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桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第3章「鮮血の聖域」

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第26話「静けさの後」

蒼が近づいてきた。


ゆっくりだった。


男性の前を通り過ぎて、私の方へ来る。


男性はまだ道の脇にしゃがんでいた。


目が開いたまま、どこも見ていなかった。


「なんで来たの」


蒼が言った。


「先輩に弓具を届けてた」


「この道を通ったの」


「帰り道だから」


蒼は少しだけ私を見た。


何を考えているのかは分からなかった。


でも、何かを確かめている目だった。


「どのくらい見た」


「来たときに蒼くんが立ってた。それだけ」


「それだけ?」


「うん」


嘘ではなかった。


私が見たのは本当にそれだけだった。


蒼がいて。


男性がいて。


静けさがあった。


その前に何があったのかは見ていない。


蒼は小さく息を吐いた。


「帰った方がいい」


「蒼くんは」


「もう少しここにいる」


「なんで」


少し間があった。


「後始末がある」


その言葉だけが、夜の道に落ちた。


意味を考えようとして、やめた。


考える前に、別の言葉が出た。


「一緒にいる」


蒼が顔を上げた。


「帰って」


「帰らない」


「危ない」


「何が危ないの」


蒼は答えなかった。


視線だけが少し揺れた。


十分ほど、その場にいた。


蒼は時々、男性の様子を見た。


男性はほとんど動かなかった。


私は蒼を見ていた。


何をしているのかは分からなかった。


分からないまま見ていた。


夜は静かだった。


遠くで車の音がした。


そこだけ切り離されたみたいな場所だった。


やがて蒼が私の隣に来た。


「行こうか」


「男性は」


「大丈夫」


「大丈夫って」


「今夜は動けない。でも体に異常はない」


その言い方が妙に確かだった。


少しだけ背中が冷えた。


それでも足は動いた。


蒼と並んで歩き出した。


細い道を抜ける。


商店街の明かりが見えてきた。


人の姿もあった。


そこで初めて気づいた。


蒼の手だった。


震えていた。


ほんのわずかだった。


でも確かに震えていた。


「蒼くん」


「うん」


「手」


蒼は自分の手を見た。


一秒ほど見つめてから、ゆっくり握った。


震えを隠そうとしているみたいだった。


隠しきれていなかった。


「どこか座れる?」


私が言うと、


蒼は少し考えてから、


「公園」


と答えた。


商店街の先にある小さな公園だった。


ベンチが二つあるだけの場所。


二人で腰を下ろした。


街灯が一つだけ灯っていた。


蒼はまだ手を見ていた。


握ったまま膝の上に置いていた。


私はしばらく黙っていた。


遠くで電車の音がした。


「怖かった?」


私が聞いた。


蒼が顔を上げた。


「何が」


「今夜のこと」


蒼は少し考えた。


「違う気がする」


「違う?」


「怖いのはリアを失うこと」


その言葉だけは、迷わなかった。


「だから今夜のことをしたの」


蒼は返事をしなかった。


否定もしなかった。


街灯の光が横顔を照らしていた。


今夜の蒼は少しだけ違った。


いつもは見えないものが見えている気がした。


完璧に閉じられていた扉が、少しだけ開いているような。


「蒼くん」


「うん」


「本当に怖くなかった?」


長い沈黙があった。


「怖くなかった」


蒼は言った。


「でも」


「でも?」


「リアが来た瞬間だけ、止まった」


「止まった?」


「体が」


蒼は街灯を見た。


「リアに見られたと思ったときだけ」


私は黙った。


言葉が見つからなかった。


「なんで止まったの」


「分からない」


蒼は首を振った。


「でも止まった」


その声は少し掠れていた。


「リアにだけ、止まる」


夜風が吹いた。


蒼の手はまだ震えていた。


私はそれを見ていた。


警察に話すべきか。


あの男性のことを。


今夜のことを。


考えた。


答えが出る前に、手が動いた。


蒼の手に、自分の手を重ねた。


震えている手に。


蒼の動きが止まった。


「リア」


「うん」


「なんで」


「震えてるから」


それだけだった。


それ以上の言葉が出なかった。


蒼は何も言わなかった。


ゆっくりと手を開いた。


私の手を包む。


力は強くなかった。


触れていることを確かめるみたいだった。


街灯の下で、二人の手だけが重なっていた。


震えは少しずつ消えていった。


どのくらいそうしていたのか分からない。


遠くで、また電車の音がした。


「警察には言わない」


気づいたら口にしていた。


蒼は何も言わなかった。


聞き返しもしなかった。


ただ静かに受け取った。


その沈黙だけで十分だった。


街灯は変わらず光っていた。


蒼の手はもう震えていなかった。


私の手も離れなかった。


夜だけが静かに過ぎていく。


私は何も整理できていなかった。


ただ一つだけ分かっていた。


今夜の私は、蒼の手を離さなかった。 

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。


『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』

https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n9418lx/

王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!


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