第16話「一週間後」
一週間が経った。
蒼が「盾になる」と言った日から、ちょうど七日だった。
その間、特に何も起きなかった。投稿は続いた。教室の空気は変わらなかった。千景が廊下で私を見る目も、変わらなかった。蒼は図書室に来て、射場に来て、「必要なことをする」という言葉の続きを何も言わなかった。
何も起きない一週間だった。
そのはずだった。
月曜日の朝、咲良からメッセージが来た。
登校前だった。まだ家にいた。颯太が朝ごはんを作っている音がキッチンから聞こえていた。
『見た?』
何を、と返す前に、次のメッセージが来た。
リンクだった。
開いた。
例の投稿サイトだった。でも今日のは、いつもと違った。
千景のアカウントだった。本アカウント、つまり実名に近い形で運営していたアカウントだ。そこに、投稿が大量に並んでいた。
内容を読んだ。
手が、少し止まった。
千景自身の個人情報だった。住所ではなかった。でもそれに近いもの。中学時代の言動の記録。複数の人間とのトラブルの詳細。千景が他の生徒に送ったとされるメッセージのスクリーンショット。
投稿者は別のアカウントだった。匿名だった。
でもその匿名アカウントが、千景のリアへの中傷投稿と同じ文体で書かれたものを、全部まとめて「これが本人です」という形で晒していた。
中傷の発信源が千景だった、という告発だった。
『これ、どういうこと』と咲良に送った。
返信は速かった。
『分からない。でも昨夜の十一時から今朝にかけて、一気に上がってる』
『拡散してる?』
『してる。もう学校内には広まってると思う』
私はスマートフォンを置いた。
キッチンから颯太の「できたよ」という声がした。
「行く」と答えた。
朝ごはんを食べながら、考えた。
千景が中傷をしていた。それが暴露された。
暴露したのは誰か。
答えは、考えなくても分かった。
分かった上で、考えないことにした。
教室に着いたのは、八時十分だった。
ホームルームまで二十分ある。その二十分の教室が、いつもと全然違った。
声が多かった。いつもの朝より、明らかに声が多かった。
「見た?」「誰がやったの?」「千景ちゃん、来るのかな」「あの投稿、本当なの?」
私は窓際の席に座った。
文庫本を出した。開いた。読めなかった。
斜め前の席を見た。
千景の席は、空だった。
千景は三時間目から来た。
遅刻ではなかった。体調不良で遅れる、と担任の田村に連絡が入っていたらしかった。田村がそう言った。
千景が教室に入ってきたとき、声がやんだ。
完全に静まったわけではない。でも、質が変わった。千景を意識した静けさになった。
千景は前を向いたまま自分の席に座った。
顔は普通だった。いつもの千景の顔だった。
でも目が、少し違った。
昨日まで「何かが決まった人間の目」だった。今日は違った。
何かを失った、というより、何かを置いてきた人間の目だった。
私はその目を、一瞬だけ見た。
視線を文庫本に戻した。
昼休み、咲良が来た。
今日は弁当を広げる前に、ノートを開いた。
「整理したい」と咲良は言った。
「うん」
「千景ちゃんがリアさんへの中傷をしてたのは、ほぼ確実だと思う。文体と投稿パターンが一致してる」
「うん」
「でも今朝の暴露は、千景ちゃんじゃない。別の誰かがやった」
「うん」
「その誰かが、千景ちゃんの中傷を全部把握してた。スクリーンショットも持ってた」咲良はノートから目を上げた。「これ、監視してた人間がいるってこと」
監視。
「千景ちゃんを、最初から監視してた人間が、今朝動いた」
私は弁当のおにぎりを一口食べた。
「なんで今朝だと思う?」と私は言った。
「タイミングを待ってたんじゃないかな」咲良は慎重な言い方をした。「証拠が十分に集まるまで、待ってた。あるいは」
「あるいは?」
「リアさんへの被害が、ある程度広がるまで待ってた」
私は咲良を見た。
咲良はまっすぐ私を見ていた。
「どういう意味」
「千景ちゃんの中傷が始まった直後に暴露していたら、インパクトが小さかった。でも一週間待って、クラスの空気が変わって、リアさんへの印象が少し悪くなったタイミングで暴露すると、反動が大きくなる」
反動。
「千景ちゃんが悪者になるだけじゃなくて、千景ちゃんのせいでリアさんへの印象が変わっていたことへの、クラスの後ろめたさみたいなものも出てくる」
後ろめたさ。
「つまり」と私は言った。「暴露した人間は、私の印象を回復させようとしてる?」
「そう思う」
「それって」
言いかけて、止まった。
言葉にしたくなかった。
咲良はしばらく待ってくれた。
「誰がそこまでするの」と私は聞いた。
答えを、咲良も私も、知っていた。
咲良はノートを閉じた。
「リアさん」
「うん」
「聞いていい?」
「うん」
「蒼くんに、頼んだ?」
「頼んでない」
「でも」
「頼んでない」と私は繰り返した。「でも、盾になると言ってた」
咲良は少しの間、黙っていた。
「それって」咲良の声が、少し慎重になった。「リアさんが頼んでないのに、動いたってこと?」
「そう」
「自分で判断して」
「そう」
咲良がノートをもう一度開いた。何かを書いた。私には見せなかった。
「怖くない?」と咲良が聞いた。
