4.第1話 後日譚① エカテリーナは磨かれたい
エカテリーナが事務所を訪ねてきたとき、ヴェロニカは依頼料の支払い方法を増やしていた。
帳簿の余白には、
【金貨】
【宝石】
【有益な秘密】
【将来の大きな恩】
と並んでいる。
「最後の二つは通貨じゃないよ」
「価値があるなら同じでしょう」
「大きさを誰が決めるの」
「私よ」
「依頼人に不利すぎる」
「料金制度は経営者に有利なほど長続きするわ」
扉が控えめに叩かれた。
入ってきたエカテリーナは、大神殿で会ったときと同じ灰色の服を着ていた。首筋の契約痕は薄くなっているものの、鎖の形はまだ消えていない。
「ご相談があります」
「支払い方法は四種類から選べるわ」
「増やした二種類は消して」
エカテリーナは小さな革袋を机へ置いた。中には銅貨が五枚入っている。
「足りますか」
「内容を聞いてから決めよう」
「まともなことを言わないで。経営方針が乱れるわ」
エカテリーナは銅貨ではなく、私の腰にある短剣を見ていた。
「ナターリヤさんへお願いがあります」
「私に?」
「磨いていただきたいんです」
私は自分の短剣へ目を落とした。
「何を?」
「私を」
ヴェロニカが椅子を引き、急に真剣な顔で座り直した。
「詳しく聞きましょう」
「あなたは黙ってて」
*
エカテリーナは、人の姿から細身の短剣へ変わった。
私の短剣を写したときとは違う。柄は黒木、鍔は小さく、刃には淡い波紋が走っている。
「これが、あなた自身の形?」
机の上へ置かれた短剣が、かすかに震えた。
人の姿へ戻ったエカテリーナは頷く。
「命令されずに変わると、この形になります」
「傷があるね」
刃の中央に細い曇りがあり、切っ先にも小さな欠けが残っていた。
「以前の所有者は、使えればよいと言って、手入れをしませんでした。欠ければ契約で形を戻し、錆びれば聖水へ沈めるだけでした」
「痛む?」
「人の姿では痛みません。でも、変わるたびに引っかかる感じがします」
「それで、磨いてほしいの?」
「はい」
「手入れの方法を教えることもできるよ」
「最初は、ナターリヤさんにお願いしたいです」
断る理由を探した。
人間を武器として扱ってはいけない。大神殿で、そう思ったばかりだった。
「迷っているのね」
ヴェロニカが言う。
「だって、エカテリーナは人間でしょう」
「だから、本人が磨かれたいと言っているのに、あなたが代わりに断るの?」
言い返せなかった。
エカテリーナは膝の上で両手を重ねている。
「武器として扱われたいわけではありません」
静かな声だった。
「自分の形を、自分で大事にしたいんです。でも、正しい手入れを知りません。教えてもらう前に、一度だけ、どうされるものなのか知りたいです」
「わかった」
私は鑑定台を空け、布と油と細かな砥粉を並べた。
「嫌になったら、すぐ人の姿へ戻って。途中でも止めるから」
「はい」
エカテリーナは短剣へ変わった。
*
刃へ油を薄く塗り、布を一定の向きへ滑らせる。
最初は固かった振動が、少しずつ穏やかになっていった。
「強すぎない?」
短剣が一度震える。
「それは、大丈夫?」
二度震えた。
「二度は何?」
人の姿へ戻ったエカテリーナが答える。
「もう少し強くても大丈夫です」
「先に合図を決めよう」
「一度が大丈夫、二度が止めてください、では?」
「いま二度震えたよね」
「間違えました」
「大事なところで間違えないで」
ヴェロニカが鑑定台の反対側から覗き込む。
「一度が続けて、二度がもっと強く、三度が止めて、でいいでしょう」
「磨かれてる最中に三まで数えられないよ」
「では、一度が続けて、激しく震えたら止める」
「基準が感覚的すぎる」
エカテリーナが小さく笑った。
大神殿では一度も聞かなかった声だった。
「一度が続けて、二度が止めて、でお願いします」
「今度は間違えない?」
「努力します」
「約束して」
「約束します」
もう一度、短剣へ変わる。
今度は、一度の振動だけが返ってきた。
私は切っ先の欠けを整え、刃の曇りを砥粉で薄く削った。傷を全て消そうとすれば、刃そのものまで細くなる。引っかかりがなくなり、これ以上広がらないところで止めた。
最後に柔らかな布で油を拭うと、淡い波紋が窓の光を返した。
「終わったよ」
人の姿へ戻ったエカテリーナは、自分の両手を開いたり閉じたりした。
「軽いです」
「削った量はほとんどないよ」
「重さではなくて」
彼女は胸元へ手を置く。
「ここが、引っかかりません」
それが刃の傷の感覚なのか、別の何かなのか、私にはわからなかった。
わからないままでもよい気がした。
「次は、自分で手入れできる方法を考えよう」
「短剣になったら、手がありません」
「まず、人の姿のまま刃の一部だけを出せるか試してみて。できるなら、自分の目で状態を見ながら磨ける」
「できなかったら?」
「刃を固定する台と、足で動かせる砥石を作る。自分で力加減を決められる形にするよ」
「作りましょう」
ヴェロニカが即答した。
「あなたは工作できないでしょう」
「設計するわ」
「椅子の脚を直そうとして、三本とも長さを変えた人が?」
「あれは床の方が歪んでいたのよ」
*
帰り際、エカテリーナは銅貨を机へ置いた。
「今日は手入れの見本だから、二枚でいいよ」
「五枚払います」
「次からは教える時間の分ももらう。それで十分」
「値段を依頼人へ決めさせるのは、よくない経営よ」
ヴェロニカが言う。
「私の仕事だから、私が決めるの」
「では、帳簿へ新しい支払い項目を追加しましょう」
「何を?」
「授業料」
「それは普通でしょう」
「残念ね」
エカテリーナは銅貨を二枚だけ置き、残りを袋へ戻した。
「次も来てよいですか」
「もちろん」
「今度は、教えてください」
「うん」
扉を開けたところで、エカテリーナが事務所の看板を見上げた。
【ヴェロニカ探偵事務所】
【相談料は依頼人の資産に比例】
「ナターリヤさんの名前は、ないんですね」
ヴェロニカの動きが止まった。
「同行鑑定士だからよ」
「助手ではないんですよね」
「ええ」
「では、何と書くんですか」
ヴェロニカは答えず、エカテリーナを扉の外まで送り出した。
*
その日の夜、看板の下へ新しい木片が立てかけられていた。
【武具の手入れは応相談】
「勝手に私の仕事を増やさないで」
「まだ掛けていないわ。立てかけただけよ」
「言葉の意味を細くしないで」
ヴェロニカは木片を裏返そうとした。
私はその手を止めた。
「内容は、これでいい」
「いいの?」
「私が受けるかどうかは、相談されたときに決める。その条件なら」
ヴェロニカは私の顔と木片を交互に見たあと、釘を一本差し出した。
「掛ける?」
「うん」
二人で木片を看板の下へ留めた。
「私の名前じゃないんだ」
「まだ適切な呼び方が決まっていないもの」
「料金表はすぐ決めるのに?」
「金額より難しい問題もあるわ」
それだけ言って、ヴェロニカは新しい木片の端を布で磨き始めた。




