。


どこか疲れていた。


隠しきれていない疲れだった。


私は本を開く。


蒼は詩集を開く。


図書室は静かだった。


ページをめくる音だけがする。


ホームルーム五分前まで。


私たちは何も話さなかった。


それでも十分だった。


昨夜のことを私は知っている。


涙を知っている。


手の温度を知っている。


そして。


共犯という言葉を知っている。


蒼が今、何を抱えているのかは分からない。


でも何かを抱えていることだけは分かった。


同じ朝。


同じ机。


同じ静けさ。


抱えたものだけが違う。


その違いを言葉にする必要はなかった。


ただ隣にいる。


今朝は、それで十分だった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』

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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!


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