第29話「抱きとめる」
一歩、踏み出した。
蒼が気づいた。
振り向いた。
頬に涙が残っていた。
本人はまだ気づいていないようだった。
私を見て、少し驚いた顔をした。
近くまで来ていたことに、今さら気づいたらしい。
「リア」
「うん」
「なんで」
言葉が続かなかった。
なんで。
私にも分からなかった。
分からないまま、ここまで来ていた。
蒼の頬に手を伸ばした。
指先が触れる。
涙を拭った。
蒼が固まった。
呼吸まで止まったようだった。
「泣いてた」
私が言うと、蒼は自分の頬に触れた。
指先が濡れる。
「気づいてなかった」
小さな声だった。
「うん」
少し沈黙があった。
「怖かったからじゃないかな」
私が言う。
「何が」
「自分が」
蒼は黙った。
否定しなかった。
その沈黙が答えだった。
射場は静かだった。
夕方の光が床を長く照らしていた。
蒼は前を向いた。
でも少しだけ小さく見えた。
姿勢ではない。
背丈でもない。
もっと別の何かだった。
「蒼くん」
「うん」
「今日、ここに来てよかった?」
蒼は少し考えた。
「よかった」
「なんで」
「リアがいるから」
それだけだった。
それだけなのに、返す言葉が出なかった。
しばらく二人とも黙っていた。
光だけがゆっくり傾いていく。
「怖いまま、どうするの」
私は聞いた。
蒼は少し考えた。
「リアがいれば、止まれると思う」
「確信じゃないんだ」
「確信はない」
蒼は正直に言った。
「でも昨夜、止まった」
それは事実だった。
「リアがいなければ止まれないかもしれない」
蒼は続ける。
「でもリアがいれば、止まれるかもしれない」
私は黙って聞いていた。
「それでも」
蒼は言った。
「リアのそばにいたい」
また、その言葉だった。
来たい。
聞いてほしい。
いたい。
蒼はもう隠さなかった。
欲しいものを。
「リアは」
蒼が聞く。
「何」
「嫌じゃない?」
「何が」
「俺がそばにいること」
私は考えた。
正確に答えようとした。
「嫌じゃない」
「本当に?」
「本当に」
蒼は少しだけ笑った。
安心したような笑い方だった。
その顔を見た瞬間だった。
考えるより先に体が動いた。
私は蒼を抱きしめていた。
蒼が止まった。
完全に。
呼吸まで忘れたみたいに。
私も驚いた。
抱きしめるつもりだったのか。
そうじゃなかったのか。
自分でも分からなかった。
ただ、そうしていた。
蒼の体は少し冷たかった。
でも震えてはいなかった。
しばらく誰も動かなかった。
射場は静かだった。
遠くで誰かの声がした。
すぐ消えた。
「リア」
蒼が言った。
胸元から聞こえた。
「うん」
「なんで」
今日二度目だった。
私は少し考えた。
答えは見つからなかった。
だから正直に言った。
「分からない」
本当に分からなかった。
ただ放っておけなかった。
それだけだった。
蒼は何も言わなかった。
代わりに、少しだけ力が抜けた。
寄りかかるほどではない。
でも確かに抜けた。
その感覚が伝わってきた。
「昨夜のこと」
蒼が言った。
「うん」
「本当に、ごめん」
私は目を閉じた。
許す。
違う。
忘れる。
それも違う。
でも。
突き放すこともできなかった。
「うん」
それだけ答えた。
それだけで十分だった。
どのくらいそうしていたのか分からない。
気づけば夕方の光が薄くなっていた。
私たちは離れた。
何事もなかったみたいに弓具を片づけた。
射場を出た。
廊下を歩いた。
昇降口へ向かった。
途中で蒼が少し後ろを歩いていることに気づいた。
「なんで後ろなの」
振り向いて聞く。
蒼は少し困った顔をした。
「分からない」
「並んで歩けば」
そう言うと、蒼は前に来た。
隣に並んだ。
近かった。
でも私は離れなかった。
昇降口で靴を履き替える。
「一つだけ聞いていい」
私は言った。
「何」
「あの人は、もう来ない?」
蒼の手が少し止まった。
「来ない」
短かった。
「確信ある?」
「ある」
「なんで」
少しだけ間があった。
「もう、来られないから」
私は頷いた。
それ以上は聞かなかった。
聞けなかったわけじゃない。
聞かなかった。
外に出た。
校門の前で立ち止まる。
別れる場所だった。
「今日、来てくれてよかった」
蒼が言う。
「うん」
「昨夜も」
私は何も言わなかった。
言わなくても伝わる気がした。
「また明日」
「また明日」
蒼が歩いていく。
私はその背中を見送った。
一歩踏み出した。
涙を拭った。
抱きしめた。
それだけだった。
それだけのはずだった。
なのに。
何かが変わった気がした。
帰り道を歩く。
夕方と夜の間だった。
街灯はまだ灯っていない。
空だけが少しずつ暗くなる。
その道を一人で歩いた。
どこで変わったのかは分からない。
抱きしめた瞬間だったのか。
聞かなかった瞬間だったのか。
それとも、もっと前だったのか。
分からなかった。
でも。
何かが動いた。
音はしなかった。
それでも確かに聞こえた気がした。
もう戻らない場所へ、一歩踏み込んだ音が。
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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




