第15話「盾になる」
八月が近づいていた。
梅雨が明けた。
明けた翌日から、光の質が変わった。
梅雨の光は、空全体から落ちてくる。
でも夏の光は違う。
一直線だった。
射るみたいに、真っ直ぐ来る。
朝の射場で、的が白く光っていた。
投稿は、まだ続いていた。
咲良の報告では、アカウント数は増えていない。
でも、一件ごとの反応が増えていた。
少しずつ。静かに。
広がっている。
教室の空気にも、もう慣れていた。
慣れた、というだけだ。
気にならなくなったわけじゃない。
重さは、そのままだった。
ただ、その重さを持ったまま教室に入ることに、体が覚えただけ。
それだけだった。
月曜の昼休み。
蒼が来た。
私と咲良の席に、蒼が来るのは珍しかった。
蒼はだいたい、朝の図書室か放課後の射場にいる。
昼休みに来たのは、初めてだった。
「少しいい?」
咲良が返事する前に、私は「うん」と言った。
蒼は咲良の隣に座った。
三人になった。
少しの間、誰も話さなかった。
咲良が弁当を食べながら、私と蒼を交互に見ていた。
完全に観察者の目だった。
「SNSのこと」
蒼が言った。
「うん」
「見てた」
「どこで知ったの」
「隼が話してた。気にしてたから」
隼らしい、と思った。
あいつは、一人で抱えるのが苦手だ。
「隼には関係ない話なのに」
「気にするのが隼だから」
「そうだね」
蒼は少し視線を落とした。
静かな間。
それから言った。
「僕が盾になる」
声は静かだった。
宣言とも違う。
相談でもない。
ただ、そこにある事実みたいな言い方だった。
「いらない」
「なんで」
「自分のことは、自分でどうにかする」
「どうにかできてる?」
少し、詰まった。
できている、とは言えなかった。
投稿は続いている。
空気も変わらない。
弓も戻ってきたけど、まだ完全じゃない。
「できてなくても、蒼くんに頼む理由がない」
「理由って必要?」
「必要」
「なんで」
私は少しだけ考えた。
でも、考える前に口が動いた。
「頼んだら、何か変わる気がするから」
言ってから、自分で驚いた。
蒼は黙って、私を見ていた。
真っ直ぐだった。
「何が変わると思う?」
「分からない。でも変わる」
「それが怖い?」
「怖い、とは少し違うかも」
弁当の蓋を閉じた。
「近くなる気がする」
「近く?」
「蒼くんへの見方が」
言ったあと、少し後悔した。
正直すぎた。
でも、取り消したくはなかった。
蒼はしばらく黙っていた。
その空気の中で、急に咲良が立ち上がった。
「あ、私、お代わり取ってくる」
この学校に、お代わり文化はない。
完全に気を使っただけだった。
二人になった。
「もっと近くなるのが嫌?」
蒼が聞いた。
「嫌じゃない」
自分でも、すぐに答えたことに驚いた。
「じゃあ?」
「近くなったら、見えるものが増える気がする」
「僕のこと?」
「うん」
蒼は何も言わなかった。
窓の外で、夏の光が校庭を白くしていた。
「知りたいのに、知るのが怖い」
私が言った。
「そんな感じ」
蒼は静かに聞いていた。
「それでも」
少し間を置いて、蒼が言った。
「盾になる」
「聞いてた?」
「聞いてた。でも変わらない」
押しつける感じじゃなかった。
ただ、そこだけは動かない。
そういう静けさだった。
「なんで」
「リアが傷つくの、嫌だから」
シンプルだった。
余計な言葉が、何もなかった。
だから逆に、返せなかった。
「盾って、具体的に何するの」
「必要なこと」
「曖昧」
「まだ決まってないから」
蒼は少し目を細めた。
「でも必要になったら、動く」
動く。
その言葉が、少し重かった。
どこまで動くのか。
何をするのか。
聞こうとして、やめた。
答えが怖い気がした。
「……分かった」
承諾ではなかった。
拒絶でもない。
今日のところは、そこに置く。
そういう意味だった。
蒼は「うん」と言った。
それだけだった。
咲良が戻ってきた。
もちろん、手ぶらだった。
「お代わり、なかった」
「そうだね。ないよね」
私が言うと、咲良は少し笑った。
放課後。
一人で射場へ行った。
今日は蒼が来なかった。
昼に話したからかもしれない。
理由は分からなかった。
弓を持った。
射位に立つ。
盾になる。
蒼はそう言った。
私は断った。
でも、蒼は引かなかった。
引いた。
入った。
二本目。
三本目。
全部入った。
五本目を引きながら、考えていた。
盾になるって、何だろう。
投稿を止める?
