第28話「初めての涙」
翌朝、図書室に行った。
蒼はいなかった。
七時半になっても来なかった。
珍しかった。
来ない日もある。
でも今朝は、来ない理由が想像できた。
昨夜、何かが蒼の中で緩んだ。
緩んだ後の朝は、いつもと同じようにはいられないかもしれない。
本を開いた。
読めなかった。
昨夜のことが、頭の中にあった。
体が止まらなかった、という声。
自分が怖い、という言葉。
言いかけてやめた何か。
七時四十五分に足音がした。
迷いのない足音だった。
ドアが開いた。
蒼が入ってきた。
今日は道着ではなかった。
制服だった。
朝練がなかったのか、行かなかったのかは分からない。
「来たんだ」と私は言った。
「来たかったから」
向かいに座った。
今日は本を出さなかった。
テーブルの上に手を置いて、私を見た。
「昨夜、言いかけてやめたことがある」と蒼は言った。
「知ってる」
「聞きたい?」
「聞いてもいい?」
私は逆に聞いた。
「聞いてほしい」
聞いてほしい。
蒼がそう言った。
この人が「ほしい」という言葉を使うのを、また聞いた。
来たい、に続いて。
欲しがることを、最近の蒼は隠さなくなっていた。
「話して」
蒼は少しの間、テーブルを見た。
それから顔を上げた。
「昨夜のリアの手が、温かかった」
「うん」
「震えが止まったのは、手が温かかったからだと思う」
「そっか」
「それが」
蒼は少し止まった。
「怖かった」
「温かかったことが?」
「それで止まったことが」
蒼はまっすぐ私を見た。
「リアに触れることで、自分が止まる。それが分かった夜だった」
分かった夜。
「止まったのは、良いことじゃないの」
私は言った。
「良いことだと思う」
蒼の声は静かだった。
「でも裏を返せば、リアがいなければ止まらない、ということでもある」
私は黙った。
「リアがいない場面では」
蒼は続けた。
「止まれないかもしれない」
「今夜みたいに」
「そう」
図書室の静けさの中で、その言葉が置かれた。
リアがいなければ止まらない。
それは言い訳ではなかった。
ただの事実だった。
「蒼くんは」
私は聞いた。
「なんで私に話すの」
「なんでだと思う?」
「分からないから聞いてる」
蒼は少し考えた。
「リアにだけは、本当のことを言いたい」
「なんで私だけ」
「リアが正確だから」
蒼はゆっくり言った。
「誤魔化しが通じない。だから誤魔化したくない」
誤魔化しが通じない。
弓に似ていると思った。
整っていれば入る。
乱れていれば外れる。
誤魔化しが効かない。
私がそういう人間だから。
蒼は本当のことを言う。
ホームルーム十分前。
二人で図書室を出た。
廊下を並んで歩く。
「今日の放課後」
蒼が言った。
「射場、来ていい?」
「来たいなら来れば」
「来たい」
今日は迷わなかった。
その迷いのなさが、昨日の夜とつながっている気がした。
授業中も昨夜のことを考えていた。
警察には言わない。
私はそう言った。
蒼の手を握った。
今朝、蒼はまた本当のことを話した。
この人は私に本当のことを話す。
本当のことを話す人間が、昨夜のことをした。
その二つが同時に存在していた。
それが、単純ではなかった。
放課後。
射場に行った。
今日は十五本引くつもりだった。
弓を構える。
引く。
入る。
続けて引く。
五本。
六本。
七本。
全部入った。
今日の内側は整っていた。
整っている理由は少し複雑だった。
八本目を引こうとしたとき、蒼が来た。
いつもより早かった。
「八本入ってる」
蒼が言う。
「今日は十五本引く」
「珍しい」
「整理したいことがあった」
「弓で整理するの」
「するときとしないときがある。今日はする日」
蒼は入り口にもたれた。
私は続けた。
九本。
十本。
十一本。
十二本目。
外れた。
原因は分かった。
蒼を見ていた。
今日の蒼の顔を。
「外れた」
蒼が言った。
「見てた」
「俺を?」
「うん」
「なんで」
「今日の顔が違うから」
蒼は黙った。
「どう違う?」
「昨日より重い」
「重い」
「昨日は緩んでた。今日は緩んだ後の重さがある」
否定しなかった。
十三本目。
入った。
十四本目。
入った。
十五本目を引こうとして止まった。
蒼の様子が変わった。
壁から少し離れていた。
「蒼くん」
「うん」
「大丈夫?」
「大丈夫」
でも声が違った。
少しだけ。
弓を下ろした。
射場の中へ入る。
蒼のそばに立った。
「昨夜、眠れた?」
「少し」
「何時間」
「二時間くらい」
「それは眠れてない」
「そうかも」
蒼は少し笑おうとした。
笑えなかった。
「昨夜のことを考えてた」
「何を」
「リアが来なければ、止まらなかったかもしれない。来てくれたから止まった」
声が少しずつ変わっていく。
「でも、止まったことで結果は変わらなかった」
私は黙って聞いた。
「リアが来ても来なくても、結果は同じだった」
蒼は続けた。
「来たことで、それ以上が止まっただけだった」
少し間が空く。
「もうやってしまったことは消えない」
その言葉が静かに落ちた。
「蒼くん」
「止めたかった。本当に」
何かが抜けていくような声だった。
「でも止められなかった」
蒼は前を見たまま言う。
「君の名前が、あの人の口から出た瞬間に体が動いた」
そこから先は言わなかった。
言わなくても分かった。
「止められなかった自分が怖い」
蒼は言った。
「昨夜も言った。でも今朝になってもまだ怖い」
私は黙っていた。
「自分が何をするか分からない人間が怖い」
射場が静かだった。
風もなかった。
「リア」
「うん」
「謝らないといけないと思う」
「何を」
「君のために、とは言えない」
その声が初めて揺れた。
「君を失いたくなかっただけでやった」
少し息を吐く。
「君のためじゃなかった。でも君に関係することをした」
私は聞いていた。
「ごめん」
その瞬間だった。
蒼の目から涙がこぼれた。
一粒だけ。
声は出なかった。
泣き崩れもしなかった。
ただ、頬を伝った。
蒼は気づいていないようだった。
自分が泣いていることに。
まっすぐ前を向いたまま。
的を見たまま。
涙だけが落ちた。
私は蒼を見ていた。
動けなかった。
いや。
動かなかったのかもしれない。
演技かもしれない。
そんな考えが一瞬だけ頭をよぎった。
でもすぐに消えた。
違う。
そう思った理由は説明できなかった。
ただ違うと思った。
声も。
表情も。
涙も。
何一つこちらへ向けられていなかった。
見せようとしている人の涙じゃなかった。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
その痛みの意味は分からなかった。
分からないままでも、一つだけ確かなことがあった。
何かが足りない。
何が足りないのかは分からない。
でも足りない。
その感覚だけが残った。
それでも。
私の体は動こうとしていた。
止める理由を考えた。
浮かばなかった。
浮かばないまま、
私は一歩、蒼の方へ踏み出した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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