第17話「聞かない」
翌日の教室は、静かだった。
静か、の意味が違った。
今までの静けさは、私への距離感から来ていた。
今日の静けさは、千景への距離感だった。
千景は来ていた。
席に座って、前を向いていた。
いつもなら二、三人は話しかける。
今日は誰も行かなかった。
教室の重心が、動いていた。
私への視線が減った。
千景への意識が増えた。
見ていないふりをして、気にしている。
そういう空気だった。
私は窓際の席から、その変化を見ていた。
昨日と今日で、教室の地図が変わった。
その地図を書き換えたのが蒼だと、私は知っていた。
昼休み、咲良が来た。
今日は弁当を広げる前に、私の顔を見た。
何かを確認するような目だった。
「どう?」
「何が」
「全部」
「全部は答えにくい」
「じゃあ、一番気になってること」
私はおにぎりを取り出しながら考えた。
「千景さん」
「蒼くんじゃなくて?」
「千景さんが先」
咲良は少し意外そうな顔をした。
それからノートを開いた。
「今日、来たね」
「うん」
「あの状態で来るの、すごいと思う」
咲良は正直に言った。
「私だったら無理かも」
「強いんだと思う」
「どうかな」咲良は少し首を傾けた。
「逃げ場がなくて、来るしかない感じもした」
逃げ場がない。
その言葉が、少し残った。
千景が中傷していたのは事実だ。
でも今日の千景を見ていると、
「悪いことをした人が裁かれた」
それだけの話として、整理できなかった。
「咲良は、千景さんをどう思う?」
「悪いことをしたとは思う」
咲良は少し考えて続けた。
「でも、なんでそこまでしたのかは気になる」
「なんでだと思う」
「リアさんへの感情が、どこかで歪んだんだと思う」
咲良は静かに言った。
「最初から悪意だった感じ、しないんだよね」
最初から悪意だったわけじゃない。
その言葉が、廊下で見た千景の目と重なった。
認めてほしかった。
あの感情が、起点だったなら。
「咲良」
「うん?」
「千景さんに、話しかけてみようと思う」
咲良が顔を上げた。
「今日?」
「いつかは分からない。でも」
私は少し考えた。
「話を聞かないまま、終わりたくない」
「理由は?」
「蒼くんが動いたことで、千景さんが壊れた」
「でも、それはリアさんのせいじゃ」
「関係はあるよ」
私は言った。
「私が傷ついてたから、蒼くんは動いた。全部、つながってる」
咲良は小さく息を吐いた。
「それ、自分を責めすぎじゃない?」
「責めてるわけじゃない」
「じゃあ何」
「正確でいたいだけ」
咲良は少し笑った。
「そこが怖いんだって」
「怖い?」
「リアさん、自分に厳しすぎる」
批判じゃなかった。
観察だった。
「まあ、止めないけど」
咲良は弁当を開いた。
「タイミングだけは考えてね」
「うん」
五時間目のあと。
廊下で千景を見かけた。
一人だった。
トイレから出てきたところだった。
人は少ない。
目が合った。
千景が、一瞬だけ固まった。
逃げるかと思った。
でも逃げなかった。
私も立ち止まった。
「千景さん」
「……なに」
少し掠れた声だった。
「話せる? 少しだけ」
千景は警戒した目で私を見た。
何をされるか分からない。
そんな目だった。
「何の話」
「千景さんのこと」
「私の、こと」
「うん」
千景は少し黙った。
廊下の向こうを、誰かが通り過ぎた。
それを確認してから、また私を見た。
「……ここじゃない方がいい」
「どこがいい?」
「屋上、入れる?」
「鍵、開いてると思う」
二人で屋上へ上がった。
夏の熱気が、一気に来た。
日差しが強かった。
給水塔の影に入った。
しばらく、何も話さなかった。
先に口を開いたのは、千景だった。
「謝ろうとは思ってた」
「謝らなくていい」
千景が少し驚いた顔をした。
「なんで」
「聞きたいことがあるから」
「何を」
「なんで、あんなに手間をかけたの」
