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桜渓の孤星  作者: 筑紫隼人
第2章「鏡合わせの悪意」

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14/21

第14話「どうせ人間は」

七月の第三週になった。


投稿は、まだ増えていた。


咲良が毎日報告してくれる。


今日は何件。

いいねがいくつ。

拡散の流れがどう変わったか。


数字が積み上がるたび、咲良の声から少しずつ温度が抜けていった。


怒っているわけではなかった。


調査者の顔になっていた。


私は聞きながら、弁当を食べた。


傷ついているか、と聞かれれば、たぶん傷ついている。


でも、その傷が何なのか、まだ言葉にできなかった。


投稿の内容が、完全な嘘なら簡単だった。


でも違う。


距離がある。

感情を見せない。

リレーを断った。


全部、本当だった。


本当のことを、悪意で並べる。


それだけで、人は簡単に輪郭を変えられる。


それが少し、重かった。


水曜の放課後。


更衣室で着替えていると、壁の向こうから声がした。


女子が二人。


「瀬戸川さんって、最近さらに話しかけにくくない?」


「もともとじゃん」


「なんか前より、冷たい感じ」


「SNSのやつ見た?」


「あれ本当なのかな」


「どうだろ。でも、あながち嘘でもない気がする」


「あー……分かる。なんか私たちのこと、どうでもいいって思ってそう」


どうでもいい。


私はシャツのボタンを留めた。


一つ。

二つ。

三つ。


思っていない、と言えるか考えた。


どうでもいいとは思っていない。


でも、大事にしようともしていなかった。


それは事実だった。


最後のボタンを留める。


鞄を持つ。


更衣室を出た。


廊下に、さっきの二人がいた。


目が合った。


二人とも固まった。


「お疲れ」


私が言うと、


「お、お疲れ様」


少し遅れて返ってきた。


私はそのまま歩いた。


後ろで、小さな声がした。


聞こうとは思わなかった。


窓の外には、夕方の校庭。


陸上部が走っていた。


一人だけ、明らかに速い生徒がいる。


誰より速いのに、表情がなかった。


速さに慣れた人間の顔だった。


少しだけ、他人の気がしなかった。


射場には、先に蒼がいた。


珍しかった。


的の前に立っている。


弓も矢も持たず、ただ見ていた。


「何してるの」


「的の位置、確認してた」


「なんで」


「少し傾いて見えて」


私も見た。


傾いていなかった。


「傾いてないよ」


「そう?」蒼が少し笑う。「じゃあ気のせいか」


「視力悪い?」


「両眼二・〇」


「なら最初からそこにある」


「そうだね」


蒼は的から目を離した。


「今日、なんか全部ずれて見えた」


その言い方が、少し引っかかった。


体調の話なのか。

別の話なのか。


判断できなかった。


「寝不足?」


「少し」


「何時に寝たの」


「三時くらい」


「何してたの」


蒼は少し間を置いた。


「調べもの」


「何を」


「いろいろ」


そこで会話が閉じた。


開けようと思えば、開けられた。


でも今日は、その体力が少し足りなかった。


「弓、引く」


「見てる」


射位に立った。


十本引いた。


六本入った。


悪くはない。


でも整っていなかった。


投稿のこと。

更衣室の声。

蒼の「いろいろ」。


全部が少しずつ混ざって、内側が濁っていた。


片付けながら、私は言った。


「六本だった」


「見てた」


「外した理由、分かった?」


「三本目と七本目は、途中で別のこと考えた」


「……うん」


「九本目は逆。何も考えなさすぎた」


正確だった。


九本目。

私は無理やり空にしようとしていた。


空にしようとする意識そのものが、乱れになった。


「よく見てるね」


「リアの弓は見やすい」


「なんで」


「乱れが顔に出ないから」


蒼は少しだけ視線を下げた。


「体にだけ出る」


顔に出ない。


体にだけ出る。


「それ、褒めてる?」


「観察」


「どっち」


蒼は少し考えた。


「両方かも」


その答えが、少し可笑しかった。


今日の射場で、初めて少し笑えた。


帰り道。


咲良からメッセージが来た。


『今日、また増えてた』


『内容は?』


少し間が空く。


『内部進学のくせに感じ悪い、って方向』


内部進学。


私はホームのベンチに座った。


『それ関係ある?』


『ある人にはあるんだと思う』


返信はすぐ来た。


『外から入って、ずっと壁を感じてた人には』


千景。


名前は出ていない。


でも線が一本ずつ繋がっていく感覚があった。


確証はない。


ただ、感覚だけが残る。


電車を待ちながら、考えた。


どうせ人間はそんなもの。


昔から、そう思っていた。


父のことを見てきたから。


人は結局、自分の都合で動く。

感情は後づけだ。


だから傷つかない。

そう思っていた。


でも今週は、少し傷ついた。


理由は、悪意じゃない。


悪意には慣れている。


父を見ていれば、慣れる。


傷ついたのは、たぶん手間だった。


誰かが時間を使った。


複数のアカウントを作って。

投稿時間をずらして。

言葉を選んで。

反応を観察して。


全部、私に向けた。


どうでもいい相手に、人はそこまでしない。


どうでもよくないから、手間をかける。


その事実の受け取り方が、まだ分からなかった。


電車が来た。


乗り込む。


窓の外の景色が流れ始める。


どうせ人間はそんなもの。


そう思い切れた方が、楽だった。


でも最近、少し難しい。


家に帰ると、颯太がリビングにいた。


「姉ちゃん、顔色悪い」


「そう?」


「悪い。夕飯どうする」


「食べる」


「何がいい」


「簡単なのでいい」


颯太は冷蔵庫を開けた。


しばらく眺めてから、


「卵かけご飯でいい?」


と言った。


「最高」


颯太が笑った。


私も少しだけ笑った。


卵かけご飯を食べながら、颯太は何も聞かなかった。


テレビをつける。


くだらないバラエティ。


時々、二人で笑った。


笑える部分があった。


それが少し意外だった。


完全には濁っていない。


弓で言えば、乱れていても芯は残っている。


芯があるなら、また整えられる。


そんな気がした。


食器を洗いながら、明日のことを考えた。


明日も投稿は増えるかもしれない。


教室の空気も変わらないかもしれない。


千景がまた、確認しに来るかもしれない。


全部ありえる。


でも明日の朝、私は弓を引く。


それだけは変わらない。


変わらないものが一つあると、少し立っていられる。


部屋に戻る前、スマートフォンを見た。


蒼からメッセージが来ていた。


『今日、六本入ったのに、外れた四本の方を気にしてるでしょ』


私は少し画面を見た。


『なんで分かるの』


すぐ既読がつく。


『リアはそういう人だから』


それだけだった。


否定できなかった。


六本入ったことより、四本外したことの方が、ずっと残っていた。


『おやすみ』


『おやすみ、リア』


画面を閉じる。


窓の外は曇っていた。


星は見えない。


どうせ人間はそんなもの。


そう思い続けることが、少しずつ難しくなっていた。


理由の一つは、蒼。


もう一つは、咲良。


もしかしたら、颯太の卵かけご飯も、そこに入るのかもしれなかった。


目を閉じる。


明日、弓を引く。


それだけを考えて、今夜は終わりにした。

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