第27話「止まらなかった」
公園のベンチで、どれくらいそうしていただろう。
時計は見なかった。
蒼の手の震えが止まったことだけは分かった。
それがいつだったのかは分からない。
街灯は変わらず、私たちを照らしていた。
先に口を開いたのは蒼だった。
「リア」
「うん」
「今夜のこと、聞かないの」
私は少し考えた。
「聞いたら、答えてくれる?」
蒼は黙った。
数秒だったのかもしれない。
でも長く感じた。
「全部は言えない」
「じゃあ聞かない」
「なんで」
「全部聞けないなら、聞かない方がいい」
それだけじゃなかった。
聞けば知ることになる。
知れば、私が口にした言葉の重さも変わる。
警察には言わない。
あの言葉が何を意味するのか。
知らないままなら、まだ考えなくて済む。
私はまた一つ、知らない方を選んだ。
蒼は小さく息を吐いた。
安心したというより。
張り詰めていた糸が一本だけ緩んだような吐息だった。
「話せることだけ話してもいい?」
「うん」
蒼は街灯の届かない場所を見た。
暗闇の向こう。
そこに何かあるみたいに。
「あの人のことを知ったのは三日前だった」
「三日前」
「リアのSNSを見ていた人間がいた。どういう人間か調べた」
「どうやって」
「方法はある」
淡々とした声だった。
「調べれば、大体のことは分かる」
私はそれ以上聞かなかった。
今夜は測りたくなかった。
その言葉の重さを。
「調べて、どうするつもりだったの」
「警告」
「それだけ?」
「それだけのつもりだった」
そこで少しだけ声が変わった。
「あの人がリアの家の近くにいるのを見つけるまでは」
私は思わず顔を上げた。
「近くに?」
「駅から後をつけていた」
胸の奥が冷えた。
「家の前まで来てた」
言葉が出なかった。
昨夜も。
一昨日も。
知らないところで見られていたかもしれない。
家の前まで。
その事実が静かに積み重なる。
「それで?」
「声をかけた」
「そのあと?」
蒼は答えなかった。
私は聞かなかった。
沈黙が答えだった。
「止めようとした」
突然そう言った。
「何を?」
「自分を」
蒼は暗闇を見たままだった。
「警告だけのつもりだった。本当に」
そこで言葉が止まる。
続きが出てこない。
蒼が言葉に詰まるところなんて初めて見た。
長い沈黙のあと。
ようやく声が落ちた。
「体が、止まらなかった」
静かな声だった。
感情を抑えた声。
けれど今夜だけは違った。
抑えきれない何かが、その奥にあった。
「君を失うのが怖くて」
蒼は続けた。
「体が止まらなかった」
私は何も言えなかった。
言葉を受け取ったまま動けなかった。
冗談でもなかった。
取り繕った言葉でもなかった。
声の奥に残る震えだけで分かった。
「止まりたかった?」
「止めたかった」
「でも」
「止まらなかった」
繰り返した声は少し低かった。
「怖い」
蒼が言った。
「今夜のことが?」
「自分が」
私は蒼を見た。
横顔だった。
視線はまだ暗闇に向いている。
自分が怖い。
その言葉が一番重かった。
失うことが怖かった。
だから動いた。
止めたかった。
でも止まれなかった。
そんな自分を恐れている。
しばらく誰も話さなかった。
遠くで笑い声がした。
誰かが夜道を歩いている。
普通の夜だった。
私たちだけが違う時間の中にいた。
「蒼くん」
「うん」
「隼くんみたいに笑っていたかったって思う?」
蒼の肩がわずかに止まった。
「なんで隼の名前を」
「射場で見てると分かるから。隼くんといる時だけ力が抜けてる」
蒼は少し考えた。
「思う」
小さな声だった。
「普通のままでいられたらって思う時はある」
「隼くんは隼くんで普通じゃないと思うけど」
蒼が少しだけ笑った。
力のない笑いだった。
「そうかもしれない。でも隼は自分の感情に正直だ」
「蒼くんは?」
「違う」
短い返事だった。
「感情より先に体が動く」
私は思い出した。
以前、蒼が神経科学の本を読んでいたことを。
感情と行動の間に何があるのか知りたい。
そう言っていた。
「その何かが今夜動いた?」
「そう」
「だから怖い?」
「そう」
答えるたびに蒼の声は短くなっていた。
余裕がない。
そんな蒼を初めて見た。
手はまだ重なったままだった。
震えは消えている。
それでも離れなかった。
「リア」
「うん」
「警察に言わないって言ってくれた」
「うん」
「なんで」
私は少し考えた。
答えは分からなかった。
本当に。
「言葉が出たから」
蒼が私を見る。
「考えて出した言葉じゃないと思う。気づいたら言ってた」
「それでもいいの」
「よくないのかもしれない。でも今夜はそれしか言えなかった」
蒼は黙った。
長かった。
それから。
「ありがとう」
そう言った。
私は驚いた。
蒼がありがとうと言うところを初めて聞いた気がした。
言葉を口にしたあと。
蒼の表情が少しだけ変わった。
説明できない変化だった。
ただ。
何かがほどけたように見えた。
ずっと張り詰めていたものが。
ほんの少しだけ。
どれくらいそこにいたのだろう。
気づけば風が出ていた。
十月の夜風だった。
少し冷たい。
「帰ろうか」
「うん」
二人で立ち上がった。
公園を出る。
駅へ向かう。
並んで歩く。
会話はなかった。
でも不思議と苦しくなかった。
隣を歩く距離は同じだった。
なのに今までと同じには思えなかった。
改札の前で足を止める。
「おやすみ」
私が言う。
蒼は少しだけ立ち止まった。
「リア」
「うん」
何かを言いかける。
けれど口を閉じた。
そして小さく首を振る。
「おやすみ」
それだけだった。
私は改札を抜けた。
ホームへ降りる。
電車を待ちながら今夜を思い返した。
体が止まらなかった。
自分が怖い。
普通のままでいたかった。
ありがとう。
蒼が残した言葉が浮かんでは消える。
そして私も言った。
警察には言わない、と。
あの言葉がどれだけ重いのか。
今になって少しずつ胸に沈み始めていた。
電車が来る。
乗り込む。
ドアが閉まる。
窓の外の景色が流れ始める。
それでも今夜は終わらなかった。
何かが始まってしまった夜だった。
その先に何が待っているのか。
まだ分からない。
分からないからこそ落ち着かなかった。
どこかで蒼もまだ起きている気がした。
公園で飲み込んだ言葉を抱えたまま。
私の知らない夜を歩いている気がした。
その姿を想像する。
胸の奥が少し痛んだ。
その理由だけは。
まだ言葉にならなかった。
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