9.第2話② 無職探偵と危ないだけの金貨
扉は内側から施錠され、窓には鉄格子がはまっている。術を使った形跡も、隠し通路もなかった。
床へ転がる《嘆きの女王》。そのそばでセルゲイは喉を押さえた姿勢のまま倒れ、顔色は紫へ変わっている。唇の端から流れた細い血だけが、まだ乾かずに残っていた。
「呪いだ」
ボレスラフが扉の前で言った。
「歴代の持ち主と同じだ。金貨が叔父を殺した」
「決闘と雪崩と階段からの転落に続いて、今度は宝物室ね」
ヴェロニカは遺体の前へしゃがみ、口元を眺めた。
「何でも引き受ける働き者の呪いだわ」
「ふざけるな」
「真顔なら呪いが説明してくれるの?」
神殿医はセルゲイの喉や瞼を確かめ、唇に残った血を細い銀匙ですくった。刃傷も、首を絞められた痕も見当たらない。
血を一滴、《毒見石》へ落とす。乳白色だった石はたちまち濁り、病的な紫へ変わった。
「毒が入っています」
死者の口元へ顔を寄せた神殿医が、わずかに眉を寄せる。
「《冬眠花》系ですね。少量なら眠り薬にも使われますが、煮詰めて濃くすれば人体には危険です。ただ、飲んだのか、傷から入ったのかまでは分かりません」
昨日、セルゲイが金貨を噛んだ光景が浮かんだ。
「金貨は?」
神殿医が厚手の布越しに《嘆きの女王》を拾い、新しい《毒見石》を表裏と縁へ当てていく。女王の冠に残った歯痕にも触れさせたが、乳白色の石は変わらなかった。
「反応しません」
「噛んだところにも?」
「少なくとも、表面からは出ません」
毒で死んだ男のすぐそばに、昨日まで何度も噛んでいた金貨が落ちている。
それなのに、金貨には毒がない。
「並んでいるだけでは、まだ同じ話とは限らないわね」
ヴェロニカは金貨から視線を外した。
「昨晩、この部屋へ入ったのは?」
近衛騎士団長スヴャトスラフが尋ねる。大神殿の一件以来、彼はヴェロニカの姿を見るたび、頭痛をこらえるような顔をする。再会を喜んでいるのだと思いたい。
「叔父だけだ」
ボレスラフが答えた。
「飾り台の調整が終わったあと、叔父が閉じた金貨箱を受け取り、自分で宝物室へ運んだ。廊下までは同行したが、中には入っていない」
家令によれば、セルゲイが昨夜箱を納めてから、今朝本人が宝物室を開けるまで扉は開いていない。管理用の合鍵も、その間ずっと家令が持っていた。
「今朝、セルゲイ様が一人で入るところも見ています」
「生きて?」
「はい。披露する品は、その日の朝にご自分で確かめる方でした」
セルゲイは中へ入ると扉を内側から施錠し、確認が終われば呼び鈴で使用人を呼ぶ。今朝は、その鐘が鳴らなかった。
「それで合鍵を使ったのね」
「開けたときには、もうこの状態でした」
「完全な密室とは言わないのね」
ヴェロニカがスヴャトスラフを見る。
「同じ失敗を二度するほど暇ではない」
「成長を認めるわ」
「必要ない」
密室ではない。それでも、誰かが中へ潜んでセルゲイを待っていた形には見えなかった。
昨夜のうちに毒を受けていたのか。今朝、部屋へ入る前に何か口にしたのか。それとも、宝物室の中に別の原因があったのか。
「今朝、セルゲイが何か飲んだところは?」
ヴェロニカが尋ねると、ガリーナは帳簿を開いたまま答えた。
「見ていません」
「飲んでいない?」
「そこまでは言えません。私が見ていないだけです」
「薬は?」
「私の管理している記録にはありません。ただし、服薬そのものを私が管理していたわけではありません」
「便利な答えね」
「正確な答えです」
「褒めたのよ」
ガリーナは帳簿から顔を上げなかった。
「毒を受けてから死ぬまで、時間が空くことは?」
私が神殿医へ尋ねる。
「濃度や入り方によります。死亡時刻だけから、毒を受けた時刻を一つに決めることはできません」
「傷から入ったなら?」
「傷が見つかれば、判断材料にはなります」
見える範囲の皮膚に、それらしい傷はなかった。唇の端に残った細い血も、毒の入り口だとは断定できないらしい。
床の金貨へ近づこうとしたリュドミラを、ボレスラフが腕で制した。
「触るな」
「調べなければ、何が起きたかわからないでしょう」
「昨日、いちばん専門的に金貨を扱ったのは君だ。開いて元へ戻す技術もある」
リュドミラはボレスラフの腕を押しのけ、ヴェロニカへ向き直った。
「庇うなら、性格ではなく私の仕事を見て」
「庇うつもりはないわ」
あっさり返され、今度は私がヴェロニカを見た。
「リュドミラには、金貨を開ける腕がある。表面へ長く触れ、道具も持っていた。現状では立派な容疑者よ」
「正しいわ」
リュドミラの声には怒りも動揺もなかった。
「その代わり、調べるなら最後まで見なさい。造幣局の仕事かどうかも含めて」
「もう一人いるわね」
ヴェロニカはガリーナへ向き直った。
「昨日、二通目の文言を訂正したでしょう」
「北方の言葉ですから」
「ええ。読めたこと自体は不思議じゃないわ」
ヴェロニカがスヴャトスラフへ片手を差し出した。
