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桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第3章「鮮血の聖域」

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第24話「任せて」

朝、目が覚めた。


六時だった。


いつも通りの時間だった。


でも昨夜とは何かが違った。


昨夜のことを確認した。


警察署に行った。


動いてもらえなかった。


帰り道で後ろを確認した。


家に帰って、蒼のトーク画面を開いて、閉じた。


明日の朝も打たない自信は、もうなかった。


そう思いながら眠った。


起きたら、朝だった。


スマートフォンを手に取った。


蒼のトーク画面を開いた。


昨夜と同じ画面だった。


打った。


『今日、話せる?』


送信した。


既読がついたのは三分後だった。


『うん』


それだけだった。


それだけで十分だった。


朝練に行った。


今日は弓を引けた。


引けたのは、何かが決まったからかもしれなかった。


決まったことが何か、まだ言語化できていなかった。


でも体は知っていた。


六本引いた。


五本入った。


悪くなかった。


先週より良かった。


三上先生が言った。


「顔が戻ってきた」


「そうですか」


「何かあったか」


「少し」


「そうか」


それだけだった。


三上先生は、それ以上聞かなかった。


この人も引き際を知っている。


図書室に着いた。


蒼はいた。


向かいに座った。


本を出さなかった。


蒼も本を開かなかった。


「話すんでしょ」


蒼が言った。


「うん」


「聞く」


私はスマートフォンを出した。


DMの画面を見せた。


写真も見せた。


十日分の記録を、順番に説明した。


警察に行ったことも言った。


動いてもらえなかったことも。


蒼は黙って聞いていた。


途中で何も言わなかった。


顔は動かなかった。


でも目が少しだけ変わった。


変わり方が、いつもと違った。


怒りではなかった。


もっと静かで、もっと深いところにある何かだった。


全部話し終えた。


「いつから」


蒼が聞いた。


「十日前から」


「警察に行ったのは」


「昨日」


「一人で」


「うん」


蒼は少しの間、テーブルを見ていた。


「怖かった?」


「怖かった」


今回は即答した。


怖かった、という言葉が昨日より出やすくなっていた。


蒼は頷いた。


頷いた後、少しの間があった。


「任せて」


静かな言い方だった。


宣言でもない。


命令でもない。


懇願でもなかった。


ただ、そこに置いた。


私はその言葉を聞いた。


止めなかった。


止めようとしたかどうか、正直分からなかった。


止めようとする前に、止めない選択が体の中で先に決まっていた気がした。


「どうするの」


「必要なことをする」


「具体的には」


「まだ言えない」


「なんで」


「リアに言えば、止めようとする」


正確だった。


具体的な内容を聞けば、止めようとした可能性がある。


蒼はそれを知っていて、言わなかった。


「それで、いいの」


私は聞いた。


「何が」


「私が内容を知らないままで」


「知らない方が、リアには楽だと思う」


楽。


私のために言っている言葉だった。


でもその裏に、もう一つ意味があった。


知っていれば止める。


知らなければ止めない。


知らないままでいることを、蒼は選ばせている。


その構造が少し見えた。


見えたけれど、今日は指摘しなかった。


指摘する体力が、今の私にはなかった。


「分かった」


蒼は頷いた。


「うん」


それだけだった。


図書室の静けさが戻った。


蒼が本を開いた。


私も本を出した。


ページをめくった。


文字は入ってこなかった。


でも開いていた。


いつもと同じ朝だった。


同じようで、何かが変わっていた。


授業中、止めなかったことを考えていた。


止めなかった。


正確には、止めようとしなかった。


なぜか。


怖かったから。


誰かに頼りたかったから。


一人では限界だったから。


全部、本当だった。


でも、それだけじゃない気がした。


もう一つ理由があった。


蒼に任せれば、何かが終わる。


その「終わる」が何を意味するのか。


考えないようにした。


今日は意識的に目を閉じた。


昼休み。


咲良が来た。


私の顔を見るなり、少し安心したように笑った。


「昨日より顔がいい」


「そう?」


「そう。何かあった?」


「蒼くんに話した」


咲良の箸が一瞬止まった。


「話したんだ」


「うん」


「どうなった」


「任せてって言われた」


「止めなかったの」


「止めなかった」


咲良はしばらく黙った。


弁当を食べながら考えていた。


「怖くない?」


「怖い」


「でも止めなかった」


「うん」


咲良はまた少し黙った。


「リアさんが止めなかったのは、初めてじゃない気がする」


「千景のときも止めなかった」


「あのときは曖昧だった。でも今回は違う」


「どう違うの」


「今回は、分かってて止めなかった」


咲良はこちらを見た。


「そういう顔してる」


分かっていて止めなかった。


正確だった。


咲良の観察は、いつも正確だ。


「そうかもしれない」


私は言った。


「怖いと思ってもいい」


咲良は静かに続けた。


「怖いのに止めなかったことと、怖くて止めなかったことは違うから」


その言葉は少し重かった。


でも否定しなかった。


放課後、射場に行った。


今日は蒼が来なかった。


珍しかった。


でも今日は、来ない理由がある気がした。


一人で十本引いた。


八本入った。


先週より明らかに良かった。


整っていた。


整っている理由が、今日は少し皮肉だった。


何かを蒼に委ねた。


委ねたことで、内側の一部が軽くなった。


軽くなったから、弓が整った。


委ねることと整うことが、つながっていた。


そのつながりが正しいのかどうか。


弓のケースを閉めながら考えた。


正しくないかもしれない。


でも今日の弓は良かった。


弓は正直だ。


三上先生はそう言う。


正直な弓が、良かったと言っていた。


それだけを事実として持った。


帰り道。


後ろを確認する回数が少し減った。


昨日は何度も確認した。


今日は三回だった。


蒼に任せた。


任せた後の静けさが、帰り道にあった。


静けさは安心とは少し違った。


何かが終わったわけじゃない。


蒼が何をするのか。


いつするのか。


私は知らない。


聞かなかった。


聞けなかったのではなく、聞かなかった。


その自覚が、途中で静かに浮かんだ。


聞かなかったことで、私は知らないままでいられる。


知らないままでいることを、また選んだ。


今日の選択は二つだった。


一つ目。


止めなかった。


二つ目。


聞かなかった。


どちらも意識的な選択だった。


流されたのとは違う。


颯太の言葉を思い出した。


知らないでいることを選んでいる間は、ちゃんと選んでいる。


流されているのとは違う。


選んでいる。


ちゃんと選んでいる。


でも今夜は、その言葉が昨日より少し重かった。


選んでいることの責任が、昨日より重かった。


家が見えてきた。


玄関のドアを開けた。


颯太の声が聞こえた。


「おかえり」


「ただいま」


鍵をかけた。


昨日より少し軽かった。


その軽さと重さが、今夜は同時にあった。


どちらが正確なのか。


今の私には分からなかった。


夜。


スマートフォンを見た。


蒼からメッセージが来ていた。


『今日、来られなくて』


昨日なら、その後に「ごめん」が続いた。


今日はなかった。


それだけだった。


『大丈夫』


そう返した。


既読がついた。


返信は来なかった。


来なかったことが、今夜は昨日と違う意味を持った。


蒼は動いている。


どこかで。


何かを。


私は知らない。


知らないままでいることを選んだ。


スマートフォンを伏せた。


電気を消した。


暗くなった部屋で、しばらく目を開けていた。


蒼が動いている夜だった。


その夜の中に、私はいた。


知らないままで。


いた。


それが今夜の全部だった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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