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桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第2章「鏡合わせの悪意」

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15/22

第15話「盾になる」

八月が近づいていた。


梅雨が明けた。


明けた翌日から、光の質が変わった。


梅雨の光は、空全体から落ちてくる。


でも夏の光は違う。


一直線だった。


射るみたいに、真っ直ぐ来る。


朝の射場で、的が白く光っていた。


投稿は、まだ続いていた。


咲良の報告では、アカウント数は増えていない。


でも、一件ごとの反応が増えていた。


少しずつ。静かに。


広がっている。


教室の空気にも、もう慣れていた。


慣れた、というだけだ。


気にならなくなったわけじゃない。


重さは、そのままだった。


ただ、その重さを持ったまま教室に入ることに、体が覚えただけ。


それだけだった。


月曜の昼休み。


蒼が来た。


私と咲良の席に、蒼が来るのは珍しかった。


蒼はだいたい、朝の図書室か放課後の射場にいる。


昼休みに来たのは、初めてだった。


「少しいい?」


咲良が返事する前に、私は「うん」と言った。


蒼は咲良の隣に座った。


三人になった。


少しの間、誰も話さなかった。


咲良が弁当を食べながら、私と蒼を交互に見ていた。


完全に観察者の目だった。


「SNSのこと」


蒼が言った。


「うん」


「見てた」


「どこで知ったの」


「隼が話してた。気にしてたから」


隼らしい、と思った。


あいつは、一人で抱えるのが苦手だ。


「隼には関係ない話なのに」


「気にするのが隼だから」


「そうだね」


蒼は少し視線を落とした。


静かな間。


それから言った。


「僕が盾になる」


声は静かだった。


宣言とも違う。


相談でもない。


ただ、そこにある事実みたいな言い方だった。


「いらない」


「なんで」


「自分のことは、自分でどうにかする」


「どうにかできてる?」


少し、詰まった。


できている、とは言えなかった。


投稿は続いている。


空気も変わらない。


弓も戻ってきたけど、まだ完全じゃない。


「できてなくても、蒼くんに頼む理由がない」


「理由って必要?」


「必要」


「なんで」


私は少しだけ考えた。


でも、考える前に口が動いた。


「頼んだら、何か変わる気がするから」


言ってから、自分で驚いた。


蒼は黙って、私を見ていた。


真っ直ぐだった。


「何が変わると思う?」


「分からない。でも変わる」


「それが怖い?」


「怖い、とは少し違うかも」


弁当の蓋を閉じた。


「近くなる気がする」


「近く?」


「蒼くんへの見方が」


言ったあと、少し後悔した。


正直すぎた。


でも、取り消したくはなかった。


蒼はしばらく黙っていた。


その空気の中で、急に咲良が立ち上がった。


「あ、私、お代わり取ってくる」


この学校に、お代わり文化はない。


完全に気を使っただけだった。


二人になった。


「もっと近くなるのが嫌?」


蒼が聞いた。


「嫌じゃない」


自分でも、すぐに答えたことに驚いた。


「じゃあ?」


「近くなったら、見えるものが増える気がする」


「僕のこと?」


「うん」


蒼は何も言わなかった。


窓の外で、夏の光が校庭を白くしていた。


「知りたいのに、知るのが怖い」


私が言った。


「そんな感じ」


蒼は静かに聞いていた。


「それでも」


少し間を置いて、蒼が言った。


「盾になる」


「聞いてた?」


「聞いてた。でも変わらない」


押しつける感じじゃなかった。


ただ、そこだけは動かない。


そういう静けさだった。


「なんで」


「リアが傷つくの、嫌だから」


シンプルだった。


余計な言葉が、何もなかった。


だから逆に、返せなかった。


「盾って、具体的に何するの」


「必要なこと」


「曖昧」


「まだ決まってないから」


蒼は少し目を細めた。


「でも必要になったら、動く」


動く。


その言葉が、少し重かった。


どこまで動くのか。


何をするのか。


聞こうとして、やめた。


答えが怖い気がした。


「……分かった」


承諾ではなかった。


