第1話「四月の教室」
四月の教室は、いつも同じにおいがする。
新しい教科書と、誰かの香水と、緊張した人間が発する熱。
私は窓際の席に鞄を置き、文庫本を開いた。
ページは昨夜の続きだったが、内容は頭に入ってこなかった。
それでも開いている。
開いていれば、話しかけられる確率が下がる。
長年の経験則だ。
クラス替えの結果を確認し合う声が後ろで続いていた。
誰と同じだった、誰と離れた、あの子と一緒になれた、最悪あいつと同じクラスだ。
人間はいつも誰かとの距離を測りながら生きている。
近い、遠い、もっと近づきたい、これ以上は嫌だ。
その計算を、朝から晩まで続けている。
私はその計算が、昔から苦手だった。
正確には、苦手なのではない。
必要だと思えない。
距離を測って、近づいて、離れて、また測って。
その繰り返しの果てに何が残るのかを、私は八歳のときに父の背中を見て学んだ。
だから一人でいる。
それだけのことだ。
「瀬戸川さんってさ、また一人なんだね」
聞こえよがしに言う声がした。
女子の声だった。
悪意というより、観察に近い響きだった。
珍しい生き物を眺めるような。
気にしなかった。
気にしていないのではなく、気にする価値を認めていない。
その差は大きい。
視線を感じた。
一つではなかった。
新学期の教室では、目立つものに視線が集まる。
私は目立つ。
望んでいないが、事実だ。
身長のせいもある。
顔のせいもある。
母から受け継いだ北欧の血が、日本の教室では否応なく浮いてしまう。
慣れている。
幼稚園からここにいる。
十二年かけて慣れた。
「なあ、瀬戸川って彼氏いるの?」
男子の声だった。
振り返らなくても誰か分かった。
神崎隼。
バスケ部で、成績は中の上で、悪い人間ではないが思ったことを口に出さずにいられないタイプだ。
去年も同じクラスだった。
「いない」
「じゃあ俺と付き合わない?」
「嫌」
「即答かよ」
「考える理由がない」
笑い声がいくつか上がった。
神崎のものも混じっていた。
この男は自分が笑われても笑える。
それは長所だと思う。
ただ私の答えになる理由にはならない。
文庫本に目を戻した。
今日が始まった、と思った。
また一年が始まった。
去年と同じ教室で、去年と似た顔触れで、去年と変わらない朝が。
担任の田村が入ってきた。
五十代、中肉中背、穏やかな目をした男性教師だ。
昨年から担任が続いている。
去年の四月、最初の自己紹介の時間に「何か特技はありますか」と聞かれて、「特にありません」と答えたら、田村は黙って次の生徒に移った。
根掘り葉掘り聞いてこなかった。
それ以来、悪い印象を持っていない。
出席を取り、いくつかの連絡をした。
最後に、
「今年のクラスには全国模試上位の生徒もいます」
と言いかけて、私の方を見た。
目が合った。
私は何も言わなかった。
ただ目を合わせたまま、静かに待った。
田村は一拍の後、
「では授業を始めます」
と言って黒板を向いた。
悪い担任ではない、とあらためて思った。
察することができる人間は、貴重だ。
一時間目は現代文だった。
教科書を開きながら、窓の外を一度だけ見た。
桜がもう終わりかけていた。
入学式には間に合わなかった今年の花は、だらしなく散り際を引き伸ばしている。
花びらが一枚、風に乗って校庭を横切った。
嫌いじゃない、と思った。
諦めの悪いものは、嫌いじゃない。
昼休みになった。
教室が一斉に動き出す。
友人同士で固まって、購買へ行く者、弁当を広げる者、廊下に出る者。
私は鞄からタッパーを取り出した。
今朝、颯太と一緒に作った弁当だ。
卵焼きが少し形を崩しているのは、颯太が「俺もやる」と言って聞かなかったせいだ。
形が悪くても、味は変わらない。
窓際の席で蓋を開けた。
「隣、座っていい?」
声がした。
橘咲良だった。
去年も同じクラスだった。
明るくよく喋る、悪意のない人間だ。
私に話しかけてくるという点では変わっているが、それ以外は普通だ。
「どうぞ」
断る理由がなかった。
咲良は自分の弁当を広げながら、何かを話し始めた。
クラス替えのこと、春休みに行った場所のこと、新しい先生のこと。
私は文庫本を開いたまま、的確なタイミングで相槌を打った。
「リアさんって、聞いてる?」
「聞いてる」
「どこまで?」
「田中先生が春休みに沖縄に行ったという話まで」
「完璧じゃん」
咲良が笑った。
「なんで本から目を離さないのに聞けるの」
「慣れ」
「何に?」
答えなかった。
咲良は少しだけ黙った後、また別の話を始めた。
この間合いを学習している。
去年と比べて、沈黙への耐性が上がっている。
成長だと思った。
弁当を食べ終えた。
タッパーの蓋を閉める。
颯太の崩れた卵焼きは、思っていたより美味しかった。
「そういえば」
咲良が言った。
「今年、転入生来るらしいよ」
「そう」
「高二に。なんか帰国子女らしくて」
「そう」
「リアさんと気が合うんじゃない、帰国子女同士で」
「私は帰国子女じゃない。一度も出たことがない」
「あ、そっか」
咲良が少し慌てた。
「ずっと内部進学なのに、ハーフだから海外に実家があるイメージ持ってた。変な先入観だった、ごめん」
「別に」
本当に別に、と思っていた。
気にするほどのことでもない。
午後の授業が始まった。
数学、英語、体育。
体育は校庭でのランニングだった。
五十メートルのタイムを計る場面で、神崎がまた何か言いかけたが、私のタイムを見て黙った。
悪くない午後だった。
放課後、一人で帰った。
駅までの道を歩きながら、空を見た。
四月の夕方は、まだ少し明るい。
桜並木の最後の花びらが、風に揺れていた。
今年も始まった、と思った。
去年と同じ道を、去年と同じ速度で歩く。
何も変わらない。
何も変える必要がない。
それでいい。
そのはずだった。
翌朝、咲良からメッセージが届いた。
『転入生の名前、聞いたよ。朝比奈蒼って人だって』
私は既読をつけた。
画面を閉じようとして、閉じられなかった。
朝比奈、蒼。
声に出さずに、口の中で転がした。
知っている名前だった。
忘れようとして、忘れられなかった名前だった。
七年間、どこかにしまったまま、それでも時々勝手に浮かんでくる名前だった。
スマートフォンの画面が暗くなった。
私はしばらく、暗くなった画面を見つめていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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