第26話「静けさの後」
蒼が近づいてきた。
ゆっくりだった。
男性の前を通り過ぎて、私の方へ来る。
男性はまだ道の脇にしゃがんでいた。
目が開いたまま、どこも見ていなかった。
「なんで来たの」
蒼が言った。
「先輩に弓具を届けてた」
「この道を通ったの」
「帰り道だから」
蒼は少しだけ私を見た。
何を考えているのかは分からなかった。
でも、何かを確かめている目だった。
「どのくらい見た」
「来たときに蒼くんが立ってた。それだけ」
「それだけ?」
「うん」
嘘ではなかった。
私が見たのは本当にそれだけだった。
蒼がいて。
男性がいて。
静けさがあった。
その前に何があったのかは見ていない。
蒼は小さく息を吐いた。
「帰った方がいい」
「蒼くんは」
「もう少しここにいる」
「なんで」
少し間があった。
「後始末がある」
その言葉だけが、夜の道に落ちた。
意味を考えようとして、やめた。
考える前に、別の言葉が出た。
「一緒にいる」
蒼が顔を上げた。
「帰って」
「帰らない」
「危ない」
「何が危ないの」
蒼は答えなかった。
視線だけが少し揺れた。
十分ほど、その場にいた。
蒼は時々、男性の様子を見た。
男性はほとんど動かなかった。
私は蒼を見ていた。
何をしているのかは分からなかった。
分からないまま見ていた。
夜は静かだった。
遠くで車の音がした。
そこだけ切り離されたみたいな場所だった。
やがて蒼が私の隣に来た。
「行こうか」
「男性は」
「大丈夫」
「大丈夫って」
「今夜は動けない。でも体に異常はない」
その言い方が妙に確かだった。
少しだけ背中が冷えた。
それでも足は動いた。
蒼と並んで歩き出した。
細い道を抜ける。
商店街の明かりが見えてきた。
人の姿もあった。
そこで初めて気づいた。
蒼の手だった。
震えていた。
ほんのわずかだった。
でも確かに震えていた。
「蒼くん」
「うん」
「手」
蒼は自分の手を見た。
一秒ほど見つめてから、ゆっくり握った。
震えを隠そうとしているみたいだった。
隠しきれていなかった。
「どこか座れる?」
私が言うと、
蒼は少し考えてから、
「公園」
と答えた。
商店街の先にある小さな公園だった。
ベンチが二つあるだけの場所。
二人で腰を下ろした。
街灯が一つだけ灯っていた。
蒼はまだ手を見ていた。
握ったまま膝の上に置いていた。
私はしばらく黙っていた。
遠くで電車の音がした。
「怖かった?」
私が聞いた。
蒼が顔を上げた。
「何が」
「今夜のこと」
蒼は少し考えた。
「違う気がする」
「違う?」
「怖いのはリアを失うこと」
その言葉だけは、迷わなかった。
「だから今夜のことをしたの」
蒼は返事をしなかった。
否定もしなかった。
街灯の光が横顔を照らしていた。
今夜の蒼は少しだけ違った。
いつもは見えないものが見えている気がした。
完璧に閉じられていた扉が、少しだけ開いているような。
「蒼くん」
「うん」
「本当に怖くなかった?」
長い沈黙があった。
「怖くなかった」
蒼は言った。
「でも」
「でも?」
「リアが来た瞬間だけ、止まった」
「止まった?」
「体が」
蒼は街灯を見た。
「リアに見られたと思ったときだけ」
私は黙った。
言葉が見つからなかった。
「なんで止まったの」
「分からない」
蒼は首を振った。
「でも止まった」
その声は少し掠れていた。
「リアにだけ、止まる」
夜風が吹いた。
蒼の手はまだ震えていた。
私はそれを見ていた。
警察に話すべきか。
あの男性のことを。
今夜のことを。
考えた。
答えが出る前に、手が動いた。
蒼の手に、自分の手を重ねた。
震えている手に。
蒼の動きが止まった。
「リア」
「うん」
「なんで」
「震えてるから」
それだけだった。
それ以上の言葉が出なかった。
蒼は何も言わなかった。
ゆっくりと手を開いた。
私の手を包む。
力は強くなかった。
触れていることを確かめるみたいだった。
街灯の下で、二人の手だけが重なっていた。
震えは少しずつ消えていった。
どのくらいそうしていたのか分からない。
遠くで、また電車の音がした。
「警察には言わない」
気づいたら口にしていた。
蒼は何も言わなかった。
聞き返しもしなかった。
ただ静かに受け取った。
その沈黙だけで十分だった。
街灯は変わらず光っていた。
蒼の手はもう震えていなかった。
私の手も離れなかった。
夜だけが静かに過ぎていく。
私は何も整理できていなかった。
ただ一つだけ分かっていた。
今夜の私は、蒼の手を離さなかった。
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