第23話「証拠不十分」
警察署は、駅から歩いて八分のところにあった。
学校帰りに寄った。制服のままだった。
受付で「相談があります」と言った。
ストーカーだと思います、と続けた。
声にしたのは、初めてだった。
ストーカー。
その言葉が自分の口から出たとき、少しだけ現実になった気がした。
大げさかもしれない、という感覚がまだあった。
でも昨夜、記録を並べ直して、他に使える言葉が見つからなかった。
相談室は小さかった。
壁が薄い水色だった。
三十代くらいの女性警官が向かいに座った。
スマートフォンを出した。
DMのスクリーンショット、写真、日付と時間の記録。
十日分を、順番に見せた。
説明しながら、声が平静を保っていることを確認していた。
全部話し終えた。
女性警官は確認の時間を取って、戻ってきた。
「現時点では、警察として動くのが難しい状況です」
理由を説明してくれた。
丁寧な説明だった。
聞きながら、理解した。
公道での撮影は規制が難しい。
DMに直接的な脅迫はない。
法的な要件が、まだ満たされていない。
全部、理解できた。
「何か変化があれば、すぐにご連絡ください。記録としてはこちらに残しておきます」
「分かりました」
立ち上がった。
「お気をつけて」と女性警官は言った。
本当に申し訳なさそうな顔だった。
警察署を出た。
空は高かった。
人もいた。車も走っていた。
世界は何も変わっていなかった。
変わったのは私だけだった。
怖いから来たのに。
その怖さは、どこにも置いていけなかった。
理屈は分かった。
法律の話だから、分かった。
それでも怖かった。
分かることと、受け入れることは違った。
歩き始めた。
放っておけば消えると思っていた。
でも消えなかった。
むしろ少しずつ、近づいてきていた。
帰り道、三分歩いたところで後ろを確認した。
誰もいなかった。
五分歩いたところで、もう一度。
誰もいなかった。
七分歩いたところで、視界の端に何かが引っかかった。
男性だった。
同じ方向を歩いていた。
二十メートルくらい後ろだった。
振り返って、まっすぐ見た。
男性は立ち止まった。
スマートフォンを出した。
普通の動作だった。
でも止まったタイミングが、少しだけ引っかかった。
私が振り返ると同時に、止まった。
偶然かもしれない。
歩き続けた。
後ろを確認しなかった。
確認すれば、まだいるかもしれない。
いれば怖い。
いなければ気にしすぎだったことになる。
どちらの答えも、今夜は要らなかった。
駅についた。
改札を抜けた。
ホームに降りた。
電車を待ちながら、スマートフォンを開いた。
今日は通知が来ていなかった。
来ていないことに、ほっとした。
ほっとした後に、また怖くなった。
来ていないのは今日だけかもしれない。
終わったわけじゃない。
電車が来た。
乗り込んだ。
窓際に立った。
景色が流れ始めた。
今日一日を、頭の中に置いた。
警察は動けない。
その一文だけが、ずっとそこにあった。
家に帰った。
颯太がチャーハンを作っていた。
昨日より具が多かった。
「おかえり」
「ただいま」
「遅かったね」
「ちょっと寄り道した」
颯太は何も聞かなかった。
食べながら、何も話さなかった。
颯太もテレビを見ていた。
バラエティだった。
笑える場面で、颯太が笑った。
私は笑えなかった。
笑えないことに、今夜は驚かなかった。
自室に入った。
ベッドに腰を下ろした。
スマートフォンを持った。
蒼のトーク画面を開いた。
文字を打とうとした。
止まった。
閉じた。
少しの間、天井を見た。
もう一度開いた。
また、止まった。
話したい、という気持ちが、あった。
今日初めて、はっきりそう思った。
話したい。
怖かったと言いたい。
警察に行ったけど動いてもらえなかったと言いたい。
一人で抱えるのが、今日だけは難しかったと言いたい。
でも打てなかった。
話せば蒼は動く。
どう動くか、分からない。
その分からなさが、今夜も指を止めた。
画面を閉じた。
枕に頭をつけた。
カーテンの隙間から、街灯の光が少しだけ入っていた。
外に誰かがいるかもしれない。
いないかもしれない。
目を閉じた。
また開いた。
もう一度、閉じた。
今夜は打たなかった。
でも。
明日の朝も打たない自信は、もうなかった。
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