今日二度目の、その質問だった。
「少し」と私は答えた。「でも、今すぐどうこうする話じゃないと思ってる」
「なんで」
「千景さんが中傷してたのは、事実だから。それが表に出ることは、間違ってない」
「でも方法が」
「方法が、ね」
咲良は何も言わなかった。
方法が、正しかったかどうか。
その問いの答えを、今日の私は持っていなかった。
放課後、蒼と二人で帰った。
並んで歩きながら、しばらく何も言わなかった。
校門を出て、駅に向かう道に入ったところで、私は口を開いた。
「見た、今朝のやつ」
「うん」
「蒼くんがやったの?」
蒼は少しだけ間を置いた。
「そう聞こえた?」
「答えになってない」
「そうだね」また少し間があった。「やった」
「なんで」
「リアが傷つかなければ、それでいい」
静かな言い方だった。
感情を乗せない、いつもの蒼の言い方だった。でも今日はその静けさが、いつもより少し冷たく聞こえた。
「私が頼んでないのに」
「リアが頼まなくても、必要なことだったから」
「千景さんはどうなるの」
「中傷をしていたのは事実だよ。自分がやったことの結果だ」
「そうだけど」
「そうじゃないの?」
私は歩きながら、答えを探した。
間違っていない、と思う部分があった。千景は確かに中傷をしていた。それが表に出ることは、筋として通っている。
でも何かが、引っかかった。
「千景さんがどうなるか、考えた?」と私は聞いた。
「考えた」
「どうなると思う」
「しばらく大変だと思う」
「それでよかったの」
「リアへの中傷が続くより、よかった」
「それは蒼くんの判断で?」
「そう」
私は少しの間、黙って歩いた。
駅が見えてきた。
「蒼くん」
「うん」
「私は、嬉しくない」
言葉が、また口から出た。考える前に出た。
蒼が歩みを止めた。
私も止まった。
振り向いた。
蒼は私を見ていた。
表情が、わずかに動いた。驚き、ではなかった。もっと別の何かだった。予測していなかった、という顔だった。
「嬉しくない」と蒼は繰り返した。
「うん」
「なんで」
「千景さんが傷つくのが嬉しくない。中傷されてたのは本当で、辛かったのも本当。でも、千景さんが壊れることで、私が助かるのは、嬉しくない」
蒼はしばらく、私を見ていた。
「そういう人だね、リアは」
批判じゃなかった。感想だった。でも温度のない感想だった。
「変?」
「変じゃない」蒼は少し考えた。「ただ、僕には難しい感覚だ」
難しい感覚。
「どう難しいの」
「リアが傷つかなければいい、という気持ちしかなかった。それ以外を考える余裕が、なかった」
余裕が、なかった。
その言い方が、少し引っかかった。
余裕がなかった、というのは、感情に飲まれた、ということだ。
蒼が感情に飲まれる。
その事実が、私には少し怖かった。怖い、というのは正確じゃないかもしれない。重い、という感じだった。
「ありがとう」と私は言った。
「え」
「助けようとしてくれたのは、本当だから。方法は、嬉しくなかったけど」
蒼はしばらく黙っていた。
その沈黙が、いつもの蒼の沈黙と少し違った。何かを処理している、という静けさだった。
「そう言われたの、初めてだ」と蒼は言った。
「ありがとうって?」
「ありがとうと、でも嬉しくないを、同時に言われたの」
「変だった?」
「変じゃない」蒼はまた少し考えた。「正確だと思う」
正確。
その言葉を、蒼は選んだ。
私たちはまた歩き始めた。
駅まで、あと少しだった。
ホームで電車を待ちながら、今日のことを整理した。
千景の裏アカウントが炎上した。蒼がやった。蒼は頼んでいないのに動いた。私は嬉しくないと言った。蒼は難しいと言った。
全部が、今日起きたことだった。
蒼が動いた。
その事実が、今夜の私の中で一番重かった。
盾になると言っていた。必要なことをすると言っていた。でも実際に動いた蒼を見て、初めて分かったことがあった。
蒼の「必要なこと」の範囲が、私の想像より広い。
広さがどこまでなのか、今日の時点では分からなかった。
電車が来た。
乗り込んだ。
窓の外の夏の景色が、流れ始めた。
嬉しくない、と言った。
でも電車に乗りながら、もう一つの感情があることに気づいていた。
安心していた。
中傷が止まる。教室の空気が変わる。蒼が動いたから。
安心している自分と、嬉しくない自分が、同時にいた。
その矛盾を、今夜は処理しないことにした。
処理できなかった。
矛盾したまま、夏の景色の中を、電車は走り続けた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
突然ですが、作者からコンサル的お願いがございます。
「ブックマーク・評価」という施策を打てていない読者様、費用対効果は最高です。ワンクリック・5秒・無料。これ以上のROIはありません。
次話の更新速度というKPIに直結しますので、何卒ご支援のほどよろしくお願いいたします!
また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n9418lx/
王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




