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桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第3章「鮮血の聖域」

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第27話「止まらなかった」

公園のベンチで、どれくらいそうしていただろう。


時計は見なかった。


蒼の手の震えが止まったことだけは分かった。


それがいつだったのかは分からない。


街灯は変わらず、私たちを照らしていた。


先に口を開いたのは蒼だった。


「リア」


「うん」


「今夜のこと、聞かないの」


私は少し考えた。


「聞いたら、答えてくれる?」


蒼は黙った。


数秒だったのかもしれない。


でも長く感じた。


「全部は言えない」


「じゃあ聞かない」


「なんで」


「全部聞けないなら、聞かない方がいい」


それだけじゃなかった。


聞けば知ることになる。


知れば、私が口にした言葉の重さも変わる。


警察には言わない。


あの言葉が何を意味するのか。


知らないままなら、まだ考えなくて済む。


私はまた一つ、知らない方を選んだ。


蒼は小さく息を吐いた。


安心したというより。


張り詰めていた糸が一本だけ緩んだような吐息だった。


「話せることだけ話してもいい?」


「うん」


蒼は街灯の届かない場所を見た。


暗闇の向こう。


そこに何かあるみたいに。


「あの人のことを知ったのは三日前だった」


「三日前」


「リアのSNSを見ていた人間がいた。どういう人間か調べた」


「どうやって」


「方法はある」


淡々とした声だった。


「調べれば、大体のことは分かる」


私はそれ以上聞かなかった。


今夜は測りたくなかった。


その言葉の重さを。


「調べて、どうするつもりだったの」


「警告」


「それだけ?」


「それだけのつもりだった」


そこで少しだけ声が変わった。


「あの人がリアの家の近くにいるのを見つけるまでは」


私は思わず顔を上げた。


「近くに?」


「駅から後をつけていた」


胸の奥が冷えた。


「家の前まで来てた」


言葉が出なかった。


昨夜も。


一昨日も。


知らないところで見られていたかもしれない。


家の前まで。


その事実が静かに積み重なる。


「それで?」


「声をかけた」


「そのあと?」


蒼は答えなかった。


私は聞かなかった。


沈黙が答えだった。


「止めようとした」


突然そう言った。


「何を?」


「自分を」


蒼は暗闇を見たままだった。


「警告だけのつもりだった。本当に」


そこで言葉が止まる。


続きが出てこない。


蒼が言葉に詰まるところなんて初めて見た。


長い沈黙のあと。


ようやく声が落ちた。


「体が、止まらなかった」


静かな声だった。


感情を抑えた声。


けれど今夜だけは違った。


抑えきれない何かが、その奥にあった。


「君を失うのが怖くて」


蒼は続けた。


「体が止まらなかった」


私は何も言えなかった。


言葉を受け取ったまま動けなかった。


冗談でもなかった。


取り繕った言葉でもなかった。


声の奥に残る震えだけで分かった。


「止まりたかった?」


「止めたかった」


「でも」


「止まらなかった」


繰り返した声は少し低かった。


「怖い」


蒼が言った。


「今夜のことが?」


「自分が」


私は蒼を見た。


横顔だった。


視線はまだ暗闇に向いている。


自分が怖い。


その言葉が一番重かった。


失うことが怖かった。


だから動いた。


止めたかった。


でも止まれなかった。


そんな自分を恐れている。


しばらく誰も話さなかった。


遠くで笑い声がした。


誰かが夜道を歩いている。


普通の夜だった。


私たちだけが違う時間の中にいた。


「蒼くん」


「うん」


「隼くんみたいに笑っていたかったって思う?」


蒼の肩がわずかに止まった。


「なんで隼の名前を」


「射場で見てると分かるから。隼くんといる時だけ力が抜けてる」


蒼は少し考えた。


「思う」


小さな声だった。


「普通のままでいられたらって思う時はある」


「隼くんは隼くんで普通じゃないと思うけど」


蒼が少しだけ笑った。


力のない笑いだった。


「そうかもしれない。でも隼は自分の感情に正直だ」


「蒼くんは?」


「違う」


短い返事だった。


「感情より先に体が動く」


私は思い出した。


以前、蒼が神経科学の本を読んでいたことを。


感情と行動の間に何があるのか知りたい。


そう言っていた。


「その何かが今夜動いた?」


「そう」


「だから怖い?」


「そう」


答えるたびに蒼の声は短くなっていた。


余裕がない。


そんな蒼を初めて見た。


手はまだ重なったままだった。


震えは消えている。


それでも離れなかった。


「リア」


「うん」


「警察に言わないって言ってくれた」


「うん」


「なんで」


私は少し考えた。


答えは分からなかった。


本当に。


「言葉が出たから」


蒼が私を見る。


「考えて出した言葉じゃないと思う。気づいたら言ってた」


「それでもいいの」


「よくないのかもしれない。でも今夜はそれしか言えなかった」


蒼は黙った。


長かった。


それから。


「ありがとう」


そう言った。


私は驚いた。


蒼がありがとうと言うところを初めて聞いた気がした。


言葉を口にしたあと。


蒼の表情が少しだけ変わった。


説明できない変化だった。


ただ。


何かがほどけたように見えた。


ずっと張り詰めていたものが。


ほんの少しだけ。


どれくらいそこにいたのだろう。


気づけば風が出ていた。


十月の夜風だった。


少し冷たい。


「帰ろうか」


「うん」


二人で立ち上がった。


公園を出る。


駅へ向かう。


並んで歩く。


会話はなかった。


でも不思議と苦しくなかった。


隣を歩く距離は同じだった。


なのに今までと同じには思えなかった。


改札の前で足を止める。


「おやすみ」


私が言う。


蒼は少しだけ立ち止まった。


「リア」


「うん」


何かを言いかける。


けれど口を閉じた。


そして小さく首を振る。


「おやすみ」


それだけだった。


私は改札を抜けた。


ホームへ降りる。


電車を待ちながら今夜を思い返した。


体が止まらなかった。


自分が怖い。


普通のままでいたかった。


ありがとう。


蒼が残した言葉が浮かんでは消える。


そして私も言った。


警察には言わない、と。


あの言葉がどれだけ重いのか。


今になって少しずつ胸に沈み始めていた。


電車が来る。


乗り込む。


ドアが閉まる。


窓の外の景色が流れ始める。


それでも今夜は終わらなかった。


何かが始まってしまった夜だった。


その先に何が待っているのか。


まだ分からない。


分からないからこそ落ち着かなかった。


どこかで蒼もまだ起きている気がした。


公園で飲み込んだ言葉を抱えたまま。


私の知らない夜を歩いている気がした。


その姿を想像する。


胸の奥が少し痛んだ。


その理由だけは。


まだ言葉にならなかった。

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