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桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第2章「鏡合わせの悪意」

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16/24

第16話「一週間後」

一週間が経った。


蒼が「盾になる」と言った日から、ちょうど七日だった。


その間、特に何も起きなかった。投稿は続いた。教室の空気は変わらなかった。千景が廊下で私を見る目も、変わらなかった。蒼は図書室に来て、射場に来て、「必要なことをする」という言葉の続きを何も言わなかった。


何も起きない一週間だった。


そのはずだった。


月曜日の朝、咲良からメッセージが来た。


登校前だった。まだ家にいた。颯太が朝ごはんを作っている音がキッチンから聞こえていた。


『見た?』


何を、と返す前に、次のメッセージが来た。


リンクだった。


開いた。


例の投稿サイトだった。でも今日のは、いつもと違った。


千景のアカウントだった。本アカウント、つまり実名に近い形で運営していたアカウントだ。そこに、投稿が大量に並んでいた。


内容を読んだ。


手が、少し止まった。


千景自身の個人情報だった。住所ではなかった。でもそれに近いもの。中学時代の言動の記録。複数の人間とのトラブルの詳細。千景が他の生徒に送ったとされるメッセージのスクリーンショット。


投稿者は別のアカウントだった。匿名だった。


でもその匿名アカウントが、千景のリアへの中傷投稿と同じ文体で書かれたものを、全部まとめて「これが本人です」という形で晒していた。


中傷の発信源が千景だった、という告発だった。


『これ、どういうこと』と咲良に送った。


返信は速かった。


『分からない。でも昨夜の十一時から今朝にかけて、一気に上がってる』


『拡散してる?』


『してる。もう学校内には広まってると思う』


私はスマートフォンを置いた。


キッチンから颯太の「できたよ」という声がした。


「行く」と答えた。


朝ごはんを食べながら、考えた。


千景が中傷をしていた。それが暴露された。


暴露したのは誰か。


答えは、考えなくても分かった。


分かった上で、考えないことにした。


教室に着いたのは、八時十分だった。


ホームルームまで二十分ある。その二十分の教室が、いつもと全然違った。


声が多かった。いつもの朝より、明らかに声が多かった。


「見た?」「誰がやったの?」「千景ちゃん、来るのかな」「あの投稿、本当なの?」


私は窓際の席に座った。


文庫本を出した。開いた。読めなかった。


斜め前の席を見た。


千景の席は、空だった。


千景は三時間目から来た。


遅刻ではなかった。体調不良で遅れる、と担任の田村に連絡が入っていたらしかった。田村がそう言った。


千景が教室に入ってきたとき、声がやんだ。


完全に静まったわけではない。でも、質が変わった。千景を意識した静けさになった。


千景は前を向いたまま自分の席に座った。


顔は普通だった。いつもの千景の顔だった。


でも目が、少し違った。


昨日まで「何かが決まった人間の目」だった。今日は違った。


何かを失った、というより、何かを置いてきた人間の目だった。


私はその目を、一瞬だけ見た。


視線を文庫本に戻した。


昼休み、咲良が来た。


今日は弁当を広げる前に、ノートを開いた。


「整理したい」と咲良は言った。


「うん」


「千景ちゃんがリアさんへの中傷をしてたのは、ほぼ確実だと思う。文体と投稿パターンが一致してる」


「うん」


「でも今朝の暴露は、千景ちゃんじゃない。別の誰かがやった」


「うん」


「その誰かが、千景ちゃんの中傷を全部把握してた。スクリーンショットも持ってた」咲良はノートから目を上げた。「これ、監視してた人間がいるってこと」


監視。


「千景ちゃんを、最初から監視してた人間が、今朝動いた」


私は弁当のおにぎりを一口食べた。


「なんで今朝だと思う?」と私は言った。


「タイミングを待ってたんじゃないかな」咲良は慎重な言い方をした。「証拠が十分に集まるまで、待ってた。あるいは」


「あるいは?」


「リアさんへの被害が、ある程度広がるまで待ってた」


私は咲良を見た。


咲良はまっすぐ私を見ていた。


「どういう意味」


「千景ちゃんの中傷が始まった直後に暴露していたら、インパクトが小さかった。でも一週間待って、クラスの空気が変わって、リアさんへの印象が少し悪くなったタイミングで暴露すると、反動が大きくなる」


