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10.第2話③ 無職探偵と危ないだけの金貨

 リュドミラは死者を見下ろした。


「噛むなと言ったのに」


 その一言に、職人としての怒りと、聞き入れられなかった疲れが混じっていた。


 騎士たちが開かれた金貨を証拠箱へ移す間、リュドミラが私の袖を引き、声を落とす。


「事件が済んだら、造幣局を見に来ない? あなたなら、武具だけでなく貨幣や宝飾の鑑定も任せられるわ」


「見学?」


「その先の話も含めて。詳しい条件は、また改めて持っていくから」


「興味はあるよ」


 ヴェロニカが、リュドミラの指を私の袖から一本ずつ外した。


「追加料金が発生したわ」


「まだ事件の途中でしょう」


「だからこそ、依頼人の行動は正確に記録する必要があるの」


「仕事の話よ」


「私も仕事の話をしているわ」


 どの帳簿へ計上するつもりなのかは聞かなかった。聞けば、新しい項目が増えそうだった。


 ヴェロニカは、証拠箱へ視線を戻した。


「昨日、この金貨が宝物室へ入る前に置かれていた場所を見たいわ」


 私たちは宝物室を出て、応接室へ戻った。


 昨日と同じ場所に、黒檀の飾り台が残されていた。金貨の箱だけがなくなった台座は妙に広く見える。その端には、真鍮の《夜鳴き鳥》が止まっていた。


「ここに箱を載せて調整していたんだよね」


「ええ。箱を置いた状態で、台の安定と警報具の感度を合わせるの」


 リュドミラは、飾り台に残った《夜鳴き鳥》へ目をやりながら答えた。


 昨日、私たちが帰る直前にも、この鳥は鳴いた。


 私は停止位置にあった台座の金具を作動側へ戻した。


ギャッ、ギャッ、ギィィィーッ!


 けたたましい声と一緒に右翼が跳ね上がる。


 左翼は、胴へ貼りついたままだった。


「昨日は両方とも動いていたわ」


 リュドミラの声から、さっきまでの軽さが消える。


「もう一度」


 私が金具へ触れると、鳥はまた鳴いた。右翼だけが上がり、左は動かない。警報具としては働いている。翼だけがおかしかった。


 リュドミラが鳥へ手を伸ばしかける。


「待て」


 スヴャトスラフが先に止めた。


「開く前に、この状態を記録する。昨日、最後に正常だったところから確認するぞ」


 騎士の一人が帳面を開いた。


「買い手側の書記は?」


 ヴェロニカの視線が、帳簿を抱えたガリーナへ移った。


「契約文面と売却対象の確認を終えて、披露準備の最終確認が始まる前に帰っています。正式な署名は今日の正午の予定でした」


「そのあと、セルゲイがみんなを大広間へ集めた」


 昨日の光景なら、私も覚えている。客の順路から給仕の位置まで、セルゲイは一つ確認するたびに別の注文を増やしていた。ガリーナも家令も、給仕も警備の人間も、次々とそちらへ呼ばれていった。


「私たちは途中で帰った。その直前に、この鳥を動かした」


 私が動かない左翼を示すと、リュドミラがすぐに頷いた。


「両翼とも動いていたわ。そこは間違いない」


「三人が帰ったあとも、大広間の確認は続いたのね?」


 ガリーナは抱えていた帳簿に指を添えたまま、静かに頷いた。


「はい。セルゲイ様が終えるまで、私も家令も、給仕と警備の担当者も大広間にいました」


 その後、セルゲイは応接室へ戻り、閉じた金貨箱を受け取って、自分で宝物室へ運んでいる。


 昨日はただ長いと思った時間が、今日は別の形に見えた。


 三人で鳥が正常に動くのを見て屋敷を出してから、セルゲイが箱を持っていくまで。その間、応接室には金貨箱と《夜鳴き鳥》が一緒に残されていた。そして今、その鳥の左翼だけが動かなくなっている。