千景は答えなかった。
でも目が動いた。
何かを考えている目だった。
「普通に怒るより、ずっと手間がかかってた」
私は続けた。
「複数アカウント。投稿時間。拡散の流れ。全部」
「……」
「そこまでする理由が、分からなかった」
千景は給水塔を見たまま言った。
「リアさんって、気づかないよね」
「何に」
「自分がどう見えてるか」
「どう見えてるの」
「完璧」
千景の声に、少し感情が混ざった。
「何でもできて、誰も必要としてなくて、近づけない」
私は黙って聞いた。
「それが普通なんでしょ。リアさんには」
「普通じゃない」
「でも、そう見える」
千景が私を見た。
「入学したとき、話しかけようとしたの覚えてる?」
「覚えてない」
「だよね」
千景は小さく笑った。
力のない笑い方だった。
「私のこと、見えてなかったから」
見えてなかった。
その言葉が、静かに届いた。
私は傷つけようとしたことなんて、一度もなかった。
でも千景は傷ついていた。
気づかない場所で。
「ごめん」
気づいたら、そう言っていた。
千景が少し目を見開いた。
「謝らなくていいって、言ったじゃん」
「それは別」
私は言った。
「聞くことと、謝ることは」
千景はしばらく私を見ていた。
それから、少しだけ笑った。
今度は、少し力のある笑い方だった。
「そういうとこだよ、リアさん」
「どういうとこ」
「正確すぎる」
「咲良にも言われた」
「橘さん、分かってるじゃない」
千景は給水塔に背中を預けた。
「私がやったこと、間違ってた」
「うん」
「でも、そこまでした理由も、あった」
「うん」
「両方、本当なんだよね」
「そう思う」
夏の空は高かった。
雲が少なかった。
「これから、どうなるんだろ」
千景が独り言みたいに言った。
「分からない」
私は答えた。
「でも今日、話せてよかった」
「なんで」
「加害者としてだけ見てたら、もっと分からなくなってたから」
千景は何か言いかけて、やめた。
それから小さく言った。
「ありがとう」
「うん」
六時間目のチャイムが鳴った。
二人で屋上を下りた。
廊下で別れた。
千景は振り返らなかった。
私も振り返らなかった。
放課後、射場へ行った。
蒼が来た。
私は今日の会話を頭の中に置いたまま、弓を引いた。
十本。
八本入った。
片付けながら、蒼に言った。
「千景さんと話した」
蒼が少しだけ間を置いた。
「何を」
「なんで中傷したか」
「なんで聞いたの」
「知りたかったから」
蒼はしばらく、私を見ていた。
「どうだった」
「つらかった話を聞けた」
私は矢を揃えながら言った。
「蒼くんが動く前に、気づければよかったって思った」
「気づけなかったのは、リアのせいじゃない」
「そうかもしれないけど」
「そうだよ」
蒼の声が、少し強かった。
珍しかった。
「リアは悪くない」
私は少し黙った。
それから聞いた。
「蒼くんは、千景さんをどう思ってる?」
蒼は、すぐには答えなかった。
「リアを傷つけた人間だと思ってる」
「それだけ?」
「今は、それだけ」
今は。
その言葉が引っかかった。
今後、変わる可能性があるのか。
それとも。
聞こうとして、やめた。
今日の「聞かない」は、
前までの「聞かない」と違っていた。
前は、知りたくないから聞かなかった。
今日は、
今日じゃなくてもいい、と思って聞かなかった。
その違いが、どれくらい大きいのか。
まだ分からなかった。
「帰ろうか」
蒼が言った。
「うん」
並んで射場を出た。
夏の夕方は、まだ明るかった。
蒼は何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
沈黙は、重くなかった。
重くない沈黙の中に、ちゃんと二人でいる。
そういう夕方だった。
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