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桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第2章「鏡合わせの悪意」

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17/25

第17話「聞かない」

翌日の教室は、静かだった。


静か、の意味が違った。


今までの静けさは、私への距離感から来ていた。


今日の静けさは、千景への距離感だった。


千景は来ていた。


席に座って、前を向いていた。


いつもなら二、三人は話しかける。


今日は誰も行かなかった。


教室の重心が、動いていた。


私への視線が減った。


千景への意識が増えた。


見ていないふりをして、気にしている。


そういう空気だった。


私は窓際の席から、その変化を見ていた。


昨日と今日で、教室の地図が変わった。


その地図を書き換えたのが蒼だと、私は知っていた。


昼休み、咲良が来た。


今日は弁当を広げる前に、私の顔を見た。


何かを確認するような目だった。


「どう?」


「何が」


「全部」


「全部は答えにくい」


「じゃあ、一番気になってること」


私はおにぎりを取り出しながら考えた。


「千景さん」


「蒼くんじゃなくて?」


「千景さんが先」


咲良は少し意外そうな顔をした。


それからノートを開いた。


「今日、来たね」


「うん」


「あの状態で来るの、すごいと思う」


咲良は正直に言った。


「私だったら無理かも」


「強いんだと思う」


「どうかな」咲良は少し首を傾けた。


「逃げ場がなくて、来るしかない感じもした」


逃げ場がない。


その言葉が、少し残った。


千景が中傷していたのは事実だ。


でも今日の千景を見ていると、


「悪いことをした人が裁かれた」


それだけの話として、整理できなかった。


「咲良は、千景さんをどう思う?」


「悪いことをしたとは思う」


咲良は少し考えて続けた。


「でも、なんでそこまでしたのかは気になる」


「なんでだと思う」


「リアさんへの感情が、どこかで歪んだんだと思う」


咲良は静かに言った。


「最初から悪意だった感じ、しないんだよね」


最初から悪意だったわけじゃない。


その言葉が、廊下で見た千景の目と重なった。


認めてほしかった。


あの感情が、起点だったなら。


「咲良」


「うん?」


「千景さんに、話しかけてみようと思う」


咲良が顔を上げた。


「今日?」


「いつかは分からない。でも」


私は少し考えた。


「話を聞かないまま、終わりたくない」


「理由は?」


「蒼くんが動いたことで、千景さんが壊れた」


「でも、それはリアさんのせいじゃ」


「関係はあるよ」


私は言った。


「私が傷ついてたから、蒼くんは動いた。全部、つながってる」


咲良は小さく息を吐いた。


「それ、自分を責めすぎじゃない?」


「責めてるわけじゃない」


「じゃあ何」


「正確でいたいだけ」


咲良は少し笑った。


「そこが怖いんだって」


「怖い?」


「リアさん、自分に厳しすぎる」


批判じゃなかった。


観察だった。


「まあ、止めないけど」


咲良は弁当を開いた。


「タイミングだけは考えてね」


「うん」


五時間目のあと。


廊下で千景を見かけた。


一人だった。


トイレから出てきたところだった。


人は少ない。


目が合った。


千景が、一瞬だけ固まった。


逃げるかと思った。


でも逃げなかった。


私も立ち止まった。


「千景さん」


「……なに」


少し掠れた声だった。


「話せる? 少しだけ」


千景は警戒した目で私を見た。


何をされるか分からない。


そんな目だった。


「何の話」


「千景さんのこと」


「私の、こと」


「うん」


千景は少し黙った。


廊下の向こうを、誰かが通り過ぎた。


それを確認してから、また私を見た。


「……ここじゃない方がいい」


「どこがいい?」


「屋上、入れる?」


「鍵、開いてると思う」


二人で屋上へ上がった。


夏の熱気が、一気に来た。


日差しが強かった。


給水塔の影に入った。


しばらく、何も話さなかった。


先に口を開いたのは、千景だった。


「謝ろうとは思ってた」