「記録した」


 スヴャトスラフが騎士の帳面を確かめてから、リュドミラへ場所を譲る。


 彼女は道具を取り出し、《夜鳴き鳥》の腹板を慎重に外した。


「……故障じゃないわ」


 真鍮の胴の中で、細い歯車とばねが幾重にも噛み合っている。その左側、翼を持ち上げる巻きばねだけが途中で途切れていた。


 折れたのではない。


 切られている。


「ここから先がない」


 リュドミラが切断された端を拡大鏡の下へ置く。


 ヴェロニカが証拠箱を開かせた。金貨の中から取り出した短い巻きばねが、白布の上へ置かれる。


 リュドミラは二つを並べ、向きを少しずつ変えた。


「太さも、巻きも同じね」


 私も横から覗き込む。切断面に残った細かな凹凸が、片方では出っ張り、もう片方では同じ形にへこんでいた。


 リュドミラが二つの端を寄せる。


 ぴたりと噛み合った。


「一本だったんだ」


 昨日まで《夜鳴き鳥》の左翼を動かしていたばねが、短く切り取られ、今朝は人を殺した金貨の中に入っていた。


「これで、私ではないとわかるでしょう」


 リュドミラは、噛み合った二つの切断面から顔を上げた。


「私たちが屋敷を出る直前、鳥は両翼を動かしていた。ばねの一部が切り取られたのは、そのあとよ」


 自分を疑えと言ったときと同じ声だった。違うのは、今度は自分の仕事で疑いを外したことだけだ。


 ガリーナも、私たちが帰ったあとまで大広間にいた。家令や使用人たちも同じだ。


 最後に両翼が正常だったと確認されたあと、応接室へ残り、金貨箱と《夜鳴き鳥》の両方へ人目なく触れられた人物。


 視線が一人へ集まった。


 ボレスラフだった。


「待て」


 ボレスラフが一歩前へ出る。


「私は機巧師だ。工房には、ばねなどいくらでもある。わざわざ鳥を壊して使う理由がない」


 その言葉に、誰もすぐ返さなかった。


 確かにそうだった。


 《夜鳴き鳥》は彼自身が作った物だ。必要な部品を用意できる職人が、わざわざ完成品の片翼を殺して材料を取る。最初からこの仕掛けを考えていたのなら、ずいぶん不自然だった。


「工房には、でしょう」


 ヴェロニカはボレスラフの反論を最後まで聞き、わずかに眉を上げた。


「昨日、あなたが広げていた道具巻きに、ばねはなかった」


「工房へ取りに戻ればいい」


「戻れなかったのよ」


 ヴェロニカは開かれた《嘆きの女王》を机へ置いた。


「少なくとも、この殺し方が使えると確信したのは、昨日、この屋敷でよ」


「根拠は」


「条件を知った順番よ」


 細い指が、開かれた金貨の王冠付近を示す。


「《嘆きの女王》が表と裏の薄板を縁で接いだ造りだと知った。王冠の下に古い継ぎ直しがあることも、開くこと自体はできることも聞いた」


 次に、セルゲイがつけた歯痕へ指先を移す。


「そして、セルゲイがこの金貨でも同じ場所へ歯を合わせ、同じ向きで噛むところを見た」


 昨日、セルゲイは自慢げに金貨を噛んでいた。リュドミラに止められても、自分のやり方を変える気はなかった。


「その日のうちに金貨は箱ごと宝物室へ入る。いま応接室で一人になった機会を捨てて工房へ戻れば、その間にセルゲイが戻ってくるかもしれない。そうなれば、もう金貨へ手を加えられない」


