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桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第3章「鮮血の聖域」

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第28話「初めての涙」

翌朝、図書室に行った。


蒼はいなかった。


七時半になっても来なかった。


珍しかった。


来ない日もある。


でも今朝は、来ない理由が想像できた。


昨夜、何かが蒼の中で緩んだ。


緩んだ後の朝は、いつもと同じようにはいられないかもしれない。


本を開いた。


読めなかった。


昨夜のことが、頭の中にあった。


体が止まらなかった、という声。


自分が怖い、という言葉。


言いかけてやめた何か。


七時四十五分に足音がした。


迷いのない足音だった。


ドアが開いた。


蒼が入ってきた。


今日は道着ではなかった。


制服だった。


朝練がなかったのか、行かなかったのかは分からない。


「来たんだ」と私は言った。


「来たかったから」


向かいに座った。


今日は本を出さなかった。


テーブルの上に手を置いて、私を見た。


「昨夜、言いかけてやめたことがある」と蒼は言った。


「知ってる」


「聞きたい?」


「聞いてもいい?」


私は逆に聞いた。


「聞いてほしい」


聞いてほしい。


蒼がそう言った。


この人が「ほしい」という言葉を使うのを、また聞いた。


来たい、に続いて。


欲しがることを、最近の蒼は隠さなくなっていた。


「話して」


蒼は少しの間、テーブルを見た。


それから顔を上げた。


「昨夜のリアの手が、温かかった」


「うん」


「震えが止まったのは、手が温かかったからだと思う」


「そっか」


「それが」


蒼は少し止まった。


「怖かった」


「温かかったことが?」


「それで止まったことが」


蒼はまっすぐ私を見た。


「リアに触れることで、自分が止まる。それが分かった夜だった」


分かった夜。


「止まったのは、良いことじゃないの」


私は言った。


「良いことだと思う」


蒼の声は静かだった。


「でも裏を返せば、リアがいなければ止まらない、ということでもある」


私は黙った。


「リアがいない場面では」


蒼は続けた。


「止まれないかもしれない」


「今夜みたいに」


「そう」


図書室の静けさの中で、その言葉が置かれた。


リアがいなければ止まらない。


それは言い訳ではなかった。


ただの事実だった。


「蒼くんは」


私は聞いた。


「なんで私に話すの」


「なんでだと思う?」


「分からないから聞いてる」


蒼は少し考えた。


「リアにだけは、本当のことを言いたい」


「なんで私だけ」


「リアが正確だから」


蒼はゆっくり言った。


「誤魔化しが通じない。だから誤魔化したくない」


誤魔化しが通じない。


弓に似ていると思った。


整っていれば入る。


乱れていれば外れる。


誤魔化しが効かない。


私がそういう人間だから。


蒼は本当のことを言う。


ホームルーム十分前。


二人で図書室を出た。


廊下を並んで歩く。


「今日の放課後」


蒼が言った。


「射場、来ていい?」


「来たいなら来れば」


「来たい」


今日は迷わなかった。


その迷いのなさが、昨日の夜とつながっている気がした。


授業中も昨夜のことを考えていた。


警察には言わない。


私はそう言った。


蒼の手を握った。


今朝、蒼はまた本当のことを話した。


この人は私に本当のことを話す。


本当のことを話す人間が、昨夜のことをした。


その二つが同時に存在していた。


それが、単純ではなかった。


放課後。


射場に行った。


今日は十五本引くつもりだった。


弓を構える。


引く。


入る。


続けて引く。


五本。


六本。


七本。


全部入った。


今日の内側は整っていた。


整っている理由は少し複雑だった。


八本目を引こうとしたとき、蒼が来た。


いつもより早かった。


「八本入ってる」


蒼が言う。


「今日は十五本引く」


「珍しい」


「整理したいことがあった」


「弓で整理するの」


「するときとしないときがある。今日はする日」


蒼は入り口にもたれた。


私は続けた。


九本。


十本。


十一本。


十二本目。


外れた。


原因は分かった。


蒼を見ていた。


今日の蒼の顔を。


「外れた」


蒼が言った。


「見てた」


「俺を?」


「うん」


「なんで」


「今日の顔が違うから」


蒼は黙った。


「どう違う?」


「昨日より重い」


「重い」


「昨日は緩んでた。今日は緩んだ後の重さがある」


否定しなかった。


十三本目。


入った。


十四本目。


入った。


十五本目を引こうとして止まった。


蒼の様子が変わった。


壁から少し離れていた。


「蒼くん」


「うん」


「大丈夫?」


「大丈夫」


でも声が違った。


少しだけ。


弓を下ろした。


射場の中へ入る。


蒼のそばに立った。


「昨夜、眠れた?」


「少し」


「何時間」


「二時間くらい」


「それは眠れてない」


「そうかも」


蒼は少し笑おうとした。


笑えなかった。


「昨夜のことを考えてた」


「何を」


「リアが来なければ、止まらなかったかもしれない。来てくれたから止まった」


声が少しずつ変わっていく。


「でも、止まったことで結果は変わらなかった」


私は黙って聞いた。


「リアが来ても来なくても、結果は同じだった」


蒼は続けた。


「来たことで、それ以上が止まっただけだった」


少し間が空く。


「もうやってしまったことは消えない」


その言葉が静かに落ちた。


「蒼くん」


「止めたかった。本当に」


何かが抜けていくような声だった。


「でも止められなかった」


蒼は前を見たまま言う。


「君の名前が、あの人の口から出た瞬間に体が動いた」


そこから先は言わなかった。


言わなくても分かった。


「止められなかった自分が怖い」


蒼は言った。


「昨夜も言った。でも今朝になってもまだ怖い」


私は黙っていた。


「自分が何をするか分からない人間が怖い」


射場が静かだった。


風もなかった。


「リア」


「うん」


「謝らないといけないと思う」


「何を」


「君のために、とは言えない」


その声が初めて揺れた。


「君を失いたくなかっただけでやった」


少し息を吐く。


「君のためじゃなかった。でも君に関係することをした」


私は聞いていた。


「ごめん」


その瞬間だった。


蒼の目から涙がこぼれた。


一粒だけ。


声は出なかった。


泣き崩れもしなかった。


ただ、頬を伝った。


蒼は気づいていないようだった。


自分が泣いていることに。


まっすぐ前を向いたまま。


的を見たまま。


涙だけが落ちた。


私は蒼を見ていた。


動けなかった。


いや。


動かなかったのかもしれない。


演技かもしれない。


そんな考えが一瞬だけ頭をよぎった。


でもすぐに消えた。


違う。


そう思った理由は説明できなかった。


ただ違うと思った。


声も。


表情も。


涙も。


何一つこちらへ向けられていなかった。


見せようとしている人の涙じゃなかった。


胸の奥が少しだけ痛んだ。


その痛みの意味は分からなかった。


分からないままでも、一つだけ確かなことがあった。


何かが足りない。


何が足りないのかは分からない。


でも足りない。


その感覚だけが残った。


それでも。


私の体は動こうとしていた。


止める理由を考えた。


浮かばなかった。


浮かばないまま、


私は一歩、蒼の方へ踏み出した。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。


『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』

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