第14話「どうせ人間は」
七月の第三週になった。
投稿は、まだ増えていた。
咲良が毎日報告してくれる。
今日は何件。
いいねがいくつ。
拡散の流れがどう変わったか。
数字が積み上がるたび、咲良の声から少しずつ温度が抜けていった。
怒っているわけではなかった。
調査者の顔になっていた。
私は聞きながら、弁当を食べた。
傷ついているか、と聞かれれば、たぶん傷ついている。
でも、その傷が何なのか、まだ言葉にできなかった。
投稿の内容が、完全な嘘なら簡単だった。
でも違う。
距離がある。
感情を見せない。
リレーを断った。
全部、本当だった。
本当のことを、悪意で並べる。
それだけで、人は簡単に輪郭を変えられる。
それが少し、重かった。
水曜の放課後。
更衣室で着替えていると、壁の向こうから声がした。
女子が二人。
「瀬戸川さんって、最近さらに話しかけにくくない?」
「もともとじゃん」
「なんか前より、冷たい感じ」
「SNSのやつ見た?」
「あれ本当なのかな」
「どうだろ。でも、あながち嘘でもない気がする」
「あー……分かる。なんか私たちのこと、どうでもいいって思ってそう」
どうでもいい。
私はシャツのボタンを留めた。
一つ。
二つ。
三つ。
思っていない、と言えるか考えた。
どうでもいいとは思っていない。
でも、大事にしようともしていなかった。
それは事実だった。
最後のボタンを留める。
鞄を持つ。
更衣室を出た。
廊下に、さっきの二人がいた。
目が合った。
二人とも固まった。
「お疲れ」
私が言うと、
「お、お疲れ様」
少し遅れて返ってきた。
私はそのまま歩いた。
後ろで、小さな声がした。
聞こうとは思わなかった。
窓の外には、夕方の校庭。
陸上部が走っていた。
一人だけ、明らかに速い生徒がいる。
誰より速いのに、表情がなかった。
速さに慣れた人間の顔だった。
少しだけ、他人の気がしなかった。
射場には、先に蒼がいた。
珍しかった。
的の前に立っている。
弓も矢も持たず、ただ見ていた。
「何してるの」
「的の位置、確認してた」
「なんで」
「少し傾いて見えて」
私も見た。
傾いていなかった。
「傾いてないよ」
「そう?」蒼が少し笑う。「じゃあ気のせいか」
「視力悪い?」
「両眼二・〇」
「なら最初からそこにある」
「そうだね」
蒼は的から目を離した。
「今日、なんか全部ずれて見えた」
その言い方が、少し引っかかった。
体調の話なのか。
別の話なのか。
判断できなかった。
「寝不足?」
「少し」
「何時に寝たの」
「三時くらい」
「何してたの」
蒼は少し間を置いた。
「調べもの」
「何を」
「いろいろ」
そこで会話が閉じた。
開けようと思えば、開けられた。
でも今日は、その体力が少し足りなかった。
「弓、引く」
「見てる」
射位に立った。
十本引いた。
六本入った。
悪くはない。
でも整っていなかった。
投稿のこと。
更衣室の声。
蒼の「いろいろ」。
全部が少しずつ混ざって、内側が濁っていた。
片付けながら、私は言った。
「六本だった」
「見てた」
「外した理由、分かった?」
「三本目と七本目は、途中で別のこと考えた」
「……うん」
「九本目は逆。何も考えなさすぎた」
正確だった。
九本目。
私は無理やり空にしようとしていた。
空にしようとする意識そのものが、乱れになった。
「よく見てるね」
「リアの弓は見やすい」
「なんで」
「乱れが顔に出ないから」
蒼は少しだけ視線を下げた。
「体にだけ出る」
顔に出ない。
体にだけ出る。
「それ、褒めてる?」
「観察」
「どっち」
蒼は少し考えた。
「両方かも」
その答えが、少し可笑しかった。
今日の射場で、初めて少し笑えた。
帰り道。
咲良からメッセージが来た。
『今日、また増えてた』
『内容は?』
少し間が空く。
『内部進学のくせに感じ悪い、って方向』
内部進学。
私はホームのベンチに座った。
『それ関係ある?』
『ある人にはあるんだと思う』
返信はすぐ来た。
『外から入って、ずっと壁を感じてた人には』
千景。
名前は出ていない。
でも線が一本ずつ繋がっていく感覚があった。
確証はない。
ただ、感覚だけが残る。
電車を待ちながら、考えた。
どうせ人間はそんなもの。
昔から、そう思っていた。
父のことを見てきたから。
人は結局、自分の都合で動く。
感情は後づけだ。
だから傷つかない。
そう思っていた。
でも今週は、少し傷ついた。
理由は、悪意じゃない。
悪意には慣れている。
父を見ていれば、慣れる。
傷ついたのは、たぶん手間だった。
誰かが時間を使った。
複数のアカウントを作って。
投稿時間をずらして。
言葉を選んで。
反応を観察して。
全部、私に向けた。
どうでもいい相手に、人はそこまでしない。
どうでもよくないから、手間をかける。
その事実の受け取り方が、まだ分からなかった。
電車が来た。
乗り込む。
窓の外の景色が流れ始める。
どうせ人間はそんなもの。
そう思い切れた方が、楽だった。
でも最近、少し難しい。
家に帰ると、颯太がリビングにいた。
「姉ちゃん、顔色悪い」
「そう?」
「悪い。夕飯どうする」
「食べる」
「何がいい」
「簡単なのでいい」
颯太は冷蔵庫を開けた。
しばらく眺めてから、
「卵かけご飯でいい?」
と言った。
「最高」
颯太が笑った。
私も少しだけ笑った。
卵かけご飯を食べながら、颯太は何も聞かなかった。
テレビをつける。
くだらないバラエティ。
時々、二人で笑った。
笑える部分があった。
それが少し意外だった。
完全には濁っていない。
弓で言えば、乱れていても芯は残っている。
芯があるなら、また整えられる。
そんな気がした。
食器を洗いながら、明日のことを考えた。
明日も投稿は増えるかもしれない。
教室の空気も変わらないかもしれない。
千景がまた、確認しに来るかもしれない。
全部ありえる。
でも明日の朝、私は弓を引く。
それだけは変わらない。
変わらないものが一つあると、少し立っていられる。
部屋に戻る前、スマートフォンを見た。
蒼からメッセージが来ていた。
『今日、六本入ったのに、外れた四本の方を気にしてるでしょ』
私は少し画面を見た。
『なんで分かるの』
すぐ既読がつく。
『リアはそういう人だから』
それだけだった。
否定できなかった。
六本入ったことより、四本外したことの方が、ずっと残っていた。
『おやすみ』
『おやすみ、リア』
画面を閉じる。
窓の外は曇っていた。
星は見えない。
どうせ人間はそんなもの。
そう思い続けることが、少しずつ難しくなっていた。
理由の一つは、蒼。
もう一つは、咲良。
もしかしたら、颯太の卵かけご飯も、そこに入るのかもしれなかった。
目を閉じる。
明日、弓を引く。
それだけを考えて、今夜は終わりにした。
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