 ヴェロニカは片翼を伏せた《夜鳴き鳥》へ目を向けた。


「金貨の仕掛けには、噛んだあと薄板を元へ戻すばねが要る」


「工房には戻れない。でも、ここにはあった」


 リュドミラが、開かれた胴の中から動かない左翼へ目をやる。


「片翼が止まっても、こいつは鳴くわ」


 さっきも二度、ひどい声で鳴いた。上がったのは右翼だけだったが、警報具としてはそれで十分だった。


 ボレスラフの視線が、開かれた金貨から片翼を伏せた鳥へ落ちる。しばらくして、ゆっくりと顔を上げた。


「私には叔父を殺す理由がない」


「工房のことなら、昨日聞いたわ」


 ヴェロニカが即座に返すと、ボレスラフの口元が歪んだ。


「叔父とは何度も揉めている。昨日に始まった話じゃない。それで殺したというのか」


 今度は、さっきよりましな反論だった。


 母親の工房を売るなと食ってかかる姿は、私たちも昨日見ている。けれど、それが前から続いていた争いなら、昨日だけを選ぶ理由にはならない。


「ガリーナ」


 ヴェロニカに呼ばれ、ガリーナが抱えていた帳簿を開いた。昨日も予定を確認するときに見ていた頁だった。


「正式な署名は、本日の正午です」


 指先が一行をなぞる。


「セルゲイ様と買い手が署名し、印を入れれば、工房と道具、売却対象として登録された機巧品は引き渡される予定でした」


 ボレスラフの視線が、片翼を伏せた《夜鳴き鳥》へ落ちた。台座には、いまも【セルゲイ工房製】の名が残っている。


「でも、署名はされていない」


 私が帳簿から顔を上げる。


「はい。セルゲイ様が亡くなったため、売却の手続きはいったん停止しています」


 昨日、ガリーナが口にした「予定の確認」という言葉が、今になって別の意味を持った。


「理由は前からあった」


 ヴェロニカが帳簿を閉じるガリーナから、ボレスラフへ視線を戻した。


「でも昨日には、その期限が目の前まで来ていたのよ」


「それだけではないわ」


 ヴェロニカはボレスラフから目を逸らさなかった。


「あなたは最初から毒を持っていた」


「何を根拠に」


「《冬眠花》よ」


 今度は神殿医が、開かれた《嘆きの女王》へ目を落とした。


「金貨の針に残っていた濃度まで煮詰めるには、工程が要ります。ここへ来てから短い時間で用意できるものではありません」


 昨日、金貨を使う条件が揃ったのは、私たちが鑑定している最中だった。


 けれど、殺すための毒だけは、その前から出来上がっていた。


「その毒を持って、屋敷へ来たのね」


 ボレスラフはしばらく黙っていた。


「……ああ」


 ヴェロニカの声は淡々としていた。


「殺意を持って屋敷へ来て、殺し方だけをここで拾った」


 私は昨日のボレスラフの指先を思い出した。


 締め具をわずかに戻しただけで、《夜鳴き鳥》の反応を変えた手。あのときは、ただ腕のいい機巧師の仕事として見ていた。


 いま、その鳥は片翼を伏せている。開かれた金貨の中には、切り取られたばねを使った仕掛けが残っていた。


「優秀な機巧師ね。目の前の部品だけで、人を殺す仕掛けを作った」


「褒めているのか」


「結果を見ればわかるでしょう」


 ボレスラフは答えず、動かなくなった真鍮の翼を見た。


「叔父が悪いんだ。母の工房を担保だと言って取り上げ、私の作った物まで自分の名で売ろうとした」


 さっきまでの反論とは違った。


 ばねの出所も、金貨へ触れられた時間も、契約の期限も、もう口にしなかった。


「母が病気になったとき、金が要った。治療にも、暮らすにもだ」


 一度切れた言葉を、ボレスラフは拾い直した。


「借金は増えた。工房も担保になった。母が死んでも借金は残った。だから、あそこで働いた。返してきた」


 ガリーナが抱えていた帳簿を開く。昨日、売却の予定を確認していた頁より、少し前だった。


「返済は続いています」


 何行かを指で追い、そこで止める。


「元本は、まだ残っています」


「残っているから何だ」


 ボレスラフの声が強くなった。


「返すために作ってきた。なのに、私が作った物へ刻まれるのは叔父の工房名だ。自分の名で仕事を増やそうとしても、作った物まで叔父の物として扱われる」


 視線の先に、《夜鳴き鳥》があった。


 昨日、その台座を初めて見たときから文字は変わっていない。


【セルゲイ工房製・夜鳴き鳥】


 作ったのは、目の前にいる機巧師だった。


「そこで機巧を覚えた。母が死んだあとも、そこで暮らした。そこで働いた」


 ボレスラフは鳥から目を離さなかった。


「あそこは工房だけじゃない。母と暮らした家だ」


 誰もすぐには口を挟まなかった。


 昨日のセルゲイの声が、私の耳に戻ってきた。


 ――借金の担保として受け取った。どう扱おうと私の勝手だ。


「セルゲイと同じことをしたのね」


 ヴェロニカの声から温度が消えた。


「自分に必要な物を残すために、他人の命まで自分の物のように扱った」


 ボレスラフは片翼を伏せた鳥を見たまま、何も言わなかった。


 スヴャトスラフが部下へ合図する。騎士が左右から近づいても、抵抗はなかった。


 工房の売却手続きはいったん止まり、工房と製作品を含む権利関係は改めて確認されることになった。《嘆きの女王》と、左翼のばねを切り取られた《夜鳴き鳥》は、そのまま証拠品として騎士団へ預けられる。


 ガリーナの脅し文は、殺人とは別件として扱われることになった。


 差出人はガリーナで、殺人犯はボレスラフ。


 一枚の金貨を巡って二人が別々の秘密を持ち、互いが何を企んでいるか知らないまま、同じ男へ別々の敵意を向けていたことになる。


「呪いより人間の方が忙しいわね」


 ヴェロニカはそう言った。


 ガリーナは、証拠品として残される《嘆きの女王》へ目を向けた。


「《嘆きの女王》は、墓所へ戻されるのでしょうか」


* * *


 屋敷を出たところで、リュドミラが私を呼び止めた。


「さっきの話、次は正式な条件を持っていくわ」


「持ってこなくていいわ」


 ヴェロニカが即座に答える。


「それを決めるのは、ナターリヤでしょう?」


「正式な条件を見てから断る方が、判断として正確よ」


「断るところまで決めてるじゃない」


「可能性を示しただけだわ」


 リュドミラは楽しそうに馬車へ乗り込んだ。


「次は、相談料を増やされないようにするわね」


「接触の回数ではなく、意思の問題よ」


「分かりやすくなったと言ったでしょう」


 ヴェロニカが言い返す前に、馬車は走り去った。


 夕方の市へ入る直前、ヴェロニカが私の手を取る。


「迷子になる年齢ではないよ」


「あなたではなく、私がなる可能性を考慮したの」


「自覚はあるんだ」


「今日は相談料を受け取っていないから、帰り道まで失うわけにはいかないわ」


「二倍にしたのに?」


「請求額と受領額は別の問題よ」


 市の外へ出ても、手は離れなかった。


「もう人混みは抜けたよ」


「いま離すと、歩幅を合わせ直すのが面倒でしょう」


 その理屈なら、事務所まで面倒なままでいてもらうことにした。

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