誰かに直接何かする?
教室の空気を変える?
蒼なら、どれもやれそうだった。
でも蒼は、どれも言わなかった。
必要なことをする。
そう言っただけだった。
必要を決めるのは、自分。
十一話で聞いたことを思い出した。
やるべきことを、誰が決めるのか。
蒼は、僕が決めると言った。
あの時の答えと、今日の言葉がつながった。
六本目。
入った。
七本目を引きながら、別のことを考えた。
私は「近くなる」と言った。
蒼は、それを聞いた上で、盾になると言った。
近づくことを、怖いと思っていないのか。
それとも。
近づきたいのか。
弦を離した。
矢が飛ぶ。
真ん中に入った。
答えは出なかった。
でも今日は、七本全部入った。
久しぶりに、整っていた。
なんで整ったのか。
考えかけて、やめた。
分からないものを、無理に言葉にすると乱れる。
三上先生の言葉だった。
射場を出た。
夕方なのに、空気はまだ熱かった。
夜。
颯太が部屋をノックした。
「姉ちゃん、アイス食べる?」
「食べる」
「何味?」
「なんでもいい」
少しして、チョコアイスを持ってきた。
颯太はソーダ味だった。
並んで食べた。
「今日の弓は?」
「七本全部」
「全部?」
颯太が少し驚いた。
「先週より、めっちゃ戻ってるじゃん」
「そうかも」
「何かあった?」
「別に」
「嘘っぽい」
「嘘じゃないよ」
颯太は「ふーん」とだけ言った。
追及はしてこなかった。
この距離感が、颯太の良いところだ。
「ねえ、颯太」
「ん?」
「誰かに、“何かしてあげる”って言われたら、どうする?」
颯太は少し考えた。
「内容による」
「内容が分からないとき」
「分からないのに言ってくるの?」
「必要なことをする、って」
また少し考える。
ソーダアイスが溶け始めていた。
「それ、ちょっと怖くない?」
「少し」
「じゃあ断れば?」
「断った。でも変わらないって」
颯太が私を見た。
「それ、断れてなくない?」
「そうなんだよね」
颯太は少し黙った。
それから言った。
「姉ちゃんが断れないの、珍しい」
「そうだね」
「どんな人?」
少し迷った。
でも隠す理由もなかった。
「……蒼くん」
颯太の手が、一瞬止まった。
「あの、姉ちゃんの声のトーン変わる人?」
「そう」
「そっか」
何か言いかけて、やめた。
「まあ、いいんじゃない」
「何が?」
「断れないくらい、信用してるってことでしょ」
信用。
その言葉が残った。
私は、怖いから断れないと思っていた。
でも颯太は、信用だと言った。
どっちなんだろう。
たぶん、両方だった。
アイスを食べ終えた。
颯太は「ごちそうさま」と言って部屋を出た。
一人になった。
スマートフォンを見る。
蒼からは、何も来ていなかった。
私から送ることも、しなかった。
今日は、それでよかった。
昼に話した。
七本入った。
颯太とアイスを食べた。
それで十分だった。
窓の外。
夏の夜が広がっていた。
梅雨明けの空は、夜でも少し明るい。
盾になる。
蒼はそう言った。
変わらない、とも。
その言葉を、今夜は抱えたまま眠ることにした。
無理に整理しなくていい。
ただ持っていればいい。
そう思えた夜は、悪くなかった。
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