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桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第3章「鮮血の聖域」

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第22話「エスカレート」

九月の第二週になった。


最初のコメントから、十日が過ぎていた。


変化は少しずつ進んでいた。


だから気づくのが遅れた。


一日ごとは小さい。


でも十日分を並べると、はっきり見えた。


最初の日。


返信しなかった投稿に、三件のコメント。


三日目。


別の投稿にも同じアカウントからコメントが来た。


内容は普通だった。


ただ、投稿して三分以内だった。


五日目。


DMが届いた。


『いつも見てます』


それ自体は珍しくない。


フォロワーが多いと、そういうメッセージは来る。


でも送り主は、同じアカウントだった。


七日目。


私が投稿した写真にコメントがついた。


ロケーションタグは付けていなかった。


それなのに。


『ここ、桜渓学院の近くですよね』


場所を特定していた。


その日から、怖さの質が変わった。


そして十日目。


今日だった。


朝。


図書室へ行く前にスマートフォンを開いた。


DMが七件。


全部、同じ相手だった。


最初の三件は普通だった。


投稿の感想。


写真の話。


そこまではよかった。


四件目。


『今日も学校ですか』


五件目。


『いつも同じ時間に駅を通りますね』


六件目。


『昨日の帰り道、見ました』


七件目。


『気づいてましたか』


画面を見たまま動けなかった。


五秒だったか。


十秒だったか。


分からない。


ただ、動けなかった。


見ていた。


昨日の帰り道を。


私は昨日を思い返した。


駅を出た。


いつもの道を歩いた。


何もなかった。


誰かの気配も感じなかった。


でも。


見られていた。


画面を閉じた。


また開いた。


もう一度読んだ。


読むたびに胃の奥が重くなった。


じわじわ広がる重さだった。


これは普通じゃない。


ようやく、その判断が固まった。


図書室に着いたのは七時四十分。


いつもより十分遅かった。


朝練も途中で切り上げた。


弓を引く気になれなかった。


蒼は先に来ていた。


本を読んでいたが、私を見ると顔を上げた。


「朝練、短かった?」


「うん」


「弓は?」


「引かなかった」


蒼の目が少し変わった。


「どうして」


「気になることがあって」


蒼は本を閉じた。


静かに私を見た。


「話せる?」


「まだ」


「まだ?」


「整理できてない」


私は視線を落とした。


「整理できたら話す」


蒼はしばらく黙った。


それから短く言った。


「分かった」


その返事が少し苦しかった。


本当は話したかった。


でも話せば蒼は動く。


動けば何かが起きる。


それが分かっていた。


だから話さなかった。


本を開く。


文字が頭に入らない。


一時間目。


二時間目。


六時間目まで。


ずっとスマホが気になっていた。


昼休み。


確認した。


さらに三件。


『今日も学校ですか』


『今日は何時間目まで?』


最後は画像だった。


開く。


そこにいた。


私だった。


昨日の帰り道。


後ろ姿。


駅から家までの途中。


後ろから撮られていた。


私は気づいていなかった。


スマホを閉じた。


鞄にしまった。


窓の外を見た。


高い秋空だった。


雲も少ない。


いつもと同じ景色。


でも違った。


その景色のどこかに、知らない誰かがいる。


昨日もいたかもしれない。


一週間前も。


その事実だけで、空の色が変わって見えた。


咲良が来た。


私を見るなり聞いた。


「どうしたの」


「分かる?」


「分かる」


即答だった。


「目が違う」


私はスマホを差し出した。


咲良が読む。


写真も見る。


一瞬だけ表情が消えた。


戻ってきた顔は硬かった。


「いつから?」


「十日前」


「蒼くんは?」


「知らない」


咲良が顔を上げた。


「なんで」


「話したら動くから」


「それが怖い?」


「うん」


長い沈黙が落ちた。


「警察に行った方がいい」


咲良は真っ直ぐ言った。


「私もそう思う」


「一人で?」


「一人で行く」


「付き添おうか」


少しだけ迷った。


でも首を振った。


「大丈夫」


「無理しないで」


その言葉に少し詰まった。


無理しているつもりはなかった。


でも今日は、自信がなかった。


「するつもりはない」


「してたら言って」


「うん」


咲良はそれ以上聞かなかった。


その沈黙が助かった。


放課後。


射場へ向かった。


蒼はいなかった。


珍しかった。


でも今日は一人でよかった。


弓を構える。


息を吐く。


吐けない。


呼吸が浅い。


ようやく気づいた。


今日一日、ずっとそうだった。


もう一度吐く。


今度は吐けた。


引く。


外れる。


二本目。


また外れる。


三本目をつがえたところで、やめた。


弓を下ろした。


夕方の光が床に伸びていた。


整わない理由は分かっていた。


怖い。


昨日までの違和感ではない。


今日ははっきり怖かった。


小さな変化が積み重なった。


十日かけて、ここまで来た。


弓を片付けながら考える。


明日、警察へ行く。


証拠はある。


DM。


写真。


日時の記録。


全部残っている。


整理して持っていく。


それだけのこと。


なのに少し難しかった。


一人でやるには。


話せる相手はいる。


咲良もいる。


颯太もいる。


蒼もいる。


でも蒼には話さなかった。


また、自分で選んだ。


その選択が正しいかは分からない。


今日初めて思った。


もしかしたら間違っているかもしれない、と。


それでも選んだ。


帰り道。


いつもの十二分。


今日は何度も後ろを見た。


一回。


二回。


三回。


誰もいない。


誰もいないことを確認しながら歩いた。


それが必要になった。


その事実が重かった。


家が見えた。


玄関を開ける。


閉める。


鍵をかける。


いつもと同じ動作。


でも今日は違った。


鍵を意識していた。


その違いだけで十分だった。


颯太がキッチンにいた。


「姉ちゃん、おかえり」


「ただいま」


颯太はすぐに眉をひそめた。


「顔色悪い」


「そうかな」


「そう」


少し迷った。


それから答えた。


「嫌なことがあった」


颯太が振り向いた。


「大丈夫?」


「大丈夫じゃないかもしれない」


正直に言った。


「でも、どうにかする」


颯太はしばらく私を見ていた。


それから言った。


「ご飯、多めに作る」


思わず聞き返した。


「なんで」


「嫌なことあるとき、食べた方がいいから」


理屈は分からなかった。


でも颯太らしかった。


少しだけ笑った。


「ありがとう」


部屋に戻る。


スマホを机に置く。


通知は来ていなかった。


それだけで安心した。


そして気づいた。


安心する必要が生まれている。


十日前にはなかったものだ。


窓の外は暗くなり始めていた。


九月の夜は早い。


夜のどこかに誰かがいるかもしれない。


いないかもしれない。


分からない。


その分からなさが、一番重かった。


明日、警察へ行く。


そう決めた。


それで終わるはずだった。


でもカーテンを閉める前。


私は一度だけ外を見た。


誰もいない。


確認してから閉めた。


昨日までは逆だった。


先に閉めていた。


今日は違った。


ほんの小さな変化。


でも確かに変わった。


そして一度変わったものは、簡単には元に戻らない。


明日の朝。


そのことを、私はまだ知らなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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