第31話「普通のままで」
止めたかった。
本当に。
でも君の名前が聞こえた瞬間には、もう動いていた。
考えるより先だった。
昨夜もそう言った。
今夜になっても変わらない。
眠れなかった。
リアに「眠れそう?」と送った。
自分が眠れないからだった。
返ってきたのは、
「分からない」
という言葉だった。
リアらしいと思った。
分からないものを、分からないと言う。
それができる人だ。
僕は違う。
分からないものを分かった顔で通り過ぎることが多い。
怖くない顔。
平気な顔。
整っている顔。
そういうものを重ねてきた。
だから昨日、泣いたことが少し信じられない。
気づかなかった。
自分が泣いていることに。
リアに言われるまで知らなかった。
それが妙に引っかかっている。
見えていない場所が、自分の中にあった。
ずっと管理できていると思っていたのに。
リアに触れられたとき。
力が抜けた。
あの感覚がまだ残っている。
落ち着かない。
でも嫌ではなかった。
そこが厄介だった。
隼のことを思い出す。
隼はよく笑う。
腹が立てば怒るし、面白ければ笑う。
考えてから感情を出すんじゃない。
感情が先に来る。
昔からそうだった。
隼といると妙に楽だった。
理由が少し分かった気がする。
何も隠していないからだ。
隠していない人間の隣にいると、自分まで少しだけ力が抜ける。
その感覚を嫌だと思ったことはない。
普通のままでいられたら。
そんなことを考えた。
初めてじゃない。
ずっと前からある。
ただ今夜は少し近かった。
隼みたいに笑えたら。
もっと単純に怒れたら。
考える前に笑えて。
考える前に安心できて。
そんなふうに生きられたら。
あるいは。
リアの隣で肩の力を抜いたまま。
何も壊さずにいられたら。
それだけで十分なのかもしれない。
分からない。
リアがいれば止まれると言った。
あれは本当だ。
でも、それを口にした瞬間から。
どこかでリアに預けていることも分かっている。
それでも。
そばにいたいと言えた。
初めてだった。
ずっと思っていた。
言わなかっただけだ。
リアは嫌じゃないと言った。
その言葉が、まだ残っている。
嫌じゃない。
それだけなのに。
十分だった。
十分だと思ってしまう。
それが少しだけ怖い。
怖いことばかりだ。
でも。
リアの手は温かかった。
それも本当だ。
その二つだけが。
今夜の中で並んでいる。
普通のままでいられたら。
そう思った。
思ったまま。
目を閉じた。)
翌朝、図書室へ行った。
蒼は先に来ていた。
珍しかった。
向かいに座る。
「眠れた?」
私が聞く。
「少し」
「昨日よりは?」
「昨日より」
「よかった」
蒼は本を出した。
私も本を開く。
カミュではなかった。
神経科学でもない。
薄い文庫本だった。
背表紙が見える。
詩集だった。
「珍しい」
「たまには」
「誰の?」
「リルケ」
「好きなの?」
蒼は少し考えた。
「今朝は読みたかった」
読みたかった。
また、その言葉を使った。
最近の蒼は、欲しいものを隠さなくなった。
でも今朝の言い方は少し違った。
どこか疲れていた。
隠しきれていない疲れだった。
私は本を開く。
蒼は詩集を開く。
図書室は静かだった。
ページをめくる音だけがする。
ホームルーム五分前まで。
私たちは何も話さなかった。
それでも十分だった。
昨夜のことを私は知っている。
涙を知っている。
手の温度を知っている。
そして。
共犯という言葉を知っている。
蒼が今、何を抱えているのかは分からない。
でも何かを抱えていることだけは分かった。
同じ朝。
同じ机。
同じ静けさ。
抱えたものだけが違う。
その違いを言葉にする必要はなかった。
ただ隣にいる。
今朝は、それで十分だった。
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