反動。


「千景ちゃんが悪者になるだけじゃなくて、千景ちゃんのせいでリアさんへの印象が変わっていたことへの、クラスの後ろめたさみたいなものも出てくる」


後ろめたさ。


「つまり」と私は言った。「暴露した人間は、私の印象を回復させようとしてる?」


「そう思う」


「それって」


言いかけて、止まった。


言葉にしたくなかった。


咲良はしばらく待ってくれた。


「誰がそこまでするの」と私は聞いた。


答えを、咲良も私も、知っていた。


咲良はノートを閉じた。


「リアさん」


「うん」


「聞いていい?」


「うん」


「蒼くんに、頼んだ?」


「頼んでない」


「でも」


「頼んでない」と私は繰り返した。「でも、盾になると言ってた」


咲良は少しの間、黙っていた。


「それって」咲良の声が、少し慎重になった。「リアさんが頼んでないのに、動いたってこと?」


「そう」


「自分で判断して」


「そう」


咲良がノートをもう一度開いた。何かを書いた。私には見せなかった。


「怖くない?」と咲良が聞いた。


今日二度目の、その質問だった。


「少し」と私は答えた。「でも、今すぐどうこうする話じゃないと思ってる」


「なんで」


「千景さんが中傷してたのは、事実だから。それが表に出ることは、間違ってない」


「でも方法が」


「方法が、ね」


咲良は何も言わなかった。


方法が、正しかったかどうか。


その問いの答えを、今日の私は持っていなかった。


放課後、蒼と二人で帰った。


並んで歩きながら、しばらく何も言わなかった。


校門を出て、駅に向かう道に入ったところで、私は口を開いた。


「見た、今朝のやつ」


「うん」


「蒼くんがやったの?」


蒼は少しだけ間を置いた。


「そう聞こえた?」


「答えになってない」


「そうだね」また少し間があった。「やった」


「なんで」


「リアが傷つかなければ、それでいい」


静かな言い方だった。


感情を乗せない、いつもの蒼の言い方だった。でも今日はその静けさが、いつもより少し冷たく聞こえた。


「私が頼んでないのに」


「リアが頼まなくても、必要なことだったから」


「千景さんはどうなるの」


「中傷をしていたのは事実だよ。自分がやったことの結果だ」


「そうだけど」


「そうじゃないの?」


私は歩きながら、答えを探した。


間違っていない、と思う部分があった。千景は確かに中傷をしていた。それが表に出ることは、筋として通っている。


でも何かが、引っかかった。


「千景さんがどうなるか、考えた?」と私は聞いた。


「考えた」


「どうなると思う」


「しばらく大変だと思う」


「それでよかったの」


「リアへの中傷が続くより、よかった」


「それは蒼くんの判断で?」


「そう」


私は少しの間、黙って歩いた。


駅が見えてきた。


「蒼くん」


「うん」


「私は、嬉しくない」


言葉が、また口から出た。考える前に出た。


蒼が歩みを止めた。


私も止まった。


振り向いた。


蒼は私を見ていた。


表情が、わずかに動いた。驚き、ではなかった。もっと別の何かだった。予測していなかった、という顔だった。


「嬉しくない」と蒼は繰り返した。


「うん」


「なんで」


「千景さんが傷つくのが嬉しくない。中傷されてたのは本当で、辛かったのも本当。でも、千景さんが壊れることで、私が助かるのは、嬉しくない」


蒼はしばらく、私を見ていた。


「そういう人だね、リアは」


批判じゃなかった。感想だった。でも温度のない感想だった。


「変?」


「変じゃない」蒼は少し考えた。「ただ、僕には難しい感覚だ」


難しい感覚。


「どう難しいの」


「リアが傷つかなければいい、という気持ちしかなかった。それ以外を考える余裕が、なかった」


余裕が、なかった。


その言い方が、少し引っかかった。


余裕がなかった、というのは、感情に飲まれた、ということだ。


蒼が感情に飲まれる。


その事実が、私には少し怖かった。怖い、というのは正確じゃないかもしれない。重い、という感じだった。


「ありがとう」と私は言った。


「え」


「助けようとしてくれたのは、本当だから。方法は、嬉しくなかったけど」


蒼はしばらく黙っていた。


その沈黙が、いつもの蒼の沈黙と少し違った。何かを処理している、という静けさだった。


「そう言われたの、初めてだ」と蒼は言った。


「ありがとうって?」


「ありがとうと、でも嬉しくないを、同時に言われたの」


「変だった?」


「変じゃない」蒼はまた少し考えた。「正確だと思う」


正確。


その言葉を、蒼は選んだ。


私たちはまた歩き始めた。


駅まで、あと少しだった。


ホームで電車を待ちながら、今日のことを整理した。


千景の裏アカウントが炎上した。蒼がやった。蒼は頼んでいないのに動いた。私は嬉しくないと言った。蒼は難しいと言った。


全部が、今日起きたことだった。


蒼が動いた。


その事実が、今夜の私の中で一番重かった。


盾になると言っていた。必要なことをすると言っていた。でも実際に動いた蒼を見て、初めて分かったことがあった。


蒼の「必要なこと」の範囲が、私の想像より広い。


広さがどこまでなのか、今日の時点では分からなかった。


電車が来た。


乗り込んだ。


窓の外の夏の景色が、流れ始めた。


嬉しくない、と言った。


でも電車に乗りながら、もう一つの感情があることに気づいていた。


安心していた。


中傷が止まる。教室の空気が変わる。蒼が動いたから。


安心している自分と、嬉しくない自分が、同時にいた。


その矛盾を、今夜は処理しないことにした。


処理できなかった。


矛盾したまま、夏の景色の中を、電車は走り続けた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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