第19話「千景の傷」
八月の第二週になった。
千景の炎上から、一週間。
教室は、ほぼ元に戻っていた。
いや、正確には違う。
炎上前とも、炎上直後とも違う。
新しい平衡点を、教室が見つけた。
千景への意識は、薄れていた。
薄れたというより、日常に飲まれた。
人間の集団は、消化が速い。
事件は記憶になり、記憶は背景になる。
千景は毎日来ていた。
一人で座り、前を向いている。
私は毎朝、その姿を窓際の席から見ていた。
見ようとして見ているわけじゃない。
視界に入る場所に、千景がいた。
その日の昼休み。
珍しいことが起きた。
千景が、一人で中庭にいた。
昼休みに外へ出る生徒は多い。
でも千景が外にいるのは、炎上前も後も見たことがなかった。
千景は、教室に残る側の人間だった。
私は弁当を持って、中庭へ出た。
何となく。
本当に、それだけだった。
今日は教室より、外の空気を吸いたかった。
中庭へ出る。
木陰のベンチ。
千景がいた。
弁当は閉じたまま。
スマートフォンも持っていない。
ただ、中庭の木を見ていた。
私に気づく。
一瞬、固まる。
でも逃げなかった。
「隣、いい?」
千景は少し考えた。
それから、小さく頷く。
「どうぞ」
二人でベンチに座った。
私は弁当を開く。
千景は開かない。
しばらく、沈黙。
風で木が少し揺れた。
夏の風だから、涼しくはない。
ただ、揺れた。
「食べないの」と私は聞いた。
「食欲なくて」
「そっか」
それ以上は言わなかった。
食欲がない人間に、「食べた方がいい」は、あまり意味がない。
「リアさんって」と千景が言った。
「うん」
「なんで話しかけてくるの」
「先週も、今日も」
私は卵焼きを一つ食べた。
「先週は、聞きたいことがあったから」
「今日は?」
「外の空気が吸いたかった。そしたら千景さんがいた」
千景が少し黙る。
「本当にそれだけ?」
「本当にそれだけ」
「深い理由はないよ」
千景はまた木を見た。
「みんな、そういう顔するから」
「どういう顔」
「気を使ってる顔」
千景は膝の上で指を組んだ。
「あからさまじゃない。でも、意識してる顔」
少し間を置いてから、続ける。
「リアさん、しないから。逆に変な感じ」
気を使っていないわけじゃない。
ただ、それを顔に出すのが得意じゃない。
それだけだった。
「変で悪かった」と私は言った。
千景が少し笑う。
「悪くない。むしろ楽」
楽。
その言葉で、千景の肩から少し力が抜けた気がした。
「あの屋上の話」と千景が言う。
「誰かに言った?」
「言ってない」
「咲良さんにも?」
「咲良にも」
「そっか」
千景が、自分の弁当を見る。
まだ開かない。
「私ね」
小さな声だった。
「やったこと、後悔してる」
「うん」
「でも、やってる間は後悔してなかった」
そこで、千景は少し笑った。
乾いた笑い方だった。
「それが、一番怖い」
後悔してなかった。
その言葉が、静かに残った。
「どういう意味」と私は聞いた。
「投稿してる間、すっきりしてたの」
千景は正直だった。
「広がって、リアさんの周りの空気が変わって。それ見てると、やっと届いた気がした」
「届いた」
「存在が」
千景が言う。
「私の、リアさんへの気持ちが」
千景はようやく弁当を開いた。
でも、まだ食べない。
中を見ている。
「おかしいよね」
「おかしいとは思わない」
私はそう答えた。
「間違ってるとは思うけど」
千景が顔を上げる。
「その違い、分かる?」
「おかしいって、その人自身の話でしょ」
私は言葉を選んだ。
「間違ってるのは、行動の話」
「人がおかしいとは思わない。行動が間違ってたとは思う」
千景はしばらく、私を見ていた。
「リアさんって、なんでそんな言い方できるの」
「正確に言いたいから」
「私を、許してるの?」
「許すとか、許さないとか、そういう話じゃないと思ってる」
私は弁当を閉じた。
「千景さんがやったことで、私が傷ついたのは本当」
「千景さんが今、傷ついてるのも本当」
「どっちかが消えるわけじゃない」
千景は、おかずを一つ口に入れた。
小さな変化。
でも、さっきより顔が少し楽だった。
「ありがとう」
先週と同じ言葉。
でも今日は、少し重かった。
「うん」
二人で、中庭の木を見ていた。
チャイムまで、まだ時間があった。
午後の授業が終わった後。
廊下で、蒼を見かけた。
蒼は、中庭の方を見ていた。
ガラス越しに、中庭が見える。
千景が、まだベンチにいた。
昼休みのあとも、そのまま残っていたらしい。
一人で、木を見ていた。
蒼は、その千景を見ていた。
動かずに。
ガラス越しに。
私が近づいても気づかないくらい、集中して。
