第2話「近寄れない星」
朝比奈蒼が転入してきたのは、翌週の月曜だった。
私はその朝、いつもより五分早く登校した。
理由は分からない。
分からないことにした。
窓際の席に座り、文庫本を開いた。
ページは先週の続きだったが、やはり内容が入ってこなかった。
教室がざわめき始めたのは、ホームルームの十分前だった。
「転入生、すごいらしいよ」
「どんな人?」
「帰国子女で、頭もいいって」
「顔は?」
「知らない。でも声が良かったって、三組の子が言ってた」
声が良かった。
その情報が、なぜか頭に残った。
田村が入ってきた。
いつもより少し表情が柔らかかった。
転入生を連れてくるときの教師の顔だ。
場を和ませようとする、職業的な優しさ。
「今日から新しいクラスメートが加わります」
教室の空気が変わった。
ドアが開いた。
私は文庫本から目を離さなかった。
離さないようにした。
ページの文字を目で追いながら、教室の変化だけを感じていた。
ざわめきが、止まった。
完全に静まり返ったわけではない。
でも質が変わった。
驚きを含んだ静けさに。
「朝比奈蒼です。よろしくお願いします」
声が聞こえた。
穏やかで、落ち着いていて、緊張を感じさせない声だった。
転入初日に、あの声が出せる人間がいるのか、と思った。
思った瞬間、文庫本から目が離れた。
自分でも気づかなかった。
気づいたときには、もう見ていた。
教室の前に立っていた。
背が高い。
制服の着こなしが自然で、飾っていない。
顔立ちは整っているが、それより目が印象的だった。
穏やかな目だった。
教室全体を見渡しながら、一人一人をちゃんと見ている目だった。
その目が、私のところで止まった。
一秒か、二秒か。
蒼は何も言わなかった。
ただ、わずかに表情が動いた。
驚き、ではなかった。
もっと別の何かだった。
言語化できなかった。
次の瞬間には、もう別の生徒を見ていた。
私は文庫本に目を戻した。
ページの文字が、頭に入ってこなかった。
席は私の斜め前になった。
田村がそう指定した。
窓際から三列目、前から四番目。
私の位置からは、少し振り向けば横顔が見える距離だ。
振り向く理由はない。
振り向かなかった。
一時間目が始まった。
現代文だった。
田村が蒼に、
「慣れるまでは見ているだけで構いません」
と言うと、蒼は、
「大丈夫です、やってみます」
と答えた。
田村が少し驚いた顔をした。
授業が進んだ。
田村が本文の解釈を問う場面で、蒼が手を挙げた。
答えは正確で、しかも教科書の解釈より一段深いところまで踏み込んでいた。
田村が、
「そうですね、その読み方もできます」
と言った。
できます、ではなく、そちらの方が正確です、と私は思ったが、口には出さなかった。
隣の席の女子が蒼を見る視線が変わったのが分かった。
後ろの席の男子が、
「やばくない?」
と小声で言った。
私は窓の外を見た。
今日は雲が多い。
昼休みになった。
教室がまた動き出す。
蒼の周りに人が集まるのが、気配で分かった。
質問する声、自己紹介する声、笑い声。
蒼はそのすべてに穏やかに答えていた。
私はタッパーを取り出した。
今日の弁当は颯太が作った。
昨夜、
「明日は俺が作る」
と宣言して聞かなかった。
中身はご飯と、形の崩れた鮭のほぐし、それから謎の野菜炒めだ。
野菜の種類は聞いていない。
蓋を開けた。
「隣、来ていい?」
咲良だった。
「どうぞ」
咲良が座った。
それからすぐに、
「どう思う、転入生」
と聞いてきた。
「何を」
「全体的に」
「普通」
「嘘つかないで」
私は咲良を見た。
咲良は弁当を広げながら、まっすぐこちらを見ていた。
「嘘をついていない」
「リアさんが授業中に二回、蒼くんの方を見たの、私は見てたよ」
二回。
一回しか見ていないつもりだった。
「観察眼が鋭いね」
「新聞部だから」
咲良は少し得意そうに言った。
「で、どう思ったの」
「声が良かった」
答えてから、少し後悔した。
咲良の目が光った。
「それだけ?」
「それだけ」
「顔とか、頭の良さとか」
「それは見れば分かる。わざわざ言うことじゃない」
咲良がしばらく黙った。
それから、
「リアさんって面白いよね」
と言った。
褒めているのか、呆れているのか、判断がつかない言い方だった。
颯太の野菜炒めを一口食べた。
悪くなかった。
何の野菜かは、やはり分からなかった。
放課後、帰り支度をしていると声をかけられた。
「瀬戸川さん」
振り返った。
神崎隼だった。
珍しく、ふざけた顔をしていなかった。
「なに」
「転入生、どう思う?」
今日、何人目だろう、と思った。
「普通」
「俺、なんか負けてる気がして」
「何に」
「全部に」
神崎は少し困った顔で言った。
「勉強も、スポーツも、見た目も。今日だけで全部持ってかれた感じがする」
私は鞄を持った。
「そういう強がりは、自分が一番傷つくよ」
「強がってないって、本当に負けた気がしてるんだって」
「それは強がりじゃなくて、正直なんだね」
神崎が少し黙った。
「リアさんは負けた気しないの? 誰に対しても」
私は少しの間、答えなかった。
「比べたことがない」
それだけ言って、教室を出た。
廊下を歩いた。
階段を降りかけたところで、前から人が来た。
蒼だった。
二人分の幅しかない踊り場で、正面から向き合った。
蒼は立ち止まった。
私も立ち止まった。
「瀬戸川さん」
名前を知っていた。
当然といえば当然だ。
今日一日で、私の名前くらいは把握しているだろう。
「朝比奈くん」
私も名前を知っていた。
昨夜から、知っていた。
蒼は少しだけ目を細めた。
笑ったわけではない。
何かを確かめるような目だった。
「また明日」
それだけ言って、階段を上がっていった。
私は踊り場に一瞬だけ立ち止まった。
また明日。
その言葉の軽さと、目の重さが、合っていなかった。
気のせいかもしれない、と思った。
階段を降りながら、気のせいだと思おうとした。
思えなかった。
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