「三通、ある?」
「ある」
渡された脅し文を、ヴェロニカは一枚ずつ机へ並べた。
「でも、あなたは昨日、二通目を読み返しもせず訂正した。秘書なら、普段の筆跡も残っているでしょう」
ガリーナの目が、初めて帳簿から離れた。
「何が言いたいのですか」
「三通とも、あなたが書いたの?」
ガリーナは答えなかった。
「違うと言うなら、それでもいいわ。筆跡を比べれば済むもの」
帳簿を抱く指に、わずかに力が入った。
「……脅し文を書いたのは私です。三通とも」
告白は、あまりに平坦だった。
「殺人も?」
「違います」
「文には『次に眠るのはお前だ』とあるわ」
「死者の眠りを侮るなら、いずれ同じ場所へ行くという意味です。手を下すとは書いていません」
「脅した人間は、殺していないときほど正確な言葉を選ぶものね」
ガリーナは否定しなかった。
《嘆きの女王》は、本来、女王の墓所へ納められる葬送具だったという。王国が滅びた混乱の中で持ち出され、いつしか記念金貨として売買されるようになった。
「私は、墓所を守っていた神殿の生まれです。セルゲイ様が宴の見世物にすると知り、返還を求めました」
「脅し文以外に、セルゲイへ何かした?」
「いいえ」
「昨夜は?」
「披露の最終確認が始まってからは、大広間にいました。そこにいたことなら証明できます」
スヴャトスラフが口を開きかける。
「ただし」
ガリーナが先に続けた。
「セルゲイ様がいつ毒を受けたのか分からない以上、それだけで私が無関係だとは言えません」
「そこまで自分で言うのね」
「正確に答えているだけです」
昨日、脅し文の一字を訂正したときと同じ声だった。
「脅し文は殺人とは別の線、ということね」
スヴャトスラフが言う。
「いまのところは」
ヴェロニカは三通を重ねた。
「秘密を一つ認めた人間が、残りを全て話したとは限らないわ」
リュドミラとガリーナ。どちらにも、金貨を巡る理由がある。
そしてボレスラフには、翌日の工房売却を止める理由があった。
それでも、誰の事情も、セルゲイの体へ毒が入った経路にはまだつながらなかった。
死体を前にした部屋で、三人の線だけがまだ交わらずに残っていた。
* * *
私は誰に言われるより先に厚手の手袋をはめ、床の金貨を拾った。
昨日と同じように指先で軽く弾く。返ってきた音に手が止まり、もう一度弾いた。
「昨日、こんな音だった?」
リュドミラが金貨へ顔を寄せる。
「……違うわね」
「だよね。昨日はもっと乾いてた」
王冠の下を指の腹でなぞる。昨日も引っかかった古い継ぎ目へごく軽く圧を掛けると、わずかに沈み、指を離せば元へ戻った。
「弾む」
「昨日は?」
「なかった」
「昨日と違う」
リュドミラが拡大鏡を当てた。セルゲイの歯痕が残る王冠の下、昨日は古い継ぎ直ししかなかった縁に、細かな傷が増えている。
「開けられてる」
「分かるの?」
私が金貨を持ち直し、リュドミラの覗き込んでいる縁へ目を寄せた。
「縁の内側を見て。昨日はなかった傷が増えてる。一度開いて、閉じ直している」
「造幣局の仕事?」
「これだけでは分からないわ。私でも開けられる。この傷だけで、誰が開けたかまでは決められない」
昨日とは違う響きに、前にはなかった弾力。しかも一度開いて、閉じ直されている。
「中に何か増えてる」
リュドミラは道具箱から薄い刃を選び、金貨の古い継ぎ目へ差し込んだ。表面を傷つけぬよう少しずつ力を加えると、二枚の薄板が乾いた音を立てて分かれた。
中に収められていたのは、髪の毛ほどの細い針と短い巻きばねだった。針先から根元の周辺には、濃い樹脂が付着している。
「《冬眠花》です」
神殿医が銀匙で樹脂を取り、新しい《毒見石》へ触れさせた。石はセルゲイの血を落としたときと同じ紫色へ濁る。
「十分に濃縮されています。これなら、小さな傷から入っても致命的になり得ます」
リュドミラは開いた金貨へ顔を寄せた。
「針はこっちの薄板に留めてある。ばねは二枚の間隔を戻すためね」
「噛むと?」
私が開かれた金貨へもう一度手を伸ばすと、リュドミラが先に細い工具を取った。神殿医が毒を拭い取ったあと、その先をセルゲイがいつも歯を当てていた場所へゆっくり押し当てる。二枚の薄板がわずかに近づき、歯痕そのものではなく、そのすぐ近く、王冠の彫り線に紛れた小さな穴から針先だけが覗く。力を抜くと、針は金貨の中へ消えた。
「噛む力で針を出して、ばねで戻すのね」
「この向きで噛めば、穴は口の内側へ向くわ」
リュドミラが金貨を傾けると、神殿医は死者の上側の歯茎を調べた。歯のすぐ上に、針先ほどの小さな刺し傷が残されている。
「ここです」
昨日、セルゲイは同じ歯痕へ歯を合わせていた。
「呪われてはいないわ」
ヴェロニカが開かれた金貨を覗き込む。
「噛めば毒針が出る。それだけよ」
「十分怖いんだけど」
「神秘性がないという意味では、危ないだけの金貨ね」