「蒼くん」
蒼が振り向く。
一瞬だけ、表情が切り替わった。
「リア」
「千景さん、見てたの」
「通りかかっただけ」
通りかかっただけ。
そのわりに、立ち止まりすぎていた。
でも、言わなかった。
「中庭で話した」と私は言った。
「見えた」
「何か思った?」
蒼は少し考えた。
「リアは優しいね」
「優しいとは違う」
「そう?」
「正確でいたいだけ」
私は中庭を見る。
「千景さんを、悪い人だけで終わらせたくなかった」
蒼は何も言わなかった。
でも一瞬だけ、また千景を見る。
その視線が、引っかかった。
蒼の目が、いつもと違った。
分析でもない。
警戒でもない。
値踏みでもない。
何かを決めている目。
そんな感じがした。
「帰ろうか」と蒼が言った。
「うん」
並んで歩く。
中庭の千景が、視界の端に残った。
射場へ行く。
今日は蒼もいた。
十本引く。
七本入った。
三本外れた。
でも全部、理由が違った。
一本目は肩。
四本目は会の長さ。
九本目は――何かを考えていた。
片付けながら、私は言った。
「今日は、ばらけた」
「原因が一つじゃなかったね」
「どれが一番ひどかった?」
「九本目」
「なんで」
「何を考えてたか、自分でも分かってない外れ方だった」
蒼は静かに続ける。
「原因が見えてないと、修正しにくい」
正確だった。
一本目と四本目は、直せる。
理由が分かるから。
九本目だけ、自分でも追えていない。
「何考えてたんだろ」
独り言みたいに言った。
「廊下の話じゃない?」
蒼が答える。
「廊下?」
「僕が千景さんを見てたこと」
私は弓のケースを閉じた。
「引っかかってた」
「どこが」
「見る目が、いつもと違った」
蒼は答えなかった。
床を見る。
沈黙が落ちる。
長い沈黙だった。
答えを探している沈黙じゃない。
答えるかどうかを決めている沈黙。
「どう違った?」と蒼が聞いた。
「何かを決めてる目だった」
また沈黙。
今日の蒼の沈黙は、重かった。
「千景さんのこと、心配?」
「心配とは少し違う」
「じゃあ何」
蒼は少しだけ目を伏せた。
「まだ整理できてない」
珍しい言い方だった。
「うまく言えない」
うまく言えない。
蒼がその言葉を使うのは、二度目だった。
最初は、「リアがいないと困る」と言った時。
でも今日の「うまく言えない」は、違う。
聞こうとした。
やめた。
やめた瞬間、気づく。
私は今、見えているものを見ないようにしている。
蒼が千景を観察していたこと。
その目が、何かを決めていたこと。
うまく言えない、と言ったこと。
全部が、一つの方向を向いている気がした。
でも、その方向に名前をつけたくなかった。
名前をつければ、知ることになる。
前は、知りたいような、知りたくないような、だった。
今日は違う。
知りたくない、の方が大きかった。
それが何を意味するのか。
まだ分からない。
「帰ろうか」と私は言った。
「うん」
射場を出る。
夏の夕方は、まだ明るい。
並んで歩く。
今日は会話が少なかった。
でも沈黙の密度が、いつもより濃かった。
校門を出たところで、蒼が言った。
「リア」
「うん」
「今日、最後まで弓が整わなかったの」
蒼は少し間を置いた。
「見えてるものを、処理しきれてないからじゃないかな」
私は歩き続けた。
でも、その言葉が体に入ってくる。
見えているものを、処理しきれてない。
「そうかも」
そう答えた。
「無理に処理しなくていい」
「なんで」
「処理できないものは、時間に任せることもある」
その言い方が、少し優しかった。
優しすぎて、少し怖かった。
「おやすみ」と私は言った。
まだ夕方だったけど。
蒼が少しだけ笑う。
「おやすみ、リア」
別れた。
一人で歩く。
今日のことを、頭の中に置く。
千景の「届いた」。
蒼の観察の目。
うまく言えない、という言葉。
見えているものを処理しきれていない、という指摘。
全部が残っていた。
見えている。
でも、見ないようにしている。
その自覚が、今日ははっきりあった。
見えていないことと。
見ないようにすることは、違う。
私は、もう見えている。
ただ、今日は見ないことを選んだ。
明日もそうするかは、明日の私が決める。
そう思いながら、夏の道を歩いた。
街灯が灯り始める。
まだ明るい空。
それでも、光が必要な場所がある。
昨日も同じことを思った気がした。
でも今日も、また思った。
見えていても、光が必要な場所がある。
そういうことなのかもしれなかった。
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