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桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第2章「鏡合わせの悪意」

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第20話「見て見ぬふり」

八月が終わろうとしていた。


二学期が近かった。


夏休みは短かった。桜渓学院は補講が多い。七月の終わりから八月の中旬まで、週に三日は登校した。その間も、蒼は図書室に来た。射場にも来た。隼と三人で学食に行ったこともあった。


特別なことは、何も起きなかった。


千景の炎上から三週間が経って、教室はほぼ元の状態に戻っていた。千景への視線が消えたわけではなかった。でも日常に溶けていた。千景も毎日来て、前を向いて座っていた。たまに中庭で一人でいるのを見かけた。声はかけなかった。かける必要があるときは、かける。今はまだ、そのときじゃなかった。


蒼との間も、変わったようで変わらなかった。


変わった部分と、変わっていない部分が、両方あった。


変わった部分。蒼が私の隣にいることを、私が普通のことだと思い始めていた。


変わっていない部分。蒼の七年間を、まだ知らなかった。


二学期前日の夜、私は自室で荷物の整理をしていた。


教科書、ノート、弓具の手入れ道具。机の引き出しを開けたら、奥に小学校の卒業アルバムがあった。


先月、一度開いたやつだ。


また手に取った。


低学年用を開いた。


一年生の集合写真。七歳の私と、七歳の蒼が並んでいた。


あの写真を見るのは、先月に続いて二度目だった。


先月は「目が変わっていく」と思った。七歳から十一歳にかけて、蒼の目に何かが加わっていく、と。


今日は別のものが見えた。


七歳の蒼の隣に、蒼の妹・灯が写っていた。


当時四歳だったはずだから、写っているはずがない。でも記憶の中には、いた。蒼の家に遊びに行くたびに、「おねえちゃん、おねえちゃん」と私の手を引いた。


灯は元気だよ、と蒼は言った。


あの半拍が、また浮かんだ。


浮かんで、沈んだ。


私はアルバムを閉じた。


本棚に戻した。


戻しながら、今夜の自分に問いかけた。


調べようとすれば、できる。蒼の過去を。七年間に何があったかを。方法はある。咲良に頼めば、咲良は調べる。あるいは自分で調べることもできる。


でも調べていない。


なぜか。


答えは、ずっと同じだった。


知れば、近くなる。近くなれば、もっと知りたくなる。その先に何があるのか、怖い。


今夜、もう一つの理由が加わった。


知ってしまったら、見ないでいられなくなる。


今は見ないことを選んでいる。選んでいる間は、まだ引き返せる。でも知ってしまったら、引き返すかどうかを選ぶ場所が、もっと先に移動する。


引き返す、という選択肢を、手放したくなかった。


それだけのことだった。


颯太がドアをノックした。


「姉ちゃん、アイス」


「食べる」


今夜は抹茶味だった。颯太はまたソーダ味だった。この弟はなぜかいつもソーダ味だ。


並んでリビングのソファに座った。


「明日から二学期か」と颯太が言った。


「そう」


「夏休み、短かったな」


「補講が多かったから」


「姉ちゃん、今年の夏どうだった」


どうだった、という問いに、しばらく答えなかった。


「色々あった」


「色々って、蒼くんのこと?」


「それも含め」


颯太はソーダアイスを舐めながら、「ふーん」と言った。追いかけてこなかった。


「颯太って」と私は言った。


「ん」


「知りたくないことって、ある?」


颯太は少し考えた。珍しく、すぐに答えなかった。


「知りたくないというか」颯太はゆっくり言った。「知ったら、戻れないな、ってことはある」


「戻れないってどういうこと」


「知る前の自分には、もう戻れない、ってこと」颯太はアイスを見た。「例えば、好きな食べ物がどうやって作られてるか知ったら、食べられなくなるかもじゃん。知る前には、もう戻れない」


「そういうことを、知らないでいようとする?」


「することもある」颯太は少し間を置いた。「でも知った方がいいこともある。どっちかって、その時にならないと分からない気がする」


颯太にしては、深い答えだった。


「知らないでいることを選んだとして」と私は言った。「それは、逃げてることになるの」


「なんで逃げてることになるの」


「知るべきことを、知らないでいるから」


「知るべきかどうか、誰が決めるの」颯太はこちらを見た。「姉ちゃんが知らないでいることを選んだなら、それが姉ちゃんの今の答えじゃないの。逃げとは違うと思うけど」


私はアイスを食べた。


抹茶の苦さが、舌に残った。


「颯太って、たまにすごいこと言うね」


「たまにはね」颯太は得意そうに言った。「でも本当にそう思う。知らないでいることを選んでる間は、ちゃんと選んでるじゃん。流されてるのとは違う」


ちゃんと選んでいる。


流されているのとは違う。


その言葉が、今夜の私に届いた。


アイスを食べ終えた。颯太が「ごちそうさま」と言って立ち上がった。


「おやすみ、姉ちゃん」


「おやすみ」


一人になった。


窓の外、八月の終わりの夜だった。虫の声が聞こえた。


私は今夜、知らないでいることを選んだ。


蒼の七年間を知らないでいる。灯の半拍の意味を知らないでいる。蒼が千景を観察していた目の意味を知らないでいる。咲良の調査がどこまで進んでいるか、詳しく聞かないでいる。


全部、知らないでいることを選んでいた。


流されているのとは、違う。


ちゃんと選んでいる。


その選択が正しいかどうかは、まだ分からなかった。


でも今夜の私には、これしかできなかった。


スマートフォンが鳴った。


咲良からだった。


電話じゃなくて、メッセージだった。


『明日から二学期だね。リアさん、今年の夏どうだった』


颯太と同じことを聞いてきた。


『色々あった』と返した。


すぐに既読がついた。


『そうだね。私も色々あった』


少し間があって、続きが来た。


『調査、続けてるから』


それだけだった。


説明もなかった。でも何の調査かは、分かっていた。


『うん』と返した。


『無理しないで』と咲良から来た。


『咲良こそ』


『私は無理が好きだから大丈夫』


少し笑えた。咲良らしい答えだった。


『おやすみ』と送った。


『おやすみ。また明日』


画面を閉じた。


咲良が調査を続けている。


その調査が、いつか何かに辿り着く。


辿り着いたとき、咲良は私に話すだろう。そのとき私は、知らないでいることを選べなくなる。


でも今夜は、まだ選べる。


今夜だけは。


もう一件、メッセージが来た。


蒼からだった。


『明日から二学期。朝練ある?』


『ある。でも少し早い』と返した。


『何時』


『六時半から』


少し間があった。


『じゃあ図書室は七時半に』


『蒼くんは来なくていいよ。早い』


『来たい』


来たい。


その二文字が、画面の中にあった。


来る、じゃなくて、来たい。


欲しい、という意味の言葉を、蒼はあまり使わない。でも今日は使った。


その差が、今夜の私には少し大きかった。


『分かった』と返した。


既読がついた。返信は来なかった。


来なかったことが、来たときと同じくらい、頭に残った。


スマートフォンを伏せた。


来たい、という言葉を、もう少し頭の中に置いた。


置いたまま、目を閉じた。


知らないでいることを選んだ夜が、終わろうとしていた。


明日から二学期が始まる。


新しい季節が来る。


その季節に何が待っているか、今夜の私には分からなかった。


分からないまま眠ろうとして、眠れなかった。


夜が、静かに深くなっていった。


虫の声だけが、続いていた。


続いていた声が、少しずつ、遠くなっていく気がした。


それが眠りの入り口だと気づいたのは、もう意識が薄れ始めた後だった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』

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