「謝らなくていい」


千景が少し驚いた顔をした。


「なんで」


「聞きたいことがあるから」


「何を」


「なんで、あんなに手間をかけたの」


千景は答えなかった。


でも目が動いた。


何かを考えている目だった。


「普通に怒るより、ずっと手間がかかってた」


私は続けた。


「複数アカウント。投稿時間。拡散の流れ。全部」


「……」


「そこまでする理由が、分からなかった」


千景は給水塔を見たまま言った。


「リアさんって、気づかないよね」


「何に」


「自分がどう見えてるか」


「どう見えてるの」


「完璧」


千景の声に、少し感情が混ざった。


「何でもできて、誰も必要としてなくて、近づけない」


私は黙って聞いた。


「それが普通なんでしょ。リアさんには」


「普通じゃない」


「でも、そう見える」


千景が私を見た。


「入学したとき、話しかけようとしたの覚えてる?」


「覚えてない」


「だよね」


千景は小さく笑った。


力のない笑い方だった。


「私のこと、見えてなかったから」


見えてなかった。


その言葉が、静かに届いた。


私は傷つけようとしたことなんて、一度もなかった。


でも千景は傷ついていた。


気づかない場所で。


「ごめん」


気づいたら、そう言っていた。


千景が少し目を見開いた。


「謝らなくていいって、言ったじゃん」


「それは別」


私は言った。


「聞くことと、謝ることは」


千景はしばらく私を見ていた。


それから、少しだけ笑った。


今度は、少し力のある笑い方だった。


「そういうとこだよ、リアさん」


「どういうとこ」


「正確すぎる」


「咲良にも言われた」


「橘さん、分かってるじゃない」


千景は給水塔に背中を預けた。


「私がやったこと、間違ってた」


「うん」


「でも、そこまでした理由も、あった」


「うん」


「両方、本当なんだよね」


「そう思う」


夏の空は高かった。


雲が少なかった。


「これから、どうなるんだろ」


千景が独り言みたいに言った。


「分からない」


私は答えた。


「でも今日、話せてよかった」


「なんで」


「加害者としてだけ見てたら、もっと分からなくなってたから」


千景は何か言いかけて、やめた。


それから小さく言った。


「ありがとう」


「うん」


六時間目のチャイムが鳴った。


二人で屋上を下りた。


廊下で別れた。


千景は振り返らなかった。


私も振り返らなかった。


放課後、射場へ行った。


蒼が来た。


私は今日の会話を頭の中に置いたまま、弓を引いた。


十本。


八本入った。


片付けながら、蒼に言った。


「千景さんと話した」


蒼が少しだけ間を置いた。


「何を」


「なんで中傷したか」


「なんで聞いたの」


「知りたかったから」


蒼はしばらく、私を見ていた。


「どうだった」


「つらかった話を聞けた」


私は矢を揃えながら言った。


「蒼くんが動く前に、気づければよかったって思った」


「気づけなかったのは、リアのせいじゃない」


「そうかもしれないけど」


「そうだよ」


蒼の声が、少し強かった。


珍しかった。


「リアは悪くない」


私は少し黙った。


それから聞いた。


「蒼くんは、千景さんをどう思ってる?」


蒼は、すぐには答えなかった。


「リアを傷つけた人間だと思ってる」


「それだけ?」


「今は、それだけ」


今は。


その言葉が引っかかった。


今後、変わる可能性があるのか。


それとも。


聞こうとして、やめた。


今日の「聞かない」は、


前までの「聞かない」と違っていた。


前は、知りたくないから聞かなかった。


今日は、


今日じゃなくてもいい、と思って聞かなかった。


その違いが、どれくらい大きいのか。


まだ分からなかった。


「帰ろうか」


蒼が言った。


「うん」


並んで射場を出た。


夏の夕方は、まだ明るかった。


蒼は何も言わなかった。


私も何も言わなかった。


沈黙は、重くなかった。


重くない沈黙の中に、ちゃんと二人でいる。


そういう夕方だった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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