拒絶でもない。


今日のところは、そこに置く。


そういう意味だった。


蒼は「うん」と言った。


それだけだった。


咲良が戻ってきた。


もちろん、手ぶらだった。


「お代わり、なかった」


「そうだね。ないよね」


私が言うと、咲良は少し笑った。


放課後。


一人で射場へ行った。


今日は蒼が来なかった。


昼に話したからかもしれない。


理由は分からなかった。


弓を持った。


射位に立つ。


盾になる。


蒼はそう言った。


私は断った。


でも、蒼は引かなかった。


引いた。


入った。


二本目。


三本目。


全部入った。


五本目を引きながら、考えていた。


盾になるって、何だろう。


投稿を止める?


誰かに直接何かする?


教室の空気を変える?


蒼なら、どれもやれそうだった。


でも蒼は、どれも言わなかった。


必要なことをする。


そう言っただけだった。


必要を決めるのは、自分。


十一話で聞いたことを思い出した。


やるべきことを、誰が決めるのか。


蒼は、僕が決めると言った。


あの時の答えと、今日の言葉がつながった。


六本目。


入った。


七本目を引きながら、別のことを考えた。


私は「近くなる」と言った。


蒼は、それを聞いた上で、盾になると言った。


近づくことを、怖いと思っていないのか。


それとも。


近づきたいのか。


弦を離した。


矢が飛ぶ。


真ん中に入った。


答えは出なかった。


でも今日は、七本全部入った。


久しぶりに、整っていた。


なんで整ったのか。


考えかけて、やめた。


分からないものを、無理に言葉にすると乱れる。


三上先生の言葉だった。


射場を出た。


夕方なのに、空気はまだ熱かった。


夜。


颯太が部屋をノックした。


「姉ちゃん、アイス食べる?」


「食べる」


「何味?」


「なんでもいい」


少しして、チョコアイスを持ってきた。


颯太はソーダ味だった。


並んで食べた。


「今日の弓は?」


「七本全部」


「全部?」


颯太が少し驚いた。


「先週より、めっちゃ戻ってるじゃん」


「そうかも」


「何かあった?」


「別に」


「嘘っぽい」


「嘘じゃないよ」


颯太は「ふーん」とだけ言った。


追及はしてこなかった。


この距離感が、颯太の良いところだ。


「ねえ、颯太」


「ん?」


「誰かに、“何かしてあげる”って言われたら、どうする?」


颯太は少し考えた。


「内容による」


「内容が分からないとき」


「分からないのに言ってくるの?」


「必要なことをする、って」


また少し考える。


ソーダアイスが溶け始めていた。


「それ、ちょっと怖くない?」


「少し」


「じゃあ断れば?」


「断った。でも変わらないって」


颯太が私を見た。


「それ、断れてなくない?」


「そうなんだよね」


颯太は少し黙った。


それから言った。


「姉ちゃんが断れないの、珍しい」


「そうだね」


「どんな人?」


少し迷った。


でも隠す理由もなかった。


「……蒼くん」


颯太の手が、一瞬止まった。


「あの、姉ちゃんの声のトーン変わる人?」


「そう」


「そっか」


何か言いかけて、やめた。


「まあ、いいんじゃない」


「何が?」


「断れないくらい、信用してるってことでしょ」


信用。


その言葉が残った。


私は、怖いから断れないと思っていた。


でも颯太は、信用だと言った。


どっちなんだろう。


たぶん、両方だった。


アイスを食べ終えた。


颯太は「ごちそうさま」と言って部屋を出た。


一人になった。


スマートフォンを見る。


蒼からは、何も来ていなかった。


私から送ることも、しなかった。


今日は、それでよかった。


昼に話した。


七本入った。


颯太とアイスを食べた。


それで十分だった。


窓の外。


夏の夜が広がっていた。


梅雨明けの空は、夜でも少し明るい。


盾になる。


蒼はそう言った。


変わらない、とも。


その言葉を、今夜は抱えたまま眠ることにした。


無理に整理しなくていい。


ただ持っていればいい。


そう思えた夜は、悪くなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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