第18話「精緻な炎」
八月になった。
千景の炎上から、三日。
教室の空気は、また変わっていた。
私への距離感は、戻っていた。
正確には、炎上前より少し近い。
気のせいかもしれない。でも月曜の朝、いつも目を逸らしていた女子が挨拶してきた。廊下で声をかけてきた男子も、先週より一秒長く話した。
千景への意識は、まだ残っていた。
でも三日も経つと、教室は次のことを考え始める。
人間の集団は、事件より日常の方が長い。
千景は毎日来ていた。
一人で座って、前を向いていた。話しかける生徒は、まだほとんどいない。
私は屋上での会話を、誰にも話していなかった。
咲良にも。
理由は、うまく説明できない。
ただ、あの会話は千景と私の間にあるもので、外に出すものじゃない気がした。
水曜の昼休み。
咲良がノートを三冊持ってきた。
いつもは一冊なのに。
「多いね」と私は言った。
「整理しきれなくて」
咲良は席に座るなり、ノートを広げた。
「リアさん、少し付き合って」
「うん」
「千景ちゃんの炎上、改めて見直してたんだけど」
咲良が一冊目を開く。
「おかしいの」
「何が」
「全部」
咲良が最初に気づいたのは、発信元だったらしい。
千景の裏アカウント。
それを暴露した匿名アカウント。
その二つの流れを追おうとして、咲良は壁にぶつかった。
「普通、炎上って一つか二つのアカウントから広がるの」
「うん」
「最初に拡散した人を追えば、ある程度は遡れる。でも今回は違う」
咲良がノートを私に向けた。
タイムスタンプが並んでいた。
「最初の拡散が、十三アカウントから同時に起きてる」
「十三」
「しかも全部、履歴が違う。フォロワー数も、投稿内容も、活動頻度も。つながりが見えない」
私はおにぎりを一口食べた。
「なのに」と咲良が言う。
「投稿タイミングだけ、秒単位で揃ってる」
「秒単位」
「最初の十三投稿、全部三十秒以内」
咲良の声は、静かだった。
でも先週と違った。
先週は仮説だった。
今日は、確信だった。
「偶然じゃない。設計されてる」
設計。
その言葉が、教室のざわめきより重く残った。
「誰がそんなことできるの」と私は聞いた。
「普通の高校生には無理」
咲良は即答した。
「複数アカウントを事前に育てる。タイミングを揃える。発信元を分散する。かなり知識と準備がいる」
かなりの知識と準備。
私は黙った。
咲良も、少し黙った。
「リアさんは、誰だと思う」
逆に聞かれた。
「咲良が先に言って」
「なんで」
「私が言いたくないから」
咲良が少し目を細めた。
「同じ人を思い浮かべてると思う」
「たぶん」
「証拠はない」
そう言ってから、咲良は続けた。
「でも状況証拠が多すぎる。タイミング。精度。動機。全部、一人に収束してる」
一人に。
その言葉が、静かに刺さった。
「咲良、これどうするの」
「調べる」
「どこまで」
「分かるところまで」
咲良はノートを閉じた。
それから、少しだけ声を落とした。
「リアさん。一つだけ聞いていい?」
「うん」
「怖くない?」
何度目か分からない、その質問。
でも今日は、即答できた。
「怖い」
「なんで」
「設計できる人間が、私のそばにいる。その人が、私のために動いた。それが怖い」
咲良は少し黙った。
「でも、離れようとは思わないんでしょ」
答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
咲良は、それ以上聞かなかった。
放課後。
図書委員の仕事があった。
閉館後の図書室。
返却された本を棚へ戻す。
背表紙を確認する。
番号を確認する。
正しい場所へ入れる。
その単純作業を繰り返しながら、私は咲良の言葉を反芻していた。
秒単位。
設計。
普通の高校生には無理。
全部、蒼を指していた。
蒼は七年間、どこかで何かを学んだ。
神経科学の本を読む。
「行動が感情より先に来る」と言った。
水泳を続けられなくなった。
「灯は元気だよ」と言って、半拍置いた。
全部が、どこかで繋がっている気がした。
でも形が、まだ見えない。
本を一冊戻す。
また一冊戻す。
その途中で、手が止まった。
神経科学の棚だった。
先月、蒼が読んでいた著者。
その本の位置が、また少しずれていた。
誰かが最近触った跡。
確認する。
先月とは別の一冊だった。
貸出記録を見れば、誰が借りたか分かる。
でも閲覧履歴は個人情報だ。
確認はできない。
ただ、この棚を継続的に使っている人間がいる。
誰かなんて、考えなくても分かった。
本を戻した。
図書室を出たのは、六時過ぎ。
廊下を歩く。
前方に、人影。
蒼だった。
「待ってたの」と私は言った。
「少しだけ」
「なんで」
「今日、射場に来なかったから」
「図書委員」
「知ってた」
蒼は私の隣を歩き始めた。
「それでも来た」
知ってた。
それでも来た。
その二つが、今日は少し重い。
「蒼くん」
「うん」
「千景さんの炎上、咲良が調べてる」
蒼は歩みを止めなかった。
「そう」
「発信元が十三に分散してたことも、秒単位で揃ってたことも、全部気づいてる」
「咲良さんは鋭いね」
「怖くない?」
「何が」
「咲良が調べてること」
蒼は少し考えた。
「咲良さんがいることは、最初から分かってた」
最初から。
「どういう意味」
「観察してる人間がいるのは分かってた。それでも必要なことをした」
必要なこと。
また、その言葉だった。
「蒼くんの必要なことと、咲良の調査がぶつかったら」
「ぶつかるかな」
「ぶつかるかもしれない」
蒼は答えなかった。
階段を降りる。
沈黙だけが続く。
そのあとで、蒼が言った。
「リアがいる方を選ぶ」
静かな声だった。
いつもの声。
でも今日は、その静けさの奥に別の熱があった。
選ぶ。
その言葉だけが、廊下に残った。
私は何も言えなかった。
昇降口で靴を履き替える。
外は、まだ蒸していた。
「明日、図書室来る?」と蒼が聞く。
「来る」
「じゃあまた明日」
「うん」
蒼が先に歩いていった。
私は、その背中を少しだけ見ていた。
リアがいる方を選ぶ。
その意味を考える。
考えても、処理できない。
でも一つだけ、分かった。
蒼にとって、私は基準だ。
何かを決める時。
何かを選ぶ時。
私がいる側、という基準がある。
その基準が、どこまで働くのか。
今日の私は、まだ知らない。
知らないまま、夕方の道を歩いた。
街灯が一つ、灯る。
まだ明るいのに、光が必要な場所がある。
そんな夕方だった。
そして今夜。
咲良はまた、ノートに何かを書いているはずだ。
精緻な炎の発信元を、一つずつ辿りながら。
その調査が、どこへ辿り着くのか。
咲良の調査と、蒼の設計。
いつか、その二つはぶつかる。
その予感だけが、今夜の私の中で静かに